第65話
私達を乗せた小舟は、静かに海を進んでいた。
船は指定された小さな砂浜にぽつんと置いてあった。所々が少しだけ傷んだ、でも穴もなく真っ直ぐ進む小舟だった。
小舟には、水属性の魔力を動力とする魔道具が載せられていた。私の世界でいう、エンジンのようなものだ。
途中、面白がった水の精霊が勝手に魔力を注ぎ込み、全員が振り落とされそうなくらい加速するという事故があったが、何とか全員無事だった。
「体が痛い……」
そう呟いた私を、リオンが笑った。
「そりゃあ、あれだけ暴れればね。数日は全身が痛むと思うよ」
彼の腕に私が作った傷は、もう塞がっていた。
彼の体は死ぬことはない。傷も自然に治癒する。痛みも感じない。
けれど、そこに容赦なく爪を立てた記憶は、私の中にある。
「ごめんなさい、リオン……」
「別に、聖女様のせいじゃないでしょ」
すぐにそんな声が返る。そしてからかうような言葉も。
「オズウェルがもっと早く気付いていたら、防げたかもね」
思わず顔を上げる。その先でオズと視線がぶつかった。
「オズのせいじゃ……!」
慌てて声を上げるものの、その表情からは相変わらず何も伺えない。
迷惑をかけてしまった後ろ暗さがあるせいか、責められているようにさえ感じる。
「ごめんなさい……」
そう呟いても、返事はなかった。
静寂の中、船が水を裂いて走る音だけがしばらく響いていた。
「……ここからは、どうするの?」
そう訊ねてみる。
この船はもうしばらくすれば聖都へと辿り着く。小型で音も静かなおかげで、誰にも見付からずに速く走ることが出来た。
だが、そこから先は未定だ。
「さすがに王城や大聖堂の辺りは監視が厳しいから、人の気配のない方に船を着けるしかないな。どこかで休まないと厳しそうだし。まだ顔色も悪いしね」
そう言いながら、リオンは私を見た。確かに、そうでもないとは言えないほど疲弊している。
休息を取れるのは、正直ありがたい。
「僕のいた森の裏に着ける。あの森に好き好んで近付く者など、ほとんど居ない。比較的安全だろう。精霊王召喚の媒体も回収する必要がある」
そう言ったオズの声に反対する声はない。静かに、目的地が決まった。
少しだけ船の上でうたた寝をした頃に、森の裏手の砂浜へと降り立つことが出来た。
ベリルの黒炎によって、小舟は跡形もなく焼かれていく。焦げた残骸が崩れ、次々と海へ沈んでいった。
証拠は残さない方が良い。そういう判断によるものだった。
見上げた森は、なんだか懐かしく感じた。
相変わらず色のない大木が、真っ直ぐに天を目指して生えている。
時間が止まったように暗い森だった。
オズが先導し、その森の中を進んでいく。獣の息遣いさえない、深い霧に覆われた森の中を迷わず歩く。
そしてしばらくして、一本の大木の前で止まった。
「ここだ」
そう告げて木の幹へと触れると、私が初めて彼に会った時のまま、その大木の幹に扉が生み出された。
「この木、旅に出る時に燃やしてなかった?」
てっきりこの木ごと燃えてしまったのだと思っていた。
だがオズは首を横に振る。
「燃やしたのは中身だけだ」
それだけ短く返し、扉を開いてその向こうへと姿を消す。
私も追い掛けて扉を潜ると、その先には確かに何も無かった。
何の家具もない、空っぽの壁と床があるばかりだ。壁や床に燃えた痕跡もない。
「じゃ、今日は一日ここで休息だな。情報屋と連絡を取る必要もあるだろ」
リオンはそう言って、床に座り込み足を投げ出す。
ベリルもリオンから距離を取るようにして、部屋の隅に座り込んだ。
オズはといえば、今は何事もないかのような顔色で奥に続く部屋へと向かっているところだった。
「オズ、休まないの?」
そう問い掛けるとオズは一度視線だけで振り返る。
「精霊王を召喚する媒体が必要だろう」
それだけ言って、扉の向こうへと消えていった。
一瞬追い掛けるか迷うものの、恐らく私が手伝えることもない。
代わりに辺りを見回してみる。
(前はこの部屋にテーブルも、椅子もあったのにな)
なんだか少しだけ恋しく思ってしまう。
最初に立ち入った時には、床もテーブルの上も大量の紙と本で埋め尽くされていた。
その面影は、もうどこにもない。
少し歩いて、オズが消えた扉とはまた違う扉を押し開いてみる。
そこはオズの私室といってもいい部屋だった。滞在した数日の間、オズはずっとその部屋にいて、本と向き合っていた。
(確かここにテーブルがあって、あっちに本棚があって……)
その部屋にも、もう何も残されていない。ただがらんとした真四角の部屋だ。
かつて机が置かれていた場所に、腰を下ろしてみる。
「ここで、初めてオズに死に戻りの話をして。精霊師という存在のことを聞いて……ジルはそこに寄りかかって話を聞いていた」
記憶を辿れば、まだ新しいような、懐かしいような。不思議な気持ちになる。
死に戻る前にも、もしかすると私はジルに連れられて、ここを訪れたことがあったのかもしれない。私が覚えていないだけで。
そしてその時にも、オズと共に旅をしたのだろうか。
「媒体を揃えて、四属性の精霊王を召喚する。……そうしたら、私は」
帰れる。愛しい家族の待つ場所に。
もちろんベリルとの約束もある。大聖堂に捕らえられているベリルの子供を解放してあげなくてはならない。
「だけど、もうすぐだ」
最初に途方に暮れていた時には全く見えなかった希望が、もう手の届きそうな位置にある。
嬉しいはずなのに、それに比例するように心がどこか重くなる。
もうすぐ会えるはずの家族を想うと心が温かくなるのに、心の芯は冷たいままだ。
そっと膝を抱えて背中を丸める。
「……みんなと離れるのは、寂しいな」
目を伏せればすぐに仲間達の顔が浮かぶ。
シャルネは、どちらの感情も持っていていいと言ってくれた。
その言葉を支えにして、無理矢理に心を前に向かせる。
ゆっくりと意識が静寂の中へ沈んでいく感覚に逆らわず、思考を手放しかけた、その時。
地面が、床が、大きく揺れた。
「わ……! 地震!?」
思わず姿勢を崩して床に両手をつく。
リビングの方から声が聞こえ、私は扉を開いてその部屋へと駆け込む。
倒れるような家具もない部屋の中は相変わらずで、リオンもベリルも、いつの間にか戻っていたオズも落ち着き払っている。
地震の多い国で生まれ育ったはずの私だけが一人で慌てていた。
「い、今の揺れは……!?」
私の声に振り返ったオズの手には一通の便箋があった。
いつもジルが送ってくるものと同じ紙だ。
「各地に突然魔物が現れ、街を襲っているそうだ。情報屋は、教皇か聖王が関与している可能性が高いと踏んでいる」
「な……」
予想外の話に言葉が詰まる。
ベリルは少しだけ表情を険しくして、口を開いた。
「余の眷属ではない。気配を感じ取れぬ。魔族の血族とは違う、何か他の……」
途中で思考を挟むように、声は途切れる。
少しの間の後でオズが静かに口を開いた。
「偶然と、考えるべきか。あるいは……」
私達が襲われた直後に、突然現れた魔物。
いや、魔族に連なるものではない『何か』。
それが何なのか。
その問いに答えられる人は、誰もいなかった。
お読みいただきありがとうございます。
評価やブックマーク等で応援いただけると、執筆の励みになります!




