第64話
「追跡……?」
言葉の意味を理解した途端、頭の奥で何かが強く脈打った。
崖へ行かなければ。
下へ落ちなければ。
その考えが、先程までよりも鮮明に膨れ上がる。
「離して!」
再び身体を捻る。リオンの腕から抜け出そうと足をばたつかせるが、拘束は少しも緩まなかった。
「そのまま押さえていろ」
「簡単に言うね。聖女様、自分の腕が折れても構わないみたいだよ」
「折らせるな」
「分かってるよ」
リオンは私の両手首を片手で纏め、もう片方の腕を私の身体へ回した。
力任せに動けば、肩や肘に痛みが走る。それでも身体は止まろうとしなかった。
「大賢者。船は既に入江にある」
ベリルが海岸の方角へ顔を向けたまま告げる。
月明かりも陰った空の下で、赤い宝石のような瞳は暗闇の向こうが見えているようだった。
「小舟が一艘、岩陰に繋がれている。船を置いた者の姿は無い」
「そうか」
「だが、時間はあまり残されておらぬ。夜の内に発たねばならぬのだろう」
ベリルの言葉に、リオンが小さく息を吐いた。
「船に乗ってから何とかするってのは?」
「無理だ」
オズは即座に否定した。
「術はこいつの意識にまで食い込んでいる。解除には緻密な魔力操作が必要だ。揺れる船上で行えば、僅かな狂いが後遺症として残る可能性がある」
「後遺症……?」
その言葉に、不安が胸を過ぎった。
けれど、それさえもすぐに別の衝動に押し流される。
そんなことはどうでもいい。
早く崖へ行かなければならない。
「なら、ここでやるしかないか」
「そういうことだ」
「夜が明ければ、海へ出たところを見つかるよ」
「分かっている」
淡々と返したオズが立ち上がる。
「小屋へ戻る。ここは足場が悪い」
「私を離して!」
叫んだ瞬間、リオンが私の身体を軽々と抱え上げた。
「悪いね。歩かせたら、また崖に向かうだろ」
「行かなきゃいけないの! お願い、離して!」
「どこへ行くかも分からないのに?」
「分からないけど……行かなきゃ……!」
自分の言葉が酷くおかしいことは分かっていた。
何故、崖から落ちなければならないのか。
落ちた先に何があるというのか。
考えようとすると、頭の中を白い靄が覆う。その奥から命令だけが繰り返し響いてくる。
行け。
身を投げろ。
精霊の力を呼び起こせ。
(精霊の、力……?)
その言葉が浮かんだ途端、頭を内側から強く締め付けられた。
「っ、あ……!」
視界が歪み、思わず呻く。
体から力が抜けたが、リオンに抱えられていたため倒れることはなかった。
「今、何に反応した」
オズが足を止めて振り返る。
「分からない……頭が、痛い……」
「聞こえている命令を口にしろ」
「命令なんて……」
無いと言おうとした。
けれど、口が動かない。
喉の奥が固まり、息だけが苦しく漏れた。
オズは私の反応を見て、僅かに目を細める。
「術に関する情報は、やはり妨害されるか」
「随分と念入りだね」
「それだけ、確実に動かしたかったのだろう」
小屋へ戻ると、リオンは私を古びた床へ座らせた。
背中から両腕を回され、身体ごと押さえ込まれる。脚も逃げ出せないように挟まれ、ほとんど身動きが取れない。
「痛かったら言ってよ。怪我されると困るからさ」
「今すぐ離して」
「それ以外なら聞くよ」
リオンの声はいつもと変わらず軽い。
けれど、私を押さえる腕は決して緩まなかった。
オズは私の正面に膝をつき、右目に掛かるモノクルを外した。それをローブの内側へしまい、両手を私のこめかみへ添える。
冷たい指が触れた瞬間、身体中に悪寒が走った。
「嫌……!」
「動くな」
「触らないで!」
頭を振ろうとしたが、オズの手に固定される。
オズの視線が物言いたげに、私の背後のリオンへと向いた。
「おい」
「だって。これ以上は、かなり強く押さえないと無理だよ」
「構わない。死にはしない」
「注文が多いね」
ぼやきながら、リオンが腕へ力を込めた。
胸が圧迫され、浅い呼吸しかできなくなる。
オズに触れられている場所から、細く冷たい魔力が身体の内側へと流れ込んでくる。
先程とは違う。
今度はゆっくりと、慎重に。
蜘蛛の糸のように細い魔力が、頭の中へ張り巡らされた何かを探している。
「やめて……」
言葉が震えた。
何をされているのか分からないのに、酷く恐ろしかった。
胸の奥から込み上げる恐怖は、私自身のものではないような気がする。
その魔力から逃げろ。
触れさせるな。
術を壊させるな。
頭の中で、誰かの声が怒鳴っている。
「嫌! やめて、オズ!」
全身に力を込めて暴れた。
リオンの腕に爪を立て、足を床へ叩き付ける。けれど、どれほど抵抗しても逃げられない。
オズは目を閉じたまま、微動だにしなかった。
「外から入り込んだ魔力が、記憶と感情に沿って根を張っている」
「取れそうか?」
「時間を掛ければな」
「その時間がないんだけど」
「なら黙っていろ。気が散る」
冷たく言われ、リオンが口を閉じた。
その時、扉の近くに立っていたベリルが外を確認する。
「余は周囲を見てくる」
赤い瞳が、ほんの一瞬だけ私へ向けられた。
「勇者。聖女を離すなよ」
「言われなくても分かってるよ」
ベリルは扉を開き、夜の闇へ姿を消した。
冷たい風が吹き込み、私の黒髪を揺らす。
その風に呼ばれるように、意識が崖の方角へ引かれた。
「行かなきゃ……」
「行かせないよ」
「精霊を、呼ばないと……」
口に出した瞬間、頭の奥に焼けるような痛みが走った。
まるで私の罪を罰するようだった。
「うあっ……!」
悲鳴が漏れ、視界が白く弾ける。
オズの視線が私へと向く。
「今、何と言った」
「分から、ない……」
「精霊を呼ぶって言ってたろ」
「私が……?」
そんなことを言った覚えはなかった。
けれど、唇には確かに言葉を発した感触が残っている。
オズの視線が鋭くなる。
「予想通りだ。崖から落下させ、強い精霊の力、もしくは精霊王の力を強制的に引き出すことが命令の目的だ」
「やっぱり居場所を探るためか?」
「ああ。精霊の力を追えるのか、あるいは発動した場所を特定する別の手段がある——と考えるべきだろうな。まだ推測の域を出ないが」
オズの指先から流れ込む魔力が、僅かに強くなった。
頭の中で、細い糸が引かれる。
その瞬間、知らない誰かに意識を掴まれたような感覚がした。
「いやっ!」
無我夢中で身体を反らす。
頭蓋の奥から何かを引きずり出されるような痛みに、涙が溢れた。
「やめて! 痛い、オズ!」
「動くな。まだ深いところには触れていない」
「痛いの!」
「術が抵抗しているだけだ。お前自身を傷付けてはいない」
「もういいから、離して……!」
「駄目だ」
オズの声には迷いがなかった。
私がどれだけ泣いても、訴えても、手を離そうとはしない。
頭の奥で、何かが必死に逃げ回る。
オズの魔力はそれを追い、絡み付いた糸を一本ずつ見つけ出していく。
時間の感覚がなくなっていった。
ただ、痛みと、崖へ行かなければならないという衝動だけが残っている。
やがて、扉がまた開く。
「大賢者」
戻ってきたベリルの声が聞こえた。
「海上に巡回船は見えぬ。だが、東の空が白み始めた。猶予は僅かだ」
「あと少しだ」
「本当に?」
リオンが問う。
「ああ。もう見つけた」
オズの両手に込められた魔力が、これまでよりも細く研ぎ澄まされていく。
「ここから先は、絶対に動かすな」
「分かったよ」
「何をするの……?」
震える声で尋ねる。
オズは私の瞳をまっすぐに見据えた。
「お前の中に残った術者の魔力を切り離す」
「怖い……」
「そうか」
それだけ答え、オズは目を閉じた。
冷たい魔力が、頭の最も深い場所へ触れる。
何かが切れる音がした。
実際に聞こえたわけではない。
けれど、確かにそう感じた。
激しい痛みと共に、頭の中へ張り巡らされていた糸が一斉に千切れる。
声にならない悲鳴を上げた直後、身体から全ての力が抜けた。
崖へ行かなければならない。
そう繰り返していた衝動が、嘘のように消えている。
残ったのは、頭の奥の鈍い痛みと、全身を襲う酷い疲労だけだった。
「……私……」
自分が何をしていたのか思い出し、息が震える。
「私、崖から……」
「術は切れた」
オズが手を離した。
リオンの拘束もようやく緩む。けれど、身体に力が入らず、そのまま彼の腕へ寄り掛かってしまった。
「もう、行かなくていいの……?」
「ああ」
短い返事に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
その直後、ベリルが開いた扉の向こうを見て告げる。
「感傷に浸っている暇は無い。夜が明けるぞ」
「聞いた通りだ。立て」
オズが立ち上がる。
私も床へ手をついたが、脚が震えて上手く力を込められなかった。
「待って。まだ、立てない……」
「なら俺が運ぶよ」
リオンはそう言うと、返事を待たずに私の身体を抱え上げた。
「わっ……!」
「今度は海に飛び込もうとしないでよ」
「しないよ!」
反射的に言い返したものの、崖の外へ足を踏み出した感触を思い出し、声が弱くなる。
「……多分」
「そこは言い切ってほしいところだよね」
リオンの軽口に、僅かにいつもの調子が戻ってきた。
オズは既に小屋の外へ出ている。
「急げ。小舟が見つかる前に岸を離れる」
空はまだ暗い。
けれど、夜の端には確かに朝の白さが滲み始めていた。
私達は誰もいなくなった小屋を後にし、岩陰に隠された小舟へと急いだ。
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