第63話
その夜、小屋には波が岩肌を叩く音だけが微かに届いていた。
窓は板で塞がれ、扉も閉じられている。隙間から入る僅かな月明かりを頼りに、私は古びた壁へ背を預けて座っていた。
オズとベリルは、ジルが手配した船が入江に着いているか確認しに出ている。
小屋に残っているのは私とリオンだけだ。
リオンは扉の側に腰を下ろし、大剣を壁へ立て掛けていた。目を閉じてはいるが、眠っているわけではないのだろう。
私も少し休んでおくように言われたものの、なかなか眠気は訪れなかった。
聖堂兵の姿が、瞼の裏に何度も浮かぶ。
あの輝くような金色の瞳。
私をまっすぐに見つめていた、あの魔術師。
オズは何かを警戒していた。それなのに、結局何も見つからなかった。
(何だったんだろう)
そう考えたところで、頭の奥に鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず額へ手を添える。
「どうした?」
すぐにリオンの声が飛んできた。
「ううん。少し頭が痛かっただけ」
「平気?」
「もう治ったよ。大丈夫」
「そう」
実際、痛みは一瞬で消えていた。
リオンも、それ以上は何も言わなかった。
再び静寂が戻る。
波の音。
風が板壁を撫でる音。
自分の呼吸。
それらを聞いているうちに、瞼が次第に重くなっていった。
いつの間に眠りへ落ちたのかは分からない。
けれど、不意に瞼が開く。
辺りは先程と何も変わっていない。小屋の中は暗く、窓の隙間から差し込む月光も細いままだ。
ただ、行かなければならないと思った。
どこへ、と考えるよりも早く、私は立ち上がっていた。
音を立てないように床を踏み、扉へ向かう。
扉の側にいたリオンの横を通り過ぎたが、彼は動かなかった。
起こさずに済んだ。
何故そう思ったのかは分からない。
扉を僅かに開き、身体を滑り込ませる。冷たい夜風が頬を撫でた。
外は暗い。
月明かりに照らされた細い道が、崖に沿って伸びている。
私は迷うことなく歩き始めた。
一歩。
また一歩。
足元には石が転がり、草の根が地面から飛び出している。それでも、躓くことはなかった。
道を知っているような気がした。
どこへ行けばいいのか、身体のほうが分かっていた。
「聖女様」
背後から声を掛けられた。その場で立ち止まって振り返る。
少し離れた場所にリオンが立っていた。いつの間に追い掛けてきたのだろう。
「どこに行くの?」
「少し、外の空気を吸いに」
自分の口から、淀みなく言葉が出た。
そんなことを考えて小屋を出たわけではない。
けれど、嘘をついたという感覚もなかった。
「外の空気なら、小屋の前で十分だろ」
「眠れないの。少し歩いたら戻るから」
「なら俺も行くよ」
「来ないで」
思った以上に強い声が出た。
リオンが僅かに首を傾ける。
私は彼へ背を向け、再び歩き始めた。
「随分と嫌われたもんだね」
軽い調子で言いながらも、リオンの足音は後ろからついてくる。
それが酷く煩わしく感じられた。
来ないでと言ったのに。
邪魔をしないで。
胸の奥から込み上げる苛立ちに、息が詰まりそうになる。
歩みが次第に速くなった。
「待て」
リオンの声も近付く。
私は振り返らなかった。
やがて道の先に、暗い海が見えた。
切り立った崖の下で、黒い波が白く砕けている。
そこへ行けばいい。
そこまで行ければ。
あと少し。
「あんた、そっちは崖だよ」
分かっている。
その言葉は口から出なかった。
崖の縁まで進み、足元へ視線を落とす。
遥か下に、荒れた海面があった。
落ちれば助からない。
そう理解しているのに、不思議と恐怖は感じなかった。
ただ、一歩進めばいい。
「おい」
リオンの声から、軽さが消えた。
私は右足を持ち上げた。
足先が、崖の外へ出る。
「レイア!」
身体が強く後ろへ引かれた。
視界が反転し、背中が硬いものへぶつかる。気付いた時には、リオンの腕が私の身体を抱えるように押さえていた。
「何してる!」
「離して!」
考えるよりも早く叫んでいた。
腕を振り解こうと身体を捻る。しかし、リオンの力には到底敵わない。
「離して! 行かなきゃ!」
「どこに!」
「離して!」
自分でも、どこへ行くのか分からなかった。
けれど、崖の下へ行かなければならない。
今すぐに。
リオンの腕へ爪を立てる。傷付けても構わなかった。
振り向きざまに顔を殴ろうとしたが、手首を掴まれる。
「落ち着けよ! あんた、何かおかしいぞ!」
「邪魔しないで!」
足を振り上げ、何度も地面を蹴る。
身体が痛んでも、息が苦しくなっても止められなかった。
行かなければ。
崖から、落ちなければ。
そうしなければならない。
「くそ……!」
リオンは私の両腕を纏めて押さえると、そのまま地面へ膝をついた。
背後から抱え込まれ、身動きが取れなくなる。
それでも私は暴れ続けた。
「離して! お願い、離して!」
「さすがに、それは聞けないよ」
「行かなきゃいけないの!」
「だから、どこに行くんだって聞いてるだろ」
答えられない。
分からない。
分からないのに、行かなければならない。
その時、背後から複数の足音が近付いてきた。
「何をしている」
冷たい声が夜闇に響く。
オズだった。
その隣にはベリルもいる。
「見れば分かるだろ。こいつ、崖から飛び降りようとしたんだよ」
リオンの返事を聞いたオズの表情が、僅かに険しくなった。
こちらへ歩み寄り、私の前で膝をつく。
「離して、オズ。リオンに離すように言って」
「黙っていろ」
「お願いだから……!」
伸ばされたオズの指が、私の顎を掴んだ。
強引に顔を上げさせられ、銀色の瞳が私の目を覗き込む。
逃げなければ。
この目を見てはいけない。
そう思った途端、頭の奥に激しい痛みが走った。
「いやっ!」
咄嗟に顔を背けようとする。しかし、オズの指は離れない。
「やはり、あの時か」
苛立たしげに呟き、オズは私の額へ手を翳した。
何かが身体の内側へ入り込んでくる。
冷たく細いものが、頭の中を探るように這い回った。
「やめて!」
恐怖よりも先に、激しい拒絶が湧き上がる。
私は再び身体を捻った。
リオンの腕に押さえ込まれているのに、どうにか抜け出そうと無茶苦茶に暴れる。
「随分と強く掛けられているな」
「洗脳か?」
ベリルが問う。
「暗示の類だ。聖堂兵の中にいた魔術師——やはり、あの瞬間だろう」
オズは私の額から手を離さず、崖の先へ一度だけ視線を向けた。
「こいつを殺すことが、目的ではない……」
思考を整理するように、低く呟く。
「崖から落とそうとしたのにか?」
「聖女が死ぬ前に精霊が動く。それを知っているのだろう」
リオンの腕が、僅かに強く私を押さえた。
オズの銀色の瞳が険しく細められる。
「教皇側は、精霊王の力を追跡する術を持っている可能性がある」
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