第59話
エルフの里の中心を抜け、さらに奥へと進む。
朝靄の中、白い石造りの家々は静かに佇んでいた。
行き交うエルフたちは昨日と変わらず穏やかで、私たちが通り過ぎるたびに柔らかな笑みを向けてくれる。
けれど、ジルとシャルネが隣にいないだけで、同じ景色が少しだけ違って見えた。
前を歩くリオンはフードの下から周囲を警戒している。
ベリルは視線だけで里の景色を見回しながらも、余計なことは言わない。
その二人に続いた私の後ろをオズが歩く。空気がやけに静かに感じた。
「こちらだよ」
穏やかな声が聞こえた。
顔を上げると、少し先の木陰にシルフェインが立っていた。
以前と同じように形の崩れない笑みを浮かべ、とんがり帽子を片手で軽く押さえている。
まるで最初から、私たちが来ることを知っていたかのようだった。
「決めたんだね?」
問われて、私は小さく息を呑む。
風の精霊王と契約する。その先に何が待っているのかは分からない。
けれど、ここで立ち止まってしまえば、きっと何も変わらない。
家族に会いたい。元の世界へ帰りたい。
その願いは、今も変わらず胸の中にある。
私は一度だけ拳を握り、それからシルフェインを真っ直ぐに見た。
「……はい。風の精霊王に会いに行きます」
声は少し震えていた。
けれど、言葉にした瞬間、不思議と胸の中が静まっていく。
シルフェインは満足そうに目を細めた。
「いい返事だ」
そのまま踵を返し、里のさらに奥へと歩き出す。私たちもその後に続いた。
進むにつれて、人の気配は少しずつ遠ざかっていく。
家々の並びが途切れ、代わりに背の高い木々が道の両側を囲み始めた。
穏やかな風が吹いている。けれど、不思議だった。
木々は揺れているのに、肌を撫でる風はほとんど感じない。
ただ、耳元で微かな歌声のような音だけが通り過ぎていく。
「ここから先は、里の者でも立ち入れない」
前を歩きながら、シルフェインが言う。
「風の神殿は、ただ奥にあるだけの場所ではない。招かれなければ、辿り着くこともできない」
「招かれなければ……」
思わず繰り返す。
シルフェインは振り返らずに頷いた。
「君はもう、招かれているよ。精霊師」
やがて森が開ける。
その先には、緑に包まれた神殿が見えた。
蔦と花に彩られた白い柱は、やはり幻想的で美しかった。
「ここが……風の神殿」
呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
シルフェインは神殿の入口の前で立ち止まり、静かにこちらを振り返る。
「この先で待っているのは、風の精霊王だ」
その笑みは相変わらず穏やかだった。
けれど、昨日までよりも少しだけ厳かに見える。
「恐れなくていい。ただし、偽らないことだ。風は、心の揺らぎにも敏い」
私は深く息を吸い、神殿の扉を見上げた。
「……はい。行きます」
そう言うと、閉ざされていた白い扉が、音もなく内側へ開いていった。
シルフェインを神殿の外に残し、私たちは白い扉をくぐった。中は驚くほど静かだった。
白い石壁に蔦が這い、どこからともなく柔らかな風の音が聞こえてくる。けれど、魔物の気配はどこにもない。
「……ここに魔物はいないんだね」
「今までとは違うみたいだな」
ジルのいない静けさの中で、リオンが小さく呟く。
神殿の奥まで進むと、何もなかった空間がふわりと揺れた。淡い光が集まり、風に縁取られた入口が現れる。
「精霊王の領域か」
オズが呟く。
リオンが手を伸ばすが、見えない壁に阻まれるように止まった。
「やっぱり、聖女様だけみたいだね」
私は小さく頷き、皆を振り返る。
「……行ってくる」
そう告げて、私は一人、その風の中へ足を踏み入れた。
風の中を抜けた先に広がっていたのは、空だった。
足元には地面があるはずなのに、見下ろしても果てしない青が続いている。上下の境目すら曖昧で、ただ澄んだ風だけが辺りを満たしていた。
その中心に、巨大な影が立っている。
人の形をしているようで、人ではない。
輪郭は常に揺らぎ、流れる風でその存在が創られている。
顔は見えない。けれど、こちらを見下ろしているのだけは分かる。
私は静かに膝をついた。
「……風の精霊王」
声は風に攫われることなく、不思議とはっきり響いた。
頭を下げると、周囲の風が柔らかく揺れた。
「水、地、火の加護を受けし者。最後に我が元へ辿り着いたか」
声は風そのものが震えるように、辺り一面から響いた。
「我の加護を望むのか?」
それは全てを知った上で、確認するような問いだった。
心を決めたはずなのに、すぐに口を開くことが出来ない。けれど、震えそうになる指先を握りしめ、私は頷いた。
「はい」
突然、足元から突風が巻き起こる。だがその風は私を襲うことはせず、ただ髪を靡かせるだけだった。
四つ目の加護が、私の中に宿った。風の気配を、確かに自分の中に感じる。
深々と頭を下げて、感謝を示した。だが。
「………………」
風の精霊王は、まだそこに居た。
今までの精霊王はすぐに消え去ったり、私を神殿へ戻してくれたものだが、まだすぐそこに圧倒的な気配を感じる。
間違えるはずもない。
(私の心を、読んでいるのかもしれない……)
そう思った。
私はそっと顔を上げて、ずっと頭の中にあった問いを口にしてみる。
「……精霊王様。私の死に戻りの能力は、制御出来ないものなのでしょうか」
沈黙が返る。だが、言葉を選びもう一度問い掛ける。
「旅の初めではなく……望む瞬間に戻ることは、出来ないのでしょうか?」
ずっと思っていた。
もしまた死に戻ることが出来たとして、彼らと出会った後の時間に戻れたらと。
だがそんな都合の良い話があるはずも無い。
当然、期待などしていなかった。だが。
「座標を知る者の手で、戻されたのなら叶うだろう」
「……えっ」
思わぬ答えが返ってきた。
咄嗟に言葉を返そうとしたが、その声は届かなかった。
突然床が抜けたように、私の体が空に落ちていったのだ。精霊王の領域を抜け、人の世界に帰る時の感覚だ。
私の体が、風を纏っている。
その風に守られ、落ちていく恐怖は無い。遥か上を見上げても、もうそこに精霊王の姿は無かった。
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