第5話
「うっ……!」
ガツンと頭を殴られたような痛みに思わず呻いて、意識は浮上する。見慣れない床が近い。どうやら床に頭を打ち付けたのだろう、遅れて頬も顎も痛み出す。
が、そこを押さえることは叶わなかった。腕が背中側で固定されてしまっている。気付いて無理矢理に動かそうとしても指先がもがくばかりで、腕にはきつく縄が食い込んでいた。
そんな動作すら咎めるように、頭を床に押し付けられて、また呻き声が漏れる。
誰かが、私の体に乗り上げて頭を押さえつけていた。
もがくように唯一自由に動く視線だけを彷徨わせる。先程いた場所よりももっと狭い牢の一室だった。同じような部屋が幾つかありそうだったが、他の囚人の気配は無い。
牢の廊下を歩く、一つの足音が響く。それを辿って視線を持ち上げていけば、そこには。
「エ……スティラ……」
口にし慣れた名前を呟く。だがいつものような笑みが返ることはなく、いうなれば机の上を這う羽虫を見付けたような。無害だが、鬱陶しい。そんな存在を見るような視線だけが向けられた。
心臓が痛いほど波打ち、同じリズムで喘ぐような呼吸が漏れる。まるでここに空気など無いかのように、まるで首でも絞められているかのように。あまりの緊張で上手く息が出来ない。
「貴女が悪いのです。上手に使ってあげようと思っていたのに…」
失望。といえば、言い過ぎだ。
ちょっと面白そうと思ったゲームがつまらなかった。そんながっかり感。それを乗せて、形の良い唇から小さく吐息が漏れる。
「知らずとも良いことを知ってしまった、視てしまった。貴女がね」
まるで私が悪いとでも言わんばかりに。
それがどういう意味なのか私は気付いていた。いや『知っていた』。
『こんなはずじゃ、無かったのにね』
気を失う前にも聞いた声が、また耳元で囁く。
(こんなはずじゃなかった……!)
涙も滲まない。
ただエスティラ、彼女の向ける眼差しに、既視感のようなものを覚えながら。
「やりなさい」
何の情も、躊躇いも一切無い声。
氷のような声で、教皇が告げる。私を拘束する男が、剣を振り上げる。だが一切の身動きが出来ない状態で、避けられるはずもない。
(いや、避けてはだめ。苦しみが延びるだけだから)
『そう、私は知っている』
存在しないはずの記憶が、警鐘を鳴らす。
避けてはいけないのだ。上手く首が落ちないと、痛くて痛くて、苦しいから。
(どうして)
『また、戻るだけ』
その声は言う。どうしてか、ここにきて安堵のような感情が沸き出す。
最後に瞼を伏せれば、その裏に愛しい家族の顔が過った。もう最後にその顔を見たのは、まるで何年も前のようで、上手く思い出せないが。
(お父さん)
笑顔は覚えている。
(…私の、可愛い…かわいい弟)
私を愛してくれた、大事な家族。
(……会いたい)
必ず帰るから。何度だって、やり直して。
(お母さん)
『また、戻ろう』
風を裂くような音を纏った重い刃が、首を貫いた。
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「――っ、は…!」
シーツを握り締めながら飛び起きる。
うるさい心臓の音を聞きながら咄嗟に手を伸ばしたのは自分の首。確かに刃が裂いたと思われたその場所は傷一つ無く、じっとりと汗で湿った肌が指先にまとわりつくだけだった。
『また、戻るだけ』
耳に張り付いた声が、また囁くようだった。
振り払うように軽く頭を振る。
ほんの数秒前まで肺に吸い込んでいた湿った空気が今も鼻先に絡んでいるようで、思わず眉間に皺を寄せる。
(ここは……)
昨日までこの部屋で寝起きしていたのだ。今さら間違えるはずもない。
聖女に与えられた、大聖堂の一室だ。けれども違和感が拭えない。
「……死んで、戻った」
無意識に呟く。まるで『そう』だと知っているかのように。
その後、部屋へやってきたエミリーを見て、それは確信に変わった。死に戻る日には肩のラインで切り揃えられていた彼女の栗色の髪は、出会った頃のように腰の長さにまで伸びていた。
一年間で縮まった距離が再び開いてしまったように、どこか距離感のあるエミリーへ自然な流れで質問を繰り返し、確信する。
今日はやはり、一年前の春。私がこの世界に来て、ほんの数日後だった。
(この時期はまだ、私が聖女であることをほとんどの人が知らないはず)
私が聖女と名乗ることを決めたのは、元の世界に帰る術が無いと知ってしばらくしてのことだった。しばらくは落ち込んだが、それならばここで出来ることから頑張ろうと決めた日。それは今よりも先の未来の話だ。
(聖女としてみんなに知られてしまえば、もう逃げられない。逃げるなら今だ――!)
一年後の今は、私と顔を合わせるだけで皆が挨拶をしてくれる。そうなってしまえば隠密行動は難しい。
だが今はまだ、聖服――聖徒だけが纏うことを許される白い法衣――を纏った、ただの聖徒の一人だ。表向きは。
自由は、いつだって与えられていた。街に降りるのも許可されていた。思い返せば、どうせ行く先も無いのだ。逃げるはずも無いと踏んでいたのだろう。
私は部屋に備え付けられたクローゼットの中から掴んだ物を引っ張り出す。何でも良い。お金に換えて、馬車で街を出よう。
幸い聖服はどれも上等な生地で作られている。馬車代と一泊の宿代くらいにはなるはずだ。
肩掛けの鞄に未使用の手袋や服の替えを詰め込んで、出来るだけ早足で――しかし不自然にならないように、大聖堂を抜けていく。
いつもは足を運ぶのが楽しみだった中庭も、植物園も、祈りの場である聖堂も、今は目を向けられない。
エスティラに見付からない内に、と。それだけを唱えながら、人の賑わう城下町へ駆け込むのだった。
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