第57話
「レイアさんも、同じなのではありませんか?」
「……私?」
唐突に話題を返されて、思わず問い返す。
「ええ。怖いと思いながら、それでも風の精霊王の元へ向かおうとしている。ご家族に会いたいという願いを、諦められないから」
胸の奥が小さく痛んだ。その通りだった。
怖い。
誰かを巻き込むのも、また何かを失うのも怖い。
それでも、帰りたいという願いだけは、どうしても捨てられない。
「……でも、それだけじゃなくなってきてる気がするの」
気付けば、そんな言葉が零れていた。
シャルネが静かに私を見る。
「家族に会いたいのは本当なの。帰りたいのも本当。でも……この世界で出会った人たちのことも、大事になってしまった」
ジルも、リオンも、シャルネも、ベリルも。
そして、オズも。
「帰りたいのに、離れたくないって思うのは、変だよね」
「変ではありません」
シャルネは即座に言った。
「大切なものが一つしか持てないなんて、誰が決めたのでしょう」
その言葉に、思わず目を見開く。
シャルネは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「人の心は、そんなに器用にはできておりません。ご家族を想う気持ちも、こちらで得た絆を大切に思う気持ちも、どちらもレイアさんの本当の気持ちです」
「……本当の、気持ち」
「ええ」
そう頷いてから、シャルネはふと表情を和らげた。
「特に、オズ様のこととなると」
「えっ」
思いもしない名前が出て、声が裏返りそうになる。
シャルネはその反応を見て、ますます柔らかく微笑んだ。
「レイアさんは、オズ様のことをよく見ていらっしゃいます」
「そ、そんなこと……」
「本当ですよ」
否定しようとした言葉を、穏やかに遮られる。
「オズ様が少し離れた場所にいる時も、レイアさんは無意識に目で追っていらっしゃいます。冷たくされれば傷付いた顔をなさいますし、優しくされれば、とても嬉しそうにされます」
「そ、れは……」
言い返そうとして、言葉が詰まる。
だって、オズは分かりづらい。
何を考えているのか、何を見ているのか、少しも分からない。
けれど、だからこそ目で追ってしまう。
少しでも表情が動けば気になる。
少しでも声が柔らかければ、胸が温かくなる。
離れていく背中を見ると、理由もなく不安になる。
「……分からないの」
ぽつりと呟いた。
「オズのことが、全然分からない。優しいのか、冷たいのか。近くにいてくれるのか、離れていくのか。私を見ているのか、それとも……」
そこまで言って、喉が詰まった。
(古の精霊師……ナギさん)
その名前が胸の奥に落ちるだけで、息苦しくなる。
「それとも?」
シャルネが静かに促す。
私は夜空から目を逸らせないまま、指先を握り締めた。
「……オズには、ずっと探している人がいるから」
言葉にしてしまうと、思った以上に胸が痛かった。
「百年も過ごした場所を離れて、すぐに旅に出るって決めるくらい、大切な人なんだと思う。私には、そんな人に勝てないよ」
「勝つ、ですか?」
「うん……なんか、変な言い方だけど」
自分でもおかしいと思う。
ナギさんと張り合うような話ではない。そもそも私は、ナギさんのことを何も知らない。
けれど、オズが時折遠くを見るたびに思ってしまう。その視線の先にいるのは、きっと私ではないのだと。
「あの人は、オズにとって特別なんだと思う。全部を置いてでも追い掛けたくなるくらいに」
実際にそうなのかは分からない。
オズが本当は何を考えているのか、私には分からない。
それでも、あの時の即決を思い出す。精霊師の話が出た瞬間、迷いなく同行を決めたオズ。
百年を過ごした死の森さえ、あっさりと手放したように見えた彼。
その姿が、どうしても胸に引っかかっている。
「私、怖いのかもしれない」
「何が、でしょう」
「オズが優しくしてくれるたびに、嬉しいの。嬉しいのに……その優しさは、私に向けられたものじゃないんじゃないかって思ってしまう」
声が少し震えた。
「私を通して、その人を見ているだけだったらどうしようって」
ずっと怖くて、考えないようにしていたことだった。
でも、一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。
「オズにとって、私は聖女で、精霊師で……古の精霊師に繋がる手がかりの一つなのかもしれない。そう思うと、優しくされるのが嬉しいのに、苦しくなる」
熱に浮かされていた時の夢を思い出す。
冷たい指先。水を注いでくれた手。
眠っていろ、と告げた低い声。
あれが夢ではなかったのなら、と願う。
嬉しい。でも、怖い。
その優しさに意味を見つけたくなってしまう自分が、一番怖かった。
「……レイアさん」
シャルネの声は、どこまでも優しかった。
「私はオズ様のお心を知っているわけではありません。ですから、無責任なことは言えません」
「……うん」
「ですが、少なくとも私には、オズ様がレイアさんを見ていないようには思えませんよ」
その言葉に、息が止まる。
「あの方は言葉が少なく、表情も分かりづらい方です。けれど、レイアさんが危うい時、誰よりも早く動くのはオズ様です。それが聖女だからなのか、精霊師だからなのか。あるいは別の理由なのかは、私には分かりませんが……」
シャルネはそこで一度言葉を切り、私の手にそっと自分の手を重ねた。
「けれど、それを知りたいと思うのなら、そのお気持ちから目を逸らさなくてもいいのではありませんか?」
「そうかな……」
「はい。オズ様が誰を見ているのか。そして、レイアさんご自身は、誰に見ていてほしいのか」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
私は、誰に見ていてほしいのだろう。
誰に、私を私として見てほしいのだろう。
答えなんて、もう分かっている気がした。それでも口にするのは怖かった。
「……もし違ったら、怖いよ」
正直な言葉が零れた。
「私じゃないって分かったら、きっと……すごく悲しい」
「怖いと思うほど、大切なのですね」
シャルネの言葉が、静かに胸に落ちる。
怖いと思うほど。傷付きたくないと思うほど。
私は、大切に思っている。
「……そういうことなのかな」
自分でも情けないほど小さな声だった。
シャルネは答えを急かさず、ただ優しく微笑んでいる。
「答えを出すのは、レイアさんご自身です。ですが、少なくとも私は、とても素敵なことだと思います」
「素敵、かな」
「ええ。誰かを大切に想う気持ちは、怖いだけのものではありませんから」
夜風が吹き抜ける。
少し冷たいはずなのに、不思議と寒くはなかった。
「明日から、少しの間離れてしまいますが……どうか、ご自分の気持ちを責めないでください」
シャルネはそう言って、私の手を軽く握る。
「レイアさんが帰りたいと願うことも、オズ様にご自分を見てほしいと願うことも、どちらも間違いではありません」
その言葉に、目の奥がじんわりと熱くなる。
「……ありがとう、シャルネ」
「いいえ」
シャルネは花が咲くように笑った。
「友人として、当然のことを申し上げただけです」
友人。
その言葉が、胸に温かく染み込んでいく。
私はもう一度夜空を見上げた。
先ほどまでただ遠く感じていた星々が、今は少しだけ優しく見える。
答えはまだ出ない。
オズが誰を見ているのかも、分からない。
けれど、胸の奥に芽生えた名前のない感情から、もう目を逸らすことはできなかった。
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