第56話
ひやりとした感触が頬に触れた。薄く目を開くが、目の前の人物の顔は霞んでよく見えない。
(……また夢か)
少なくともさっきのような、恐ろしい夢ではなさそうで、私は安堵する。側にあるその気配は良く知ったものだった。
「オズ」
名前を呼んでも返事は無い。彼は冷たい指先で、額に張り付いた私の前髪を除ける。汗で張り付いて気持ち悪く感じていたのでありがたい。
今は指一本すら動かすのが億劫なのだ。
ふと枕元の水差しへ視線を向けるが、傍らのグラスは空のままだ。
すると私の意図を察したように、オズの手が伸びて水差しからグラスへと水を注いでくれる。
動けない私の背を抱えるように腕を回し、上体だけ起こされる。汗でびっしょりと張り付いた服が、空気に触れて少しだけ冷えた。
口元にグラスを添えられ、薄く口を開くと冷たい水がゆっくりと流し込まれる。一口飲み込めば、すぐに渇いた喉が潤った。
「夢の中の方が優しいね」
からかうつもりでそう言ってみるが、当然言葉が返ることはない。
夢の中とはいえ、少し虚しい。けれど仕方がない。
少しだけ間を置いて、現実では到底聞くことも出来ない問いを口にしてみる。
「ナギさんに会いたい?」
そう言葉にすると、私の背を支えている指に少しだけ力が入ったのが分かった。薄い服越しに、僅かな動揺が伝わってくる。
少しだけ体の力を抜くと、傾いた頭が彼の肩に触れた。支えるのに丁度よくて、そこに少し体重を預けてみる。
「会いたいよね。その人を追い掛けて、旅に出ちゃうくらいだもん。きっと、私にとっての家族のように、大切な人……」
家族の顔がまた脳裏を過って、熱に浮かされた目に涙が浮かぶ。それはすぐに頬に落ちるが、拭うための腕が重くて上がらない。
「私もね……お母さんに、会いたい。お父さんに会いたいの……」
叶わなかった時が恐ろしくて、口に出来なかった願いが涙と共に溢れ出す。
ずっとそれだけを願って旅をしてきたのに、先に進めずにいるのが悲しかった。けれども仲間を危険に巻き込みたくもない。
私が先に進みたいと言ってしまえば、優しい彼らはきっと止めないだろうから。
(だけど、夢の中だけでは、どうか許して)
しばらくそうしていただろうか、背中を支える腕の力が抜けて、私の体はまたベッドに埋まる。
真上にある顔を見上げようとして、私の目元は冷たい指に覆われた。
「眠っていろ」
そんな短い声が、聞こえた気がした。
従うようにそっと瞼を伏せて、朦朧とする意識に委ねる。もうどこまでが一つの夢なのか分からない。
その後も幾つかの夢を漂ったような気がして、そして額が冷える感覚で目を覚ます。
目を開けた先にはシャルネの姿があった。
新鮮な水で濡らしたタオルを私の額へと乗せているところだった。
「ご気分はいかがですか? レイアさん」
「……さっきよりマシかも。ありがとう、シャルネ」
いつもの花が咲くような笑みにつられて口元が緩む。傍らに残されたグラスには、ぬるくなってしまった水が残されていた。
数日後、私の熱も下がって普通に動き回れるようになった頃。
皆がたまたま一ヶ所に居合わせたタイミングでオズは言った。
「風の神殿へ向かう」
シャルネと会話していたジルは顔を上げてオズの方へと視線を投げる。
「……それは、例の『何者か』に追われる可能性が出てくるってことだぞ」
「そうだ」
当然考慮しているといった口振りでオズは答える。
反対する声は無かった。少しの間を置いて、ジルは再び口を開く。
「今、話してたんだけどさ。俺とシャルネはここで一度抜ける。もしそうなった時、俺達は足手まといだ。大賢者に勇者、魔王……このメンツだけで聖女を守る方が、どうしたって安全だ」
「——そんな!」
私は思わず声を上げた。
だがジルは笑って肩を竦める。
「なに、別にサボろうってワケじゃない。俺とシャルネは神殿に向かう。ベリルの子を取り戻すにしても、内部を探っておく必要があるだろ。先に偵察しておくよ。レイアが言っていた、教皇の部屋から続く謎の部屋……上手くいけばそこも見付かる」
そう事もなげに言う。
シャルネはその横で楽しそうに笑った。
「ヴェルクロア家は大聖堂へ多額の寄進を行っております。私であれば大聖堂の内部に入るのは難しくありません」
「俺は忍び込む予定だけどな。その中での手引きをシャルネに手伝ってもらおうと思って」
二人は顔を見合わせて、悪戯の計画でも練るかのように笑う。
私は開いた口が閉じなかった。もし教皇に見付かったら、私が辿った運命を彼らも辿るのではないかと、気が気ではない。
けれど、危険が付き纏うのは私と共に居ても同じ話だ。
他の人達はそれに同意していた。私は唇を噛んで一度黙り込み、そしてシャルネとジルに向き直る。
「本当に……気を付けてね、二人とも」
「ええ、もちろん。レイアさんもお気を付けて」
「君こそ、風の精霊王との契約、頑張れよ」
旅立ちは明日の朝に決まった。
私は裏庭で一人、夜空を見上げていた。一面の星が今にも降り出しそうなほどに輝いている。
けれど、どれだけ綺麗な景色を前にしても、胸の奥に沈んだ不安は消えてくれなかった。
「レイアさん」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
そこには薄い上着を羽織ったシャルネが立っていた。月明かりを受けた髪が、夜の中で淡く光って見える。
「シャルネ……眠れないの?」
「ええ。明日から別行動になると思うと、少し落ち着かなくて」
そう言って、シャルネは私の隣へと歩いてくる。
並んで空を見上げると、しばらくの間、言葉のない時間が流れた。
「……ごめんね」
先に口を開いたのは私だった。
「私のせいで、危ないことに巻き込んでる。ジルも、シャルネも……本当なら、教皇になんて近付かない方がいいのに」
「それは違います」
穏やかな声だった。
けれど、そこにははっきりとした強さがある。
「私は自分の意思で行くのです。レイアさんのせいではありません」
「でも……」
「それに、私もただ守られるだけのつもりはありません。ヴェルクロア家の名を使えるのなら使います。弓を扱えるのなら、扱います。できることがあるのに何もしない方が、私はきっと後悔します」
シャルネらしい言葉だった。
柔らかくて、けれど真っ直ぐで。
私は返す言葉を失ってしまう。
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