第50話
「どうして邪魔するのかな。俺のために魔王を引き付けておいてくれたんだろ? ――ねえ。そうだろ、聖女様」
見慣れた瞳と視線がぶつかる。
いつもそうだったように唇は笑みの形を描いているが、その瞳は全く笑っていなかった。酷く暗い、初めて会った時のような。いや、それ以上に昏い色をしていた。
彼の割れた肌を見た時も、切り落とされた首の跡さえ、怖いとは思わなかった。けれど今は、純粋な恐怖で背筋が凍り付いている。返事を間違えればすぐにその大剣が体を裂く。本能的にそう確信するほど、純粋な殺気が向けられていた。
「どこまでも悍ましい男よ」
ベリルの体が黒炎を纏う。これは魔王だけが扱う特殊な魔法だった。
だが、今までの戦闘で見せたものよりも、もっと禍々しい色をしていた。
「ま、待ってください……! リオン様! ベリルちゃん……!」
シャルネが叫ぶ。大弓に手を掛けてはいるが、向ける先を見失っていた。弦に掛けられた指先は震えている。
ジルも駆け付けてはいるが、戦闘態勢の勇者を前に下手に動けない。
「おいおい、勇者がこんなヤバい奴だって話は聞いてないぞ」
辛うじて、無理矢理に笑みを作ってそう言ってみせる。全身で警戒しながら私の腕を引いて、リオンから引き離すように下がらせた。
オズはその後ろから歩み寄りながら、いつもより鋭い視線でリオンを捉える。
「剣を引け」
「どうして? オズウェル。そっちの味方をするっていうの?」
一度言葉を間違えただけで、すぐにどちらかが攻撃を始めてしまいそうな雰囲気だった。
一緒に旅をした仲間たちが、目の前で。
「ダメ……!」
手を伸ばした先で動いたのは、魔王だった。
纏っていた黒炎が膨れ上がり、蛇のようにうねってリオンを襲った。リオンは大きく飛び退き距離を取る。が、一瞬で距離を詰め、鈍い輝きを放つ大剣を振り翳した。
鉄の塊と変わりない重量を持つそれは、床を砕きながら足元を穿つ。
しかしベリルの姿はそこには無かった。禍々しく瞳を輝かせ、宙に浮いて勇者の姿を見下ろしている。
姿や武器は違えど、かつての戦いもこうだったのかと思わせるような威圧感だった。
直後、咄嗟にリオンが大剣を盾にしたかと思うと、耳を劈くような金属音が響いた。同時に突風が巻き起こり、目も開けていられなくなる。
薄目で開いた視界の先には、リオンの剣にくっきりと刻まれた攻撃の痕跡があった。オズの風属性の魔法によって生み出された、不可視の刃が直撃した箇所だった。
その刃は刀身のみに収まらず、リオンの右肩を抉っていた。だが出血はない。
なんとか踏み留まったリオンの表情には、まだ笑みがある。彼の体はもう生きてはいない。だから血も溢れないし、痛みさえ感じないのだろう。
利き手を封じられたリオンが左手に剣を持ち替え、再び一歩踏み出そうとしたその時。
突如、床から炎が溢れた。一瞬にして天井まで火柱が奔る。
「っ……何だよ、次は……!」
体ごと飛ばしかねない嵐のような風圧から守るように私とシャルネを抱えて、ジルは小さく舌打ちを零す。
風が纏ったのは焼け付くような熱風だ。
目を開けば、人の形を取った大きな炎がそこにあった。
「せ、精霊王様……」
思わず名を呼ぶが、返事は無かった。
「我が領域で、随分と騒がしくしてくれる」
ビリビリと肌を焦がすような音が響く。
精霊王の怒りが空気を震わせる。当てられて、膝から崩れ落ちてしまうシャルネを守るように私は抱きかかえる。
リオンも、ベリルでさえ、すぐに動けずにいた。
「勇者も魔王も変わらぬな。幾星霜を経ても、顔を合わせれば争い始める。だが、ここは我の領域だ。我の許しなく、刃を交えることは許さぬ」
呼吸の度に、空気が喉を焼くようだった。決して息が出来ないほどの高温ではない。
だが、王の怒りが空気を灼いているのだ。
コツ、と靴底を鳴らし、オズが一歩進み出た。そして膝を折り、胸に手を当てる。
「我らの不手際により、神聖なる御前を騒がせたことをお詫びいたします。――勇者と魔王の因縁は、もはや人の手では制し難いもの。しかしながら、それを王の御前まで持ち込んだのは我らの落ち度です。どうかお怒りをお鎮めください。必ずや、この場は私が収めます」
息苦しさに霞む視界の中で、私はオズらしくない姿だと、初めは思った。
(ああ、でも。大賢者は聖王に仕えていたんだっけ)
それなら、この姿がかつての――百年前の彼の姿だったのではと、今度はそう思った。
ふと、周囲の温度が下がった気がした。数秒にも、数分にも感じられる静寂の後、見上げていた炎は大きく揺らぐ。
「……相変わらず損な役回りを選ぶな、大賢者」
そう言葉を残して、精霊王は消えた。
残されたのはもう争うことも出来ず、口を開くことも出来ない、重い空気だけだった。
「とりあえずさ、ここを離れた方が良いだろ。彼女らには酷すぎる」
少しの後、ジルはそう言った。気を失ってしまったシャルネを腕に抱えている。
彼の額にも汗が浮かんでいるというのに、シャルネを抱き上げ、彼女の武器である大弓も担いで歩き出す。
私も何度か頷くものの、視界が眩んで上手く立てない。その腕を引き上げたのはオズだった。
「立て」
いつもと同じ、短い命令。
また頷きはするものの、足に力が入らない。もう目を開けているのか、閉じているのか分からない。
私はまた暗闇にいた。その中でもう何度も聞いた溜息が聞こえ、抱えられる感覚があった。
(ああ、また迷惑を掛けて……)
相変わらず、自分が嫌になる。
ふと意識の外に、火の精霊王の気配を感じた気がした。
(精霊王様……私のために争いを止めて下さったんですよね)
本来この世界ではない、別の領域に棲む存在だ。神殿を荒らされたとて、姿を現す必要などなかった。
私のために、きっと人の前に姿を見せて下さったのだ。
『オズウェルに、伝えてくれ』
その声が、耳元で響いた気がした。
体を跳ねさせて、私は目を覚ました。首筋には、冷たい汗が伝う感覚だけが残っていた。
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