第41話
「リ、リオン……」
口にした言葉は、酷く掠れていた。
得体の知れない緊張に喉が引きつって、上手く声にならない。
まるで頭の中をこじ開けようとするように、鈍器で殴られるような頭痛が襲った。
「――レイアさん? 顔が真っ青です!」
ふらつく肩をシャルネが支えてくれる。
オズも、その前を行くリオンも立ち止まり私へと振り返る。
(ダメ……その場所は、ダメなの――!)
自分ではない、誰かが叫ぶようだった。
理由も分からないまま、私もつられるように叫ぶ。
「そこを離れて、リオン……!」
きょとんとしたリオンの瞳が、すぐに鋭く細められた。
靴底が蹴った床は直後に崩れ落ち、前触れもなく天井が落ちてくる。
息も出来ないほどの砂埃がいくらか落ち着いた頃には、リオンの立っていたその場所は大きく崩れ、底の見えない穴となっていた。
床も、崩落した天井も、全てその暗い穴が飲み込んでしまった。
目の眩むような頭痛に耐えきれず、その場に崩れ落ちる。
シャルネが支えてくれたおかげで、膝を打たずに済んだようだ。シャルネが何か叫ぶのが聞こえるが、割れるような頭痛が邪魔をして上手く聞き取れない。
チカチカと火花が散るような視界の中に、崩落を逃れたリオンの姿を見付けて僅かに安堵する。
(私は、いつかに……この場所で)
大切な何かを無くした。そんな記憶が、自分のどこかにある気がした。
この穴の中へ、失ってしまったのだ。と、自分ではない誰かの慟哭が溢れて頬を伝う。
そして暗い穴の底へと沈むように、すぐに意識も途切れた。
◇◇◇
「死に戻りの記憶?」
リオンは問い返す。
「聖女様は覚えていないだけで、いつかの人生では、ここで死んだってこと?」
「死んだかは分からない。だが、何かあったのは事実だろう。かの精霊師も、こうして危険を予知していたことがあった。まるで自分が経験してきたような、そんな緊迫で」
オズが答える。
傍らでは、気を失ってしまったレイアを、シャルネが懸命に看病していた。濡らしたハンカチを額に乗せるが、上昇した体温は下がらない。その頬には汗が伝っていた。
悪夢でも見ているかのようにうなされ、身を捩る度にシャルネの細い指がレイアの黒い髪を撫でる。
「この聖女は、前の人生では教皇に首を落とされた――とだけ言っていた。だが、記憶に無いだけで、幾度も死んでは戻る……それを繰り返していたというのなら。失われた記憶があっても不思議ではない」
「そんな……」
シャルネが眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな表情になる。
「何とか記憶を戻せないかな? 一度見た危険を避けられる、それだけでもこの旅はだいぶ安全になる」
「ふむ……」
壁にもたれかかるリオンと、顎に手を当て思案を始めるオズ。その二人にシャルネは目尻を釣り上げる。
「何を……言っておられるのです! そんな酷なことを……!」
「でも、聖女様を守るためだ。今だって、聖女様が何も言わなければ俺がこの穴の中だったかもしれない。そうなればお優しい聖女様は悲しむだろう。それを乗り越えたとしても、次に死ぬのは聖女様かも知れないんだ。また記憶を無くし、最初からこの旅をさせたいって言うのか?」
「確かに、避けられる危険を避けない理由はない」
シャルネは言葉に詰まる。自分が間違っていることを言っているとは思わない。だが二人の言い分も、また正論に聞こえた。
けれどその細腕はレイアを守ろうとするかのように、レイアの肩に掛けられたままだった。
僅かな沈黙が落ちた時、ふとレイアの瞼が開かれた。
「レイアさん? 気付かれたのですね、良かった」
すぐに気付いたシャルネが声を掛ける。オズとリオンの視線もレイアへと向いた。
だがレイアの瞳はぼんやりと天井を見上げ、そして何も発さずに体を起こす。
一度大きくふらついた足は、すぐ側に穿たれた穴へと一歩一歩近付いていく。慌ててリオンがレイアの腕を引いた。
「ちょ、……聖女様。そっちに行ったら落ちるよ」
リオンが顔を覗き込んでも、レイアの視線は定まらない。ぼんやりと底の見えない穴へと向けられるばかりだ。
掴まれた腕を払おうとレイアの体に力が籠る。
「レイアさん!? 危険です、戻って……」
シャルネも駆け出してレイアへ手を伸ばす。が、眼前を遮ったオズの腕に邪魔され、届かない。
「手を離せ」
オズはリオンに短く命じた。リオンは暴れるレイアを抱えるように封じながら、眉根を寄せる。
「は? ……離したら、聖女様は穴に落ちて死ぬよ。どう見たって、様子がおかしい」
「分かっている。――恐らく、精霊に呼ばれている」
オズの表情も、ほんの僅かな迷いを滲ませていた。当然、確証は無い。
精霊の加護も無く穴の底へ身を投げようものなら、待つのは死のみだ。
押し黙ったリオンも腕を離せないままでいる。だが、ゆっくりと腕の力を抜いて、レイアの身を解放した。
「や、やめて……! ダメです、危険です! レイアさん、こちらへ戻って……!」
シャルネだけがオズの腕を掴み、叫ぶ。
レイアは一度も振り返ることなく、暗い穴の前に立ち、そして躊躇いもなくその闇の中へと落ちていった。
シャルネの悲鳴が消え、動揺した呼吸だけが残る静寂の中、しばらくして重い音がした。
周囲の壁が崩れ、その中から魔獣の姿が幾つも現れる。
水の神殿でも同様だった。理由なく神殿を荒らす者への抵抗か、あるいは精霊の歓迎か。
リオンは大剣を担ぐ。
「ああ、ここでもやっぱりあるんだ。……今はちょっと気分じゃないんだけど、仕方ないな」
シャルネも濡れた目元を拭い、弓を抱えて立ち上がる。その傍らではオズが視線だけで魔獣を一体ずつ追っていた。
すぐに始まった戦闘の音は、穴の底には届かなかった。
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