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第30話


「ん?」


 リオンが声を上げるのと、僕が気付くのは同時だった。

 揃って振り返ると、もうそこに彼女の姿は無い。ほんの一瞬前までは足音が着いてきていたのに突然途切れたと思ったらこうだ。

 代わりにどこかで水滴が落ちるような音がする。一つ、また一つ。重ねるようにまた一つ。

 かの精霊師の側にいた時もそうだった。これが普通の人間に聞こえる『精霊の声』だ。

 水滴の音や風の音。知らなければ自然に溢れた音でしかなく、その事実を知ったところで言語として聞き取れはしない。


「あーあ……はぐれちゃった」

 

「こんなに早く接触してくるとはな」


 精霊が自ら彼女を拐った事からしても、読みは間違いでは無かったようだ。彼女もまた精霊に愛される者、というわけだ。

 だが望ましい現実を前に、僕は小さく舌を鳴らすしか出来なかった。その理由はたった一つの後悔。


「――伝え忘れていた。奴等は悪戯が好きだと」


 静まり返った空間に、重い音が響き始める。石像を引き摺るような、そんな音だ。

 リオンが背負った大剣を構え、周囲に視線を巡らせ薄く笑う。


「そう、人なんて簡単に死んじゃうような、飛び切りの悪戯がね」


 一体、二体と、通路を飾っていた石像が重く動き出す。

 精霊の戯れが始まる。




 

(お、溺れる――!!)


 私はパニックだった。突然深く暗い水の中に落ちてしまい、どれだけ這い上がろうともがいても揺らぐ水面は見えなかった。

 それどころか下へ下へと沈んでいっているような気さえする。決して泳げないわけではないが、服が水を吸ってしまって上手く動けない。


 彼らは気付いてくれるだろうか、私が居なくなったことに。床を満たしていた、一見浅く見えた水の中に沈んでいるだなんて気付いてくれるだろうか?

 突然だったせいで、もう息も保たない。息苦しさと恐怖で涙が滲んでも零れ落ちることもなく、ただ水に溶けるだけだ。掴むものも無い指先で必死に水を掻く。


「たのしい?」


 そんな声が聞こえた。それは水の中に居ながら酷く鮮明で。まるで耳元でコロコロと笑うような、楽しげな子供の声。


「たのしい?いっしょに、あそぼう」


 水の中で、蛍のような淡い輝きが泳ぎだす。それは一つ二つと増えていく。


(楽しくないよ……!)

 

 心の中で叫ぶ。

 こんなに暗くて、冷たくて、苦しいのに。しかし口を開けても残り僅かの空気が泡となって漏れ出していくだけだった。

 もう水を掻く力すら入らない。

 

「くらいの?」

 

「くらい、は、こわい?」

 

「こわいなら、くらいを、なくしてしまおう」


 声が笑う。誘うように、力の抜けた指先に蛍のような光が止まる。


「あかるくしよう。あたたかいひかりは、ぼくたちもだいすき」


 『はやく』と幼子がせがむように。

 朦朧とする意識の中で私は指先に魔力を宿す。この寂しい暗闇をその光が晴らしてくれるようにと強く、強く願いながら、ゆっくりと瞼を落とした。




 「はっ……!は……!」


 突然、肺に酸素が流れ込む。

 私はそれに縋るように必死で呼吸を繰り返す。余りの息苦しさに溢れる涙は、やはり零れ落ちはしない。

 ここは、未だ水の中だった。

 しかし深い水底で太陽が輝いているかのようにそこは明るく、いっそ恐ろしくなるほど美しい蒼の一色に染まっていた。先程の蛍たちが喜ぶように水の中を泳ぐ。


「あかるい!」

 

「あったかい!」


 見えそうで、見えないその形。思わず目を凝らすように双眸を細めかけて、ふと傍らの存在に気が付いた。

 見上げるほどの大きさの――そう、それは水。

 水であるはずの『それ』が徐々に形を作っていく。人の形に良く似た輪郭、そして作られた手のひらにそっと、大事な物を乗せるかのように私を乗せて。

 そこは水の中のはずなのに、足元には手のひらという名の床が出来上がっていた。慣れない足場に思わず座り込む。そして『それ』を見上げる。察しはついていた。


「精霊様……?」


 問えば水で作られた巨大な人影は緩慢に頷く。女性にも見えるその影は穏やかに、ゆっくりと口を開く。


「驚かせてしまいましたね。光を宿す、聖なる人」


 声が聞こえるというよりは頭の中で響くようだった。

 蛍はその存在が現れたことを祝うように、人影の周りを飛び回る。


「おうさま!」


 と、その内の一人が呼ぶ。

 そうか、と私は納得する。この蛍みたいに小さな存在が精霊。そして今目の前で微笑む、慈愛を宿した声の持ち主こそが精霊王。

 精霊の王たる存在の手のひらでぽかんと座り込んでしまっていた無礼を今更ながらに自覚し、慌てて姿勢を正す。とはいえ水の中なのでそれには時間が掛かってしまったが。何年かぶりの正座の形を取り、その存在を見上げる。


「貴方が、精霊王様……!教えてください、四人の精霊王と契約すれば、他の世界へ行くことは出来ますか?私は元の世界に、帰れるのでしょうか……!?」


 縋るような気持ちだった。今まで誰も答えてくれなかった、答えられるはずもなかった質問だったからだ。

 だが精霊王は数秒の間の後に、確かに頷く。


「貴女が四の理を従えられるのなら」 


 目を見開き、同時に涙が溢れる。

 今までずっと不安定だった足場がようやく固まったように思えた。


(帰れる……)


 愛しい家族の面影が脳裏を過ぎる。帰りたい。

 今まではこの世界も楽しいかな、なんて自分の心をもどこか誤魔化していたけれど、本当はこんなにも恋しかったのだ。

 声を上げて泣きそうになる口を無理矢理抑える。王は私を乗せる手とは反対の手を寄せ、そっと頬を撫でてくれる。それは小さな小さな命を慈しむように。


「私――『水』は貴女と契約しましょう。この水底をまた照らしてくれた貴女に、水の加護を与えます。そしていつか、貴女のその願いを叶えましょう」


 実態の無い指先で額を撫でられた瞬間、ふわっと体が軽くなる。

 先程までの水の重さもない、まるで無重力の中にいるようだった。自分の体を見下ろせば、服でさえ濡れていなかった。まるで水が私を害すことなど、何も無いとでも言うように。


「さあ、人の世界に帰りなさい。レイア、私達は常に貴女とともに在ります」


 私の名前を呼ぶ。

 名乗った覚えは無いけれど、私の名も、帰りたい場所も、まるで全て知っていると言わんばかりに微笑んで精霊王は私を乗せた手を持ち上げる。

 あれだけ必死にもがいても見えなかった水面が、間近に見えてきた――。

 

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