第29話
「レイア」
声がする。いつかに聞いたような声。
「来てはいけない、こちらに」
いつかに、同じことを言われた記憶はある。なのにこの声が誰なのか、いつ聞いたのか、何も思い出せない。
「――に見付かってはいけないよ。私と同じ道を辿ってはならない」
待って、聞こえないの。大事な話なのに、水の向こうにいるかのようにその声は不鮮明で。
「…………に、伝えて……」
待って、まだ。
朝。
私は自覚のないままに目を覚ましていた。
(あれ?)
何か大事な夢を見ていた気がするけれど、思い出せない。のそりと体を起こす。一晩中そうしていたのだろう、オズは木の幹を背もたれにして座っていた。側の焚き火はすっかり消えてしまっている。
私が目覚めたことに気付き、オズが視線を向ける。
「おはよう、オズ。何だか不思議な夢を見ていた気がするわ……」
不思議と眠気の残らない目を何度か瞬かせ、軽く擦りながら言うと彼は目を伏せ軽く鼻で笑いながら言う。
「飯を食う夢でも見たんだろう、涎の跡がついている」
「………………」
彼は、あれからたまにこうして笑みを見せることがあった。
大抵はこうして人を小馬鹿にするような発言と共にだったが。それでも全くの無表情を崩さなかった時と比べると、明らかな変化のように思えた。
例の魔法の効力が切れかけて、一度失った人間性が少しでも戻っているのではないかと私は期待した。
もちろんそれが彼にとっても良いことだとは言い切れないのだが。
(いつか、そう思ってくれるといいな)
顔を洗って、散歩に出ていたというリオンにも挨拶をし、簡単な朝食を終えると荷物を纏めてまた歩き出す。
目的地まではもう町も無い。ひたすらに歩き、夜が来る前に拠点を決めて、魔法の訓練を終えたら眠る。
ずっとこの繰り返しだ。飲み水はいつも確保出来るように可能な限り川を辿り、どうしても川から離れなければならない時は水筒に水をたっぷり入れていく。
数日間それを繰り返し、歩む道も平坦な場所からやがて山へと変わっていく。ついに水の精霊の棲むという神殿が崖上に見えた。
「ま、また崖かぁ……」
思わず言葉が漏れる。
「もうヘバったの?担いであげようか、聖女様」
「いいえ、大丈夫……ありがとう、リオンさん……」
私の旅のペースに二人を付き合わせてしまっているのだ。これ以上の迷惑は掛けられない。
徐々に傾斜を増す山を登っていくにつれ、川の幅も広がって一部池のようになっている場所さえ増えてきた。そんな場所や崖を一体何度迂回したか。仕方ないとはいえ目的地に近付いている気がせず、焦れてしまう。
一方オズはと言えば疲れの色も見せず、進める道を探して視線を巡らせていた。まだ陽は高い。もしかすると今日中に神殿に辿り着けるかもしれないという希望と、どれだけ迂回しなければならないか分からない不安とが交互に押し寄せる。
いつの間にか、足場は靴底より浅い水に満たされていた。
辿ってきた川もそうだったが、驚くほどに透明な綺麗な水だった。やはり水の精霊が近いせいだろうか。それともこの神殿に近付く者が誰もいないからだろうか。
私はオズに声をかける。
「やっぱり誰もいないのね。こんな大きな神殿があるくらいだから、礼拝に訪れる人達もいるのかと思っていたのに」
「精霊信仰は古代のものだ。今の世の人間は興味も無いだろう。この神殿も、どう建てられたのか分かっていない。古代の技術で建てられた未知の建築物だ。とはいえ散々研究し尽くされて、今はもう訪れる用のある者など誰もいない」
淡々とした返答にほう、と頷く。
彼は決して冷たいわけではない。知りたいことはきっちり教えてくれている。ただ話がまったく盛り上がらないだけで。
しかし、もうその沈黙を息苦しく感じることはなかった。彼がそういう性格なのだと知っているから。
それに、足場が険しい道を進む時は手を貸してくれることもある。それは冷たい人間には決して出来ない、心を失った彼がそれでも持ち続けている、彼自身の優しさの証明だった。
最後はもう這うようにして傾斜のきつい坂を登っていく。その先に神殿はあった。
外壁に彫られた装飾部はまるで宝石のように蒼く輝いて見えるが、そういう塗料なのだという。もちろんそれも古の時代のもの。これだけの月日を経てなお、自分達が信仰した精霊の神秘をありありと主張している。
千年以上の昔に建てられたという神殿は、全体的に傷んではいたものの崩落の危険性は無さそうだった。だが、どこを見回しても水に浸ってしまっている。ここが水の精霊の棲まう地と知らなければ水没したのかと疑ってしまうほどだ。
三人分の足音の代わりにちゃぷちゃぷとした水音を連れて、静かな神殿の内部を歩いていく。少しの音が反響するくらいの静寂だ。迷いなく進むオズとリオンの背中を追う。
「二人はここに来たことがあるの?」
そう問うと前方から響く声が返る。
「無いな。ただ迷うことはないさ」
「神像は大抵奥に据えるものだ。奥を目指していけばいい」
「そういうものなんだ……」
そんな会話をしていると。
くすくす。
と、声が聞こえたような気がした。振り返ってももちろんそこには誰もいない。しかし二人は変わらず前へ前へと進んでいく。その声が聞こえなかったかのように。
置いていかれないようにその背中を追うべく大きく一歩を踏み出した、その刹那。
(え?)
床が抜けた。正しくは床があるはずの、その場所は水に満たされていた。海のような深い水に。
体を支えるものが無くなり、私は成すすべ無く深い水に落ちていく。音も無く。悲鳴の一つも、オズとリオンの名を呼ぶことも出来ない。
一瞬の出来事だった。
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