第23話
私は後ろ手に扉を締めた姿勢のまま、立ち尽くしていた。
「血痕……」
扉を一歩出たその場所を赤く塗った赤色は、月明かりでよく見えた。その光を鈍く反射する斧が傍らに落ちている。
一瞬にして、血の気が引いた。
(オ、オズは……?)
ここはコテージのように、一室ごとに独立した客室だ。周囲に人影はない。
赤い痕跡は、その部屋の脇を引きずったように伸びていた。
思わず駆け出す。嫌な胸騒ぎが心臓を打っている。
少し走ると、宿のものと思われる物置小屋が見えた。血痕もそこに吸い込まれるように続いている。
木々に囲まれているが、普段から使われているのか傷んでは無さそうに見える。その白い壁に跳ねる血の後は、暗い夜の下でも不自然に目立って見えた。
それが見知った顔のものでないことを祈りながら、勢いよく扉を開ける。
目が慣れない暗闇の中で私へと振り返った眼差しは、いつものように温度の無いものだった。
思わず安堵しかけて、息が止まる。
小窓から差し込む白い光が照らす、彼の頬を汚す赤色。そして彼の足元に、僅かに身動ぐ男性がいた。その体を真っ赤に染め上げている。
先程の痕跡がその男性のものだと、一瞬で分かった。
「……足止めくらいすればいいものを」
鉄の臭いが漂う狭い空間に響く小さな舌打ち。
いつもの無表情とは違う、苛立ちを含んだ煩わしげな眼差し。
服から靴の先までを汚す、赤黒い血液。
状況は理解出来なかったが、低いうめき声に我に返る。その男性は首元を押さえていた。首から肩に掛けて黒く染まった場所があり、そこを押さえる指の間からは今も血が流れ続けている。
オズの脇を抜けて男性に駆け寄ろうとするが、指が届く前に腕を掴まれて制止される。
「やめておけ」
「っ……どうして!」
今にも目の前で人が死んでしまいそうなのに、どうしてそんなに冷静なのか。どうして止めるのか、分からなかった。
必死で首を横に振り、男性に向けて腕を伸ばす。
「ダメ、ダメです……!死んではダメ……!」
夢中で繰り返しながら指先に魔力を込める。
いつもは傷に触れるような距離まで近付かなければ魔法は発動しなかったが、どうしてか今だけは魔力を男性の元まで運べる気がした。
(あとは魔力を、傷口にまで届けられれば……!)
集中して、深い傷口を魔力で覆うイメージを描く。が、直後に男性は大きくもがいた。首を穿った傷を掻き毟るように押さえる。
「が……ッ!ぎゃあぁ!」
脱げかけた靴で床を蹴り、血が溢れる傷口に指を食い込ませるようにして、何度か大きく痙攣した男性はそのまま動かなくなった。
呆然とする私の後ろで、腕を掴んでいたオズが溜息を吐く。
彼の制止の意味を、今になって知った気がした。思い返せば彼に言われたばかりだ。
「魔力を扱う訓練を終えるまでは、治癒の力を使うな」と。
目の前が真っ暗になる。膝から崩れ落ちそうになる私を、オズは抱えるようにして部屋まで連れ帰ってくれた。
気付けば、また三人で部屋のソファに腰掛けていた。
が、会話は何もない。リオンは空気を察しているように口を噤んでいるし、オズも何も言わない。私に至っては頭すらろくに回っていなかった。
やがて沈黙を破ったのはリオンだった。
「どうせ聖女には何も言っていないと思って、一応止めたんだけどな」
「足止めとは、もう少し真面目にやるものだ」
「殴り倒して良いならそうしたさ。ダメだろ?」
「………………」
(……苛立っている……)
あまりにオズらしくないと、固まった思考の中で私はぼんやりと思った。
今もトントンと小刻みに動いている指先もそうだ。彼はいつだって感情を機敏に動かすことは無かった。だが今は。
先程の舌打ちも、溜息も。あまりに彼らしくない。
一方リオンは私が寝ている間に何かを聞いたのか、全て事情を理解しているような表情をしている。
先ほども、一応は私のために止めようとしてくれていたのかもしれない。まるで、こうなることを知っているようだった。男性の最期が繰り返し瞼の裏側に映り込む。
私が治そうとした傷を必死に押さえて、痛みに顔を大きく歪めて、息絶えた。
(殺してしまった)
昼間に警告されたばかりだったのに。未熟な力を使うなと。
(…死なせて、しまった…!)
恐怖と罪悪感と、力を使ったことによる疲労感。そのどれもが一気に襲ってきて思わず拳を握る。
繰り返し現実を直視させられ、指の震えは止まらない。
私が魔法を使おうとしなければ――。
(いや、私がやらなくとも、オズが殺してしまっていたか……)
結局、助ける道など無かったのだ。私ではオズを止めるなど出来ないのだから。
と諦念めいた思考を巡らせて、ふと違和感に気付く。
「何を……していたんですか?」
口を開けば、まるで久々に喋ったかのように掠れた声が出た。
オズは何も言わない。恐る恐る視線を向けても、彼の視線が私へと向くことは無い。
答えがないまま、再度視線を背けて私は言葉を続ける。
「あの傷は……オズが、やったんですか?」
あの男性が最後まで押さえていた、首から肩に掛けてを割いた深い傷。
そこから溢れる血を思い出して、ゾッと冷えた体を身震いさせる。
「そうだよ」
返ってきた声は隣からではなく、ローテーブルを挟んだ対面からだった。
「けど、オズが仕掛けたわけじゃない。あの男が扉を破ろうとしていたんだ。まあよくいる無頼漢だよ。金目の物でも漁ろうとしたんだろう」
自業自得だ、とでも言いたげにリオンは言う。思い返せば、確かに扉の向こうには斧が落ちていた。オズがそれを使うはずもない。あの男性が持っていた武器なのだろう。
大賢者に勇者までもが揃った部屋を狙ってしまったのは、彼の不幸としか言いようがなかった。
けれど。
腑に落ちないことはまだある。
私を部屋に連れ帰る際、オズはまるで水で洗い流すように、魔法で血痕を消し去っていた。服に付着したものも全て、跡形もなく。
それが出来るならなぜ、私が外に出た時に痕跡は残っていたのか。
なぜ放っておけば勝手に息絶えるはずの男を、物置に連れ込んだのか。
(……焦っていた?)
彼らしくない痕跡の残し方だった。
まるで急いで何かを成し遂げなくてはならないような。
オズは黙ったままだった。いつまで続くか分からない沈黙が息苦しくなってきたその時、オズが薄く唇を開いた。
「僕の、不老の魔法の話を覚えているか」
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