第9話
「レイア!」
ジルが叫ぶ。
突然、気配も無く現れた青年は、右目に掛けたモノクル越しにジルへ、そして私へと視線を向ける。
腰に下げた短剣に手を掛けるジルを警戒すらしていない、緩慢な動作だった。
「その子から手を離せ」
低く、唸るようにジルが告げる。返答によっては本当に剣を抜いてしまいそうな気迫だった。
私は首を横に振り、ジルを止める。
「待って、ジル」
剣を抜く直前で、ジルが動きを止める。今の位置で剣を抜いたところで、私が盾になるような立ち位置になってしまっている。私の身を案じてしまうジルが不利になり、危険に晒されてしまう可能性の方が高い。
私は背後に立つ青年を睨むように見上げる。角度のせいでその表情は上手く伺えない。
「貴方は、旅人……ではないですよね」
ある種の確信すら持って問う。答えは返らない。
だが、私たちと同じように霧の中で迷ってしまった旅人とは、全く別の気配だった。言うなれば、自分の領域に迷い込んだ獲物を狩りにきた獣のような。
「そんなはずは無い。大賢者は百年前の人物だ。――どうやったって、そうは見えない。長命種のエルフでも無い限り、その姿はあり得ない」
私の言いたいことを汲み取った上で、自分に言い聞かせるようにジルが呟く。
確かに私の背後に立つその人物は百歳どころか、齢三十にも届いてはいなさそうだった。銀で縁取られたモノクルから下がる細い鎖は右耳に嵌められたカフスへと繋がっており、青年が僅かに動く度に煌めいて揺れている。
「……その通り。僕はエルフではない。正真正銘、人間だ。但し――」
低く、呟くように。それでもはっきりと耳に届く声。何の温度も無い、独り言のような呟きだった。
髪から覗く耳に視線を向ければ、自分と同じ形をしていた。エルフ族の外見的特徴の一つは長細く尖った耳だという。その丸い形が、事実彼が長命の種では無いことを証明していた。
不意に、見上げていた視線が、彼の見下ろした瞳とかち合う。咄嗟に理由も無く慌てて顔を伏せる。この森と同じように色の無い無機質な瞳が、隠しておかなければならないことまで視線だけで暴いてしまいそうな気がしたから。
数秒の間を置いて、その青年は掴んでいた私の腕を離した。
まだ信じられはしないものの、彼がかの大賢者である可能性が出てきた以上、私たちが逃げ出さない事を見抜いたようなタイミングだった。
自由になるなり、ジルは私の手を引いて自分の背中へと隠してくれる。そこから見る青年の姿はやはり百年もの時を感じさせなかった。
脳内で勝手に思い描いていた、ヒゲを生やし魔法の杖を持った老人の姿が掻き消えていく。
青年は私たちの疑念に答えるように、言葉を続ける。
「…但し、百年前の人間ではある。ようこそ、大賢者の棲家へ。此処を目指していたんだろう」
歓迎しているかのような言葉とは裏腹に、声は相変わらず冷たく平坦で。
彼が何歩か歩いた先の、枯れたような大木の幹を撫でると、魔法だろうか一瞬の間にその幹には浮かぶように扉が現れた。彼はゆったりとした動作でそれを開く。私たちは追い掛けたいような、しかし急いで引き返したいような気持ちで、立ち尽くしたままそれを眺めることしか出来ない。
そんなことに興味も無さそうな青年は開かれた扉の先へと踏み込み、そして扉が閉じる直前に、思い出したようにぽつりと言葉を続ける。
「入るのなら早くしろ。この扉は一度閉まるとお前達ではもう開けられない。もっとも、命尽きるまで人の家の側で騒がしく彷徨っていたいというのなら、止めはしないが――」
「!!……ま、待って!入る!入ります!閉めないで!」
「言うタイミングおかしいだろお前!」
まさに扉が閉まりかけるその瞬間、私とジルは慌てて走り出し、閉まる直前の扉になんとか指を滑り込ませることで再びの遭難を回避したのだった。
転がるようにくぐった扉の先は、なんというか「家」だった。
実在しない物語のように噂だけで語られていた、大賢者の隠れ家。ここがそうだ。
大木の内側をそのままくり抜いて空間を作ったかのような、そんな部屋が蟻の巣のように幾つかの廊下を隔てて繋がっていた。
外へ繋がる扉のあるその部屋には、六人は同時に使えるだろうかという大きめのテーブルが中心に置かれていた。その脇には四つだけ、丸椅子が添えられている。だが、すぐにそれを使うことは出来なさそうだった。
テーブルの上のみならず椅子の上、そして床までも埋め尽くす勢いの紙。
どこを見回しても紙、紙、紙――そして割れたインク瓶や、飛び散る漆黒のインク。
「汚っ」
「……ジ、ジル!」
私はジルの発言を嗜めるが彼はどこ吹く風だ。さっきの一悶着から、ジルは青年を敵視していた。向ける視線一つにすら棘を隠さない。
しかし青年は気分を害した素振りも無い。ジルの声すら届いていないのかもしれないと思うほど、まるで反応が無かった。
そんな青年が振り返り、私はようやく霧に邪魔されずにその姿を捉えることが出来た。
毛先が少し外に跳ねる癖のある、細い銀の髪。長い後ろ髪は無造作に一つに束ねられている。
日に焼けたこともないような、血色感の無い白い肌。そして何より、硝子玉のように何の感情も見せない、灰の瞳に目がいってしまう。まるで儚く美しい、しかし命の無い人形のようだと、私は思った。
色の無い長い睫毛に縁取られたその瞳が、ふと私を捉えた。
反射的に肩を強張らせるがジルがまたその背に庇ってくれる。
「…………それで?」
青年は短く問う。彼をあからさまに警戒する仕草など気にも留めていないようだ。何か用かと問う言葉だった。
ジルは即座に問いで返す。
「お前は、かの大賢者オズか?」
「そうだ」
もったいぶることも、誇ることもしない、純粋な肯定が間を空けずに返る。
「実在、したのか」
まさか、と乾いた笑いを零すジルの呟きが落ちる。
この青年が百年前の時を生きた大賢者だと、証明する術は無い。
だがこの森一帯を覆う死の霧の中、私たちを見つけ出し、自分の家だというこの場所に連れ込んでみせた。こんな森の中に家を構えて暮らすなど、一体誰ができようか。あの霧を生み出す呪いを掛けた本人でないと、難しいだろう。
説得力は十分にあった。
お読みいただきありがとうございます。
評価やブックマーク等で応援いただけると、執筆の励みになります!




