第二十二話 自分の可能性はここまでだ
翌日。寝不足で靄のかかったような意識の中で、鉛のように重たい頭を持ち上げる。どんな状態でも日課時限は機械的に訪れる。平沢もまた、無感情に日課をこなしていく。
日朝点呼、ジョギング、清掃、そして朝食。食堂の清掃を終え、授業準備の放送まで少し時間がある。佐久本教官はもう登庁しているだろう。平沢は教官室へ向かった。
「初任科誠心寮第一〇一号室平沢巡査、佐久本教官に用事があって参りました!——お疲れ様です!」
佐久本教官はすでに登庁していた。
「平沢、おはよう。どうしたの」
いつも笑顔で接してくれるが、今日はそれが心苦しい。
「おはようございます。お話があってまいりました。——私の、身の振り方について」
その言葉で、佐久本教官は察したようだった。
「ちょっと、別の部屋へ行こうか。付いてきて」
平沢は教官の後に続き、教官室を出る。本館一階の小さな会議室のような部屋へ案内され、「失礼します」と断ってから、佐久本教官と向かい合って座った。
「……」
結論は出ている。だが、いざとなると言葉に詰まる。佐久本教官は平沢が話し出すのを、ただ静かに待ってくれていた。
「警察官、を——」
その先を言ってしまっていいのか、本当に。迷いはある。それでも、自分に対する評価は、すでに下してしまった。覆る余地もない。
「や……辞めます、私は」
佐久本教官は、一つ大きなため息をつく。
「私は、校歌を、覚えませんでした。覚える機会は、与えられていました。他の学生ができていた以上、私だけ、覚えられない理由はありません。努力を怠りました。
初日の、昼食の配膳も、周りに助けられてばかりで、自分一人では、与えられた指示を守れませんでした。助けられても、時間内に終わらせることができていませんでした」
平沢の頭の中には、警察官になるために努力してきた過去の思い出が浮かぶ。演劇を辞めてから受験勉強を始め、すぐに合格できたわけではなかった。北海道で年二回の受験を三年繰り返し、計六回失敗した。
一次の学力試験については、問題集を繰り返し解くことで合格できた。だが、二次の体力試験と面接で落ち続けた。そこでジムに通い、走り込みと筋トレを始め、合気道の道場にも入門した。面接対策のために公務員予備校へ通い、臨時職員として北海道警察に勤務しながら、上司にも面接練習を頼んだ。
合格のために、道外の警察も受験して採用機会を増やした。四年かけ、ついに年齢制限ギリギリで宮城県警察に合格した。
「私は、与えられた時間を、努力することに使えませんでした。難しい課題ではなくて、ただやればいいだけの課題です。こんな、簡単なこともできないようでは、これから先、警察官として努力していくこと、なんて——」
言葉に詰まる。こんなこと、自分の口から言いたくない。
「努力、できない人間は、警察官として、ふさわしく——」
限界だった。平沢は嗚咽し、号泣する。努力してきたつもりだった。それでも現実は厳しかった。自分の可能性はここまでだった。それを認めることが、何よりも辛かった。
佐久本教官は、平沢が落ち着くまで黙って受け止めてくれていた。
「平沢、あのね。今週の土曜日。入校式にね、平沢のご両親、来るんだよ。先週ね、電話で話したんだよ。よろしくお願いしますって言われたよ。
平沢。警察官になれなくて、ずっと努力して、やっと警察官になれたんでしょう。いままでずっとふらふらしてたけど、警察官になってくれて安心したって言ってたよ。いままで勉強しなさいなんて言ったことない、逆に勉強のし過ぎで体を壊さないか不安になるような子だったって言ってたよ。いいご両親じゃない。
ここで何位だとかいうことはできないけどね。平沢は、宮城県警の試験に優秀な成績で合格したんだよ。
——平沢、まだ決めるのは早いんじゃないの」
両親。そう言えば、合格を伝えたとき、泣いて喜んでくれた。なぜ、思い出さなかったのだろう。あんなに期待してくれていたのに。
しかし、一度辞めると口にしたことで、すでに平沢の心を支えていた、立派な警察官になるという信念は折れてしまっていた。
本当に、まだ決めるのは早いのだろうか。諦めずにいていいのだろうか。
「平沢。いま、辞めるって言ったとき、本当に言いたくなさそうな顔してたよ。まだ諦めたくないんじゃないの」
——それは、そうだ。辞めたくなんかない。自分は警察官としてふさわしくないと判断しただけで。
「私より、適性の高い者はいると思います」
「もし本当に警察官としてふさわしくないと思ったら、卒業させないから、安心しなさい」
——そう、なのか。それなら、もう少しがんばってみてもいいのかもしれない。
「……わかりました。もう一度、がんばってみます」
佐久本教官は、心からほっとしたようだった。
「うん。……うん。なにかあったら、また相談するんだよ」
「はい。ありがとうございました」
「それじゃあ、もうホームルームの時間だから、一緒に教場に行こうか」
第一教場に入ると、視線が一斉に平沢に集まった。皆は制服を着ていたが、平沢だけまだジャージのままだった。朝食後に一度も寮室へ戻っておらず、授業の準備もしていない。何か問いたげな視線が向けられるが、ごまかせるだろうか。
とりあえず一限と二限の授業を確認し、戸嶋から鍵を預かって、寮室へ着替えに戻る。
佐久本教場の学生たちは平沢のことが気になっていたようだが、触れてはいけないとも感じていたのだろう。何も訊いてこなかった。授業は相変わらず厳しかった。だが昨日と同じように自分を外側から、あるいは内側から眺めているような感覚が続いていた。
普段の調子を取り戻すことが目標でいいのだろうか。それでは何も変わらないのではないか。
平沢は自分のことがよくわからなかった。辞めたいと口に出したことが理由なのか、泣いたことが理由なのかもはっきりしない。ただ、心は妙にすっきりしていた。
警察の仕事に対して泣くほどの執着があったことに、自分でも驚いていた。そもそも、何かに執着できるほどの思いを自分が抱えていたことに驚いていた。
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