第二十一話 僕も死ねばいいのに
就寝時間になった。布団に潜り込み、なぜ二十二期生の中で自分だけ校歌を覚えられなかったのか考える。五十名以上の同期がいるのだから、暗記力に個人差はある。平沢は年齢制限ギリギリでの受験だったため、年齢的なハンデもあるだろう。だが、それは一人だけ覚えられなかった理由にはならない。
やはり、努力が足りなかったのだ。事前に覚えておくよう指示は出ていた。土日も何もしなかったわけではないが、暇な時間はいくらでもあった。真剣さが足りなかった。本気になれなかった。上司からの指示だったにもかかわらず。苦手なことを避けていたのか。まだ次があると、どこかで甘く見ていたのか。
校歌を覚えるというのは、ただの暗記作業だ。複雑でも難解でもない、単純な課題。それをこなせなかったというのは、つまり——怠慢だ。
確かに毎日忙しかった。ストレスもあった。だが、それは皆同じ条件だ。むしろ、現場に出れば今以上に過酷になるだろう。疲れている場合ではない。
入校して、まだ一週間も経っていない。そのうち二日は休日だった。少しずつ環境に慣れてきたと感じていたが、それは自分だけの感覚かもしれない。教官から見れば、評価の対象にすらなっていないのではないか。
正確に言えば。指示されたことを実行していないという時点で、評価される資格すらない。無理難題だったかといえば、そうではない。自分以外の全員が、普通にこなしている。
なぜ本気になれなかったのか。校歌を覚えることに、馬鹿らしさを感じていたのか?そんなことはない。命令されていたから、やらなければならないと思っていた。時間に余裕があると思っていたのか?平日は忙しく、日を追うごとに課題が増えることは数日で理解していたはずだ。
休日こそ、その負債を解消する唯一の機会だった。命令を遂行する責任感は、怠けたいという誘惑に敗れた。警察官になるための生活が始まったばかりだというのに。
そもそも、なぜ警察官になりたかったのか。
平沢は、自分の人生を振り返る。小学生の頃までは、内向的な、どこにでもいる子どもだったように思う。
平沢は中学一年生のころにいじめを受けていた。内向的だったからとか、話をしていても当たり障りのないことしかしゃべらないのでおもしろくないとか、きっかけはおそらくそんな理由だ。普通に話すよりからかっていたほうがおもしろかったのだろう。いじめる側の心理がどうだったかなど重要ではない。正当性はないのだから。人格の否定を許して良い正当な理由はあるだろうか?
しゃべり方や仕草を真似されたりしてからかわれることが続いていたある日、平沢の机の中に見覚えのない筆入れが入っていた。それを見つけてすぐに、これから筆入れを盗んだ罪をなすりつけられるのだろうと気づいたので、見知らぬ筆入れをかばんの底に移した。すぐに気付けたのは平沢も卑怯な人間だからだろうか。
休み時間が終わり、ある同級生が筆入れがないと騒ぎ始めた。彼もまたいじめられていた一人だが、抵抗する強さを持っていた。平沢をいじめている一人が「しょうがないな」と言ってまっすぐ平沢の机を覗き込みに来て、「あれ、ない。ごめん、ないわ」と言って戻っていった。人を殺したいなと思ったのはそれが最初だったように思う。
それから一年が過ぎて何も解決してはいないが、進級によるクラス替えに伴っていじめられることはなくなった。精神が疲弊するには十分な時間だ。
中学二年生になると今度は平沢とは別の生徒がいじめを受け始めた。他の地域や学年ではどうなのかわからないが、小学三年から中学卒業まで平沢の過ごした全てのクラスで誰かがいじめられていた。小学二年より以前のことは細かく覚えていない。別のクラスでも誰かがいじめられているという噂はどの学年のときでも聞こえてきたり実際に見かけることもあったので、平沢が生きる世界でいじめは日常だった。
それまで平沢は積極的にいじめに加担することはなく、傍観者でいることが多かった。だが中学一年生で初めて自分が標的になり、いじめに対する恐怖が植え付けられた。だから、別の標的ができたときに平沢はいじめに加担した。そして気づいた。
弱者をいたぶるのは楽しい。
そう感じた自分に気づいたとき、平沢は自分がとても醜い生き物だと自覚した。辛さも悲しさも経験して、身に沁みているはずなのに。自分をいじめる人間が死んだら楽に生きられる。何度もそう考えていた。だから。
僕も死ねばいいのに。
そう考えることもあったが、その選択はできなかった。醜くても生きていたかった。それから、正しいとはなんだろうと考えることが多くなったように思う。
もし自分をいじめた人間が許しを請うてきたら、絶対に許さない。家族や友人や、大事な人が全ていなくなって守るものがなくなったとき、戯れにそいつを殺したら心の澱が少しはなくなって息がしやすくなるだろうか。そうしたとしても、罪悪感は全く無いだろう。
だから平沢自身、自分が許されてはいけないと考えている。けれど平沢がいじめた者が復讐しに来たら逃げてしまうだろうとも思う。人を信じられなくなり、自分すら信じられない。高校では極力人と関わらず、本ばかり読んで過ごした。自分の一人称が僕から俺に変わったのはこの頃だ。人と関わるときの仮面ができたのかもしれない。
その状態が「正常」ではないと感じ、大学では心理学を専攻した。だが、たまたま誘われて入った演劇サークルが、人生の転機となる。
それまで自分を表現することなどなかった平沢にとって、演劇との出会いは衝撃だった。彼女もできた。初めて過ごすことができた青春のひとときだった。
人と深く関わることで、人を信じてもよいのかもしれないと思うようになった。
大学卒業後、一般企業に就職したが、演劇への情熱が冷めきらず、フリーターになって舞台を続けた。だが次第にセリフが覚えづらくなり、セリフに感情を乗せることが難しくなっていった。他人の人生を演じることで欠けていた自分の人生を取り戻している感覚もあったが、もうそれも十分な気がしていた。
両親から遊んでばかりいてまともに就職するよう言われ続けていた。世間的にそう見られることは理解していたが、平沢にとってはたしかに必要な時間だった。けれど欠けていたものを取り戻したのなら人生のモラトリアムを終わらせるときがきたのだろう。まともに就職していないのは兄弟の中で自分だけだ。将来について、ようやく考えるようになった。
安心してもらうには、公務員なら申し分ないと思った。警察は試験科目が少なく、学力には自信があった。正義の味方へのあこがれもあった。正義とは何なのかを知りたいという思いも。
自分を信じられるようになりたかった。
だが。校歌を覚えるという簡単な課題さえできない自分が、この先、警察官として困難に立ち向かえるのか。本当に、肝心な場面で誘惑に打ち勝てるのか。
自分は、警察官としての適性があると言えるのか。
——もっと適正のある人間に、その席を譲るべきではないのか。
自信がない。自分を信じることができない。眠れないまま、思考は空回っていく。
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