第十六話 黙っていても価値は生まれない
朝五時。今日は教場当番なので早めに起きる。枕元の目覚ましが鳴るや否や、即座に止める。一〇一号室の相部屋に迷惑にならないよう気を使う。
洗面とひげそりを済ませ、音を立てないように注意しながら制服に着替える。靴下はジャージのときは白、制服のときのときは黒。室内勤務なので制帽は不要だ。教官室に入るため念には念を入れて、メモを見ながら身支度を再確認する。
制服の左腕には「教場当番」と書かれた腕章をつけている。この腕章は、毎日教場当番から次の教場当番へ引き継がれていく。
警察で支給されるネクタイは少し長く、適当に結ぶとベルトよりも下に垂れてしまう。そのため、少し複雑なダブルウィンザーノットで結ぶ必要がある。
身なりを整え廊下に出ると、今田がすでに待っていた。
「悪い、待った?」
「いや、まだちょっと早いくらいだから大丈夫だよ」
二人で教官室前へと向かう。来客受付の窓越しに、すでに教官室内に制服姿の学生がいるのが見えた。
「あれ?もう教官室に入ってる」
平沢が首をかしげた。
「メモの時間より早ぇじゃん」
今田も小声で同意する。
教官室前の鏡で最終チェックをし、互いの背中側も確認し合う。教官室では、朝六時の起床放送前に当直教官の寝具を片付ける作業がある。昨夜の打ち合わせで、そこからジョギングを終えるまでの仕事は宮城県警の担当となっていた。
当直教官がまだ寝ている時間に扉をノックしてしまわないかと心配していたが、その懸念は杞憂に終わった。だが、先輩学生に仕事を任せてしまったのではないかという別の懸念が頭をよぎる。
「俺、先に入る」
今田が一歩前に出た。警察学校では積極的な行動が評価される。できないこと、知らないことに向き合わずに過ごしていれば、教官から厳しく詰められる。埋もれて生きようとすれば、評価は地に落ちる。ここでは、黙っていても価値は生まれないのだ。
今田が教官室の扉をノックし、声を張る。
「入ります!」「入ります!」
扉を開けて一歩踏み出し、背筋を伸ばす。平沢も後に続き、扉を閉めて今田の左に並ぶ。姿勢を微調整して真横に並んだと確認した瞬間、機敏に正面へ首を戻した。その動きを感じて、今田が号令をかける。
「気をつけ、礼!」
号令に合わせて腰を三十度曲げ、一礼。
「初任科誠心寮第一〇二号室今田巡査!」
「同じく、第一〇一号室平沢巡査!」
「教場当番のため教官室へ参りました!——礼!」
二人揃って一礼する。
『お疲れ様です!』
今朝までの当直教官は拳銃担当の真壁教官だった。
「はい、お疲れさまです。それじゃあね、もう二十一期生の教場当番来てるから、一緒にお願いします」
『はい!』
二人はそのまま二十一期生のもとへ向かう。
「すいません、遅れました」
平沢が年下の先輩学生に頭を下げる。相手は二十歳前後だろうか。
「いえ、私たちも先程来たばかりですよ。いま寝具を片付けているので、折りたたみベッドをお願いできますか」
『はい!』
今田とともに折りたたみベッドをたたみ、掛け布団・毛布・枕・敷布団を抱えた二十一期生のあとに続く。教官室の奥へ進むと、左手には「校長室」、右手には「当直室」と書かれたプレートが見える。当直室に入ると、広めの靴脱ぎ場があり、そこにちょうど折りたたみベッドが収まる程度のスペースがあった。
靴脱ぎ場の奥は一段上がっており、六畳ほどの和室の中央にはちゃぶ台が置かれている。和室の左手は押入れになっており、二十一期生たちはそこに寝具を収納していく。
「すいません、私たちで放送をかけてみたいので、必要なものの場所とか教えていただいてもよろしいですか」
平沢が丁寧に尋ねる。
「わかりました。では、ついてきてください」
二十一期生は教官室の来客窓の右側にある操作盤へ案内した。操作盤には「本館一階」「誠心寮」「体育館」「射撃場」などのシールが貼られたボタンが並び、音量つまみやカセット挿入口がついている。
下の引き出しを開けると、たくさんのカセットテープが収められていた。背表紙に「起床」と書かれた一本を手に取る。
「最初にこのカセットを入れて、電源ボタンを押します。次に『誠心寮』『恵仁寮』のボタンを押してください。音量は普段いじらず、目盛りが五になっていれば大丈夫です。それから『放送チャイム』のボタンを、放送の前後に押してください。最後にカセットの再生ボタンを押してから、話します」
「ありがとうございます」
そこまで複雑ではないようだ。ただ、カセットテープが現役で使われていることに驚く。埋め込み式の古い機材なのだろう。改修の予算も限られているのかもしれない。ちなみに、恵仁寮とは女子寮のことだ。
「じゃあ、放送は俺がやるね」
今田にそう伝え、真壁教官へ集合場所を確認しに行く。
「失礼します。真壁教官、今朝の集合場所はどちらになりますでしょうか」
「今日は晴れてるから、グラウンドでいいよ」
「はい、ありがとうございます。失礼します」
腕時計を確認する。二十一期生が教官室の固定電話で時報をかけ、スピーカーに切り替える。電話機から、「五時五十九分、四十秒……一、二、三……」と時報の声が聞こえる。秒単位で正確に測っているようだ。
カセットをセットし、五十秒で電源ボタンを押す。五十五秒で「誠心寮」「恵仁寮」のボタンを押す。これで、寮内には「ブツッ」という音が聞こえたはずだ。
「ピンポンパンポ〜ン」と小さな音が操作盤から鳴る。チャイムボタンを押したのだ。続けてカセットの再生ボタンを押すと、爽やかな朝のBGMが静かに流れ始めた。
「おはようございます。起床時間です。学生はグラウンドに集合してください」
平沢は今田にもらったメモを見ながら、落ち着いた声で読み上げた。
次の仕事まではあまり時間がない。副総代が当直教官に向かって人員報告を叫ぶので、それを聞いて記録用紙に人数を書き込む。教場当番全員で確認し、間違いがないかすり合わせる。
当直教官の指示のあと、警察体操が始まった。今度は今田が操作盤の前に立ち、放送を流した。
六時二十分になると国歌が流れ、国旗掲揚が行われる。操作盤の右側の棚には、折りたたまれた国旗が収められていた。国歌の放送は平沢の担当となったため、教官室に残って待機する。二十一期生たちは、国旗を抱えてグラウンドとプラザへ向かい、教官室を出ていった。今田はプラザの担当学生に同行した。
教官室の窓から見ていると、学生はポールの前で立ち止まり、国旗の左端——上下の角にあいている穴に、ポールに付属した紐を取り付け始めた。時間になったので国歌を流すと、学生はポールの紐をゆっくり引き、国旗は音もなくポールを昇っていく。国歌が終わると同時に、国旗は頂上に達し、学生が国旗に向かって敬礼。教官室へ戻ってきた。
この時間、学生たちはみなジョギングをしているが、教場当番は免除される。正直、教場当番よりもジョギングの方がまだ気が楽だ。もっと慣れてきたら教場当番のほうが気楽に感じるようになるのだろうか。
真壁教官が戻るとすぐに、教官室の扉がノックされ、耐刃防護衣を着けた学生が六人入ってきた。
「気をつけ——礼! 初任科誠心寮第二〇三号室林巡査!」
「同じく——」
礼のあと、学生たちは机に置かれた教官用の無線機のそばに、携帯用無線機を返納していった。六時までの当番勤務を終えたのだろう。
その後、残りの教場当番も揃い始めた。教官たちが徐々に登庁するので、それぞれに朝食前のコーヒーを給仕する役目がある。
「今田、ちょっと聞いていい?」
「ん?」
「国旗ってどうやってつけてたの?」
「ああ、あのね。国旗の左側の、上下の角に穴開いててさ。」
その穴には金属製の輪が補強としてはめられている。
「うん」
「ポールの紐に、金属製のフックがついてんのね。こう、つまんだらパカって開くやつ」
「ああ、なるほど」
「うん、それを付けたら終わり」
「了解、ありがとう」
忘れないようメモしておく。次の教場当番まで一週間以上はあるし、その間に掲揚の機会がなければもっと先になる。うろ覚えでは済まされない。
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