第十一話 すでに筋肉が切れている
八時四十五分、一時限目が始まる。同期の学生が五十名ほど体育館に整列していた。教官が現れると、学生の号令で一斉に起立する。今日から号令も学生の担当らしい。
体育館内には、すでに教科書が並べられていた。地域、刑事、交通、生安、警備、刑法、刑事訴訟法などの教科書に加え、法令集として「警察官実務六法」もある。教科書を入れるための、トートバッグ型の学生カバンも配られた。
学生たちは順に教科書を受け取りに行き、カバンに詰めていく。どうにかすべて収めたが、重さは少なくとも十キログラム以上になった。
「皆さんにいま配った教科書は自分の机に整理してもらうことになりますが、きれいに整理してくださいね。抜き打ちで寮室点検が行われます。整理整頓されていない場合、私たちから指導が入りますので、気を抜かないように」
教科書が配布された後は環境整理——つまり片付けの時間となり、寮室へ戻る。
「寮室点検ってなんだよ、教官が突然入ってくるって、マジかよ⋯⋯」
綿貫のぼやきに西島が乗っかる。
「勘弁してくれよぉ。気ぃ抜けねぇじゃん」
「まあ、言っててもしょうがない。片付けよう」
戸嶋の声掛けで二人はのろのろと片付けを始めた。
十時十五分。学生たちは体育館二階の武道場に集まっていた。畳が隙間なく敷かれ、壁際には柔道着と剣道着、剣道の防具がサイズ別に並んでいる。
武道の選択は柔道と剣道に分かれ、女子学生は全員剣道選択となる。平沢も体格に自信がないため、剣道を選んでいた。
逮捕術では全員が柔道着を着るため、柔道選択者は柔道着のみ、剣道選択者には剣道用具も加わる。
まず、柔道着を受け取っていった。上衣、下衣、帯には個人名が刺繍されている。
柔道選択者が輪になって柔軟運動を始めた。どうやらこれから柔道の訓練が行われるらしい。
続いて剣道着と剣道の防具の受け取りが始まる。上衣、袴、帯、面、胴、籠手、垂、肩掛けタイプの防具バッグ、竹刀袋のすべてに個人名が刺繍されていた。剣道選択者はそれらを手に、一階の体育館へと移動する。
「はい、それではこれから剣道の訓練を始めます。と言ってもみなさん初心者が多いですから、竹刀を振る筋肉がついていません。なので、まずは素振りをしてもらいます。あ、その前にマジックを配るので、竹刀の柄と面手ぬぐいに名前を書いてください」
制服や警棒が配布されたときにいた須崎教官だ。そういえば、点検教練と剣道を担当していると言っていた。
名前を書いて柔軟運動を終えると、素振りの説明が始まった。学生たちはぶつからないよう間隔をとり、ジャージ姿のまま素振りを始める。右足を一歩踏み出し、「面!」と叫んで、竹刀を振り下ろす。同時に左足を引き付けた後、元の位置に戻る。その繰り返し。
須崎教官は学生の間を回り、姿勢や動きを指導しながら、竹刀で軽く叩いていく。平沢も何度か叩かれた。
だが、一向に終わる気配がない。二百回を超えたあたりで数えるのをやめた。腕はとうに痺れ、感覚もない。三十歳を過ぎてから筋肉痛は翌々日に来るようになったと思っていたが、すでに筋肉が切れている実感がある。
痛みを抱えたまま素振りを続ける。叩かれる回数も増えた。姿勢を意識する余裕などない。ただ、足さばきと気合の声だけはかろうじて続いている。だが、腕だけはどうにもならない。右腕が動かず、左腕でなんとか竹刀を支えながら素振りを続けている。
今もまだ姿勢を保てているのは、おそらく経験者だけだろう。須崎教官の指導がそこかしこから聞こえてくる。
「やめ!」
どのくらい経っただろうか、その声がようやく響いた。
「一旦休憩。飲み物を買ってきてもいいです。十一時から再開します」
汗がとめどなく流れ落ちる。右手で面手ぬぐいを掴んだが腕が動かず、左手に持ち替えて顔を拭う。小銭入れは忘れてきた。あと十分……寮室へ戻るか迷う。
「平沢さん、飲み物買いに行かねぇ?」
剣道選択者は一○一号室で綿貫と平沢だけだ。
「あー。小銭入れ忘れちゃって」
「じゃあ、貸すよ」
「いいの?ありがとう。寮室戻ったらすぐ返すよ」
綿貫の左右に学生が二人現れる。
「悪いね〜綿貫。ありがとう」
「おー悪ぃ悪ぃ。ちゃんと返す」
どちらも一〇二号室の学生。ニコニコしているのは昨夜一〇一号室にいた榎木、遠慮がないのは大前だ。
「お前らには言ってねぇ!水でも飲んでろ」
「頼むよ〜、寮室戻るの面倒でさ」
「はいはい、しょうがねぇな」
スポーツ飲料を飲んで一息つけた。だが、休憩が終わると再び素振りが続けられる。メニューに変化はない。
時間になり、教官から訓練の終了が告げられる。学生たちは全員正座する。
「正面に礼!お互いに礼!」
稽古終了の礼を終えると、須崎教官が最後に訓示した。
「このくらいの時間、素振りを続けられないと話になりませんから。でもまあ、最初だけですから慣れてください。では、風邪引かないようにしっかり汗の始末して食堂へ向かってください」
平沢は竹刀を袋に収めようとするが、右腕がうまく動かない。いつ回復するのだろうと、不安を抱えながら寮室へ戻った。
十一時三十五分。昼食の時間となった。平沢は寮室に戻ってジャージに着替え、借りたお金もすでに返している。食堂には余裕を持って着くことができていた。配膳の準備にも慣れてきたが、周りを見ると今日は全体的に動きが鈍い。柔道選択者はずっと筋トレだったらしく、剣道の方がまだマシだったのかもしれない。右腕以外はなんとか動く。
今日は同じテーブルに佐久本教官が座った。話題を振ってくれたおかげで、昨日のような沈黙にはならなかった。ただ、右腕がうまく動かない。左手では箸を扱いにくく、右手で食べようとするが、箸が口元まで届かない。上腕と下腕の間に、なにか硬いものが挟まっているような、そんな違和感だった。右腕はまだ小刻みに震えている。おなかは十分以上に空いている。仕方なく口の方を箸に近づけて食べる。
「平沢、どしたの」
佐久本教官の問いかけに、少しためらいながら答えた。
「いえその⋯⋯箸が、顔まで届かないんです。その、剣道の素振りで⋯⋯」
「あらまあ、大変だねえ」
そう言って佐久本教官は笑った。つられて平沢も笑う。
「あれ、他に剣道選択してる人いないの?」
「はい、俺、剣道選択です」
綿貫が手を挙げて答える。
「綿貫は平気そうだねえ」
「はい、剣道二段で、素振りは慣れてます」
「あ、そう。じゃあ綿貫、平沢に剣道のアドバイスしてあげてね」
「はい、もちろんです」
「どうした綿貫、なに真面目なフリしてんだよ」
古謝が茶化す。
「うるせー、馬鹿。俺はいつも真面目だよ。なあ?⋯⋯なあって。どした、みんな。ほら、真面目な綿貫くんがしゃべってますよ?おい、誰かなんかしゃべれよ。え?教官まで黙んないでくださいよ」
そんな和やかな雰囲気のまま、昼食が終わるかに思えた。
「ここで一旦区切りをつけます!」
青ジャージの学生が壁時計脇の柱で号令をかける。食事などを管轄する「総務委員」という学生委員があり、校長、副校長、教頭、参事(警察学校事務のトップ)が食事を終えたのを見計らって伺いを立てる。許可が下りると号令がかかる。
学生たちは食事をやめ、背筋を伸ばす。
「いただきました!」
『いただきました!』
声を揃えて挨拶すると、教官たちは席を立つ——はずだった。だが今日は、判教官だけがその場に残っている。学生たちは目配せを交わしながら、静かに待機する。
「今から呼ばれた者、その場で起立するように。一〇八号室、小野田巡査!」
「はい!」
呼ばれた小野田巡査が素早く立ち上がる。
「小野田、なんで呼ばれたかわかるか」
「⋯⋯わかりません!」
「体育館に、空のペットボトルとお前の面手ぬぐいが置きっぱなしだった。思い出したか?」
「はい!」
荷物が多く、疲れもあって忘れてしまったのだろう。
「自分の持ち物に常に気ぃ配っとけ!これが警察手帳だったらどうする!周りのやつも気づいたら教えてやれ!見てみぬふりしてんじゃねぇ!……福島県警の剣道選択者、全員起立!」
『はい!』
「このあとの食堂清掃はお前らだけでやれ」
『はい!』
連帯責任になったようだ。自分のことだけでなく、仲間にも目を配る。それも、この仕事に求められる資質なのだろう。
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