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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
百年越しの一歩

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覚書

 翌朝。

 眠りの淵に、まだあの指先の感触がこびりついていた。ひやりと冷たい指だった。

 ベッドから重い体を起こすと、くたびれたマットレスがゆっくりと元の形に戻っていった。

 ——「考える」。セリアにそう言われてから、なしのつぶてだ。

 セリアは甲斐甲斐しく私の装備の留め具を直してくれたりもした。どう見ても一緒に行く気満々の挙動なのに、肝心の「言葉」だけがすっぽり抜け落ちている。生殺しにもほどがある。

 昨夜、宿に戻ったところで、通信石越しにキリヤから「時間がある時に」と呼び出しがあった。よりによってこんな時に、何の用だ。

 水筒に熱い湯を注いで栓を締め、ため息と一緒に宿を出た。



 魔法協会。

 受付で名前を告げると、そのまま最上階の執務室へ通された。



「ユズリハ君。よく来てくれたね」



 執務机の向こうで、キリヤが書類から顔を上げた。いつもの穏やかな笑み。紫水晶の瞳が、こちらを捉える。

 応接の椅子に座る前に、本題が来た。



「そろそろ、君にまとまった任務をお願いしたいと考えていてね。例の後付けの個体——あの出所を追う、北方の辺境調査だ。期間は半年、長引けば一年というところかな」



 ……いやいや、長いよ。半年?

 冗談じゃない。その間、セリアと離れ離れになるのか? ……いやそうじゃなくて、虚ろの迷宮が果てしなく遠のく。セリアから色よい返事をもらい次第、ソロン先生に推薦状を書いてもらって即突入する腹積もりだったのだ。

 だが、断ればどうなる。最悪、認定魔導士の資格を剥奪される。魔法協会という最大の後ろ盾も、すべてパァだ。

 それでも——天秤にかけるまでもなかった。



「申し訳ありません。その任務、お受けできません」



 キリヤの手元で、サラサラと走る羽ペンの音は止まらなかった。穏やかな笑みのまま、紫の瞳の奥だけが、すっと温度を失う。



「……へえ。理由を聞いてもいいかな」


「行きたい場所があるんです」


「どこへ?」


「虚ろの迷宮です。……できるだけ早く」



 羽ペンの先が、紙の上でピタリと静止した。紫の瞳の奥で、何かが揺らめいた。次の瞬間には、元の柔和な顔に戻っていた。



「……協会の本業を断ってまで、あの『虚ろの迷宮』へ? なぜだい」


「個人的な事情です。どうしても、行かなければならない場所なので」


「個人的な、事情」


「はい。これ以上は、お話しできません」



 下手に言葉を飾れば、どこかからボロが出る。キリヤはそれ以上、踏み込んではこなかった。羽ペンをスタンドに置き、静かに首肯する。



「そうか。あそこは国が管理する高ランクのダンジョンだ。……ソロン様には、もうお話を?」


「話は通してあります」



 キリヤは、ふっと息を抜くように、少し間を置いて言った。



「気をつけてね」



 ……通った、のか? 岩のように強張っていた肩から、一気に力が抜けた。

 あとから懲罰だの除名処分だのが届くかもしれない。

 ……冷静に考えると、今の私は「推しのライブがあるので、長期出張は無理です」と上司に言い放った社員と大差ない。

 まあいい。もともと協会の肩書きなんて、元の世界へ帰るための抜け道でしかなかったのだ。本命の道が見えた今、迂回路に用はない。

 深く頭を下げて、執務室を辞した。



 協会の重厚な門をくぐり抜けたところで、思わず足が止まった。……言ってしまった。長期任務を蹴飛ばし、虚ろの迷宮に行くと啖呵を切ってしまった。

 もう、行かないという選択肢はない。

 ——自分の退路だけ綺麗サッパリ断っておいて、肝心の連れ添いはまだ保留中。我ながら計画性が皆無すぎる。

 門の前で立ち尽くしたまま、姉の家がある方角を眺めた。

 数日前に顔を出した時、姉は大きくせり出した腹を両手で支えながら、「もういつ生まれてもおかしくないんだって」と幸せそうに笑っていた。

 生まれたら絶対に知らせてよね、と約束したのは私だ。なのに、その知らせが宿に届く頃、私はもう王都にいないかもしれない。迷宮に行くことすら、まだ言っていない。

 どうする。どうすればいい。まとまらない思考のまま、足だけが勝手に地面を蹴っていた。



 表通りの喧騒を抜け、細い裏路地に入り、ゆるやかな坂を登って生け垣を曲がる。この道なら、目を瞑っていたって歩ける。

 ……ああ、なんだ。結局私は、先生のところに逃げ込んでいるんじゃないか。

 街のざわめきがすうっと引き、代わりに青臭い薬草の匂いが鼻先をかすめる。低い石垣の向こうに、見慣れた苔むした屋根が見えた。庭先には無造作に薬草の鉢が並んでいる。その鉢の隙間で、角に枯れ蔦を絡ませたまんまの鹿が、気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。



「グフッ」



 私が足音を立てると、鹿は気の抜けた鼻息を鳴らし、まるで甘える飼い犬のように鼻先をすり寄せてきた。誰がこれを元魔物だと思うんだ。



 建て付けの悪い木戸を押し開ける。

 薄暗い土間の奥に、机に向かうソロンの丸まった背中が見えた。羽ペンを走らせる音が、規則正しく響いている。



「……アオイか。何の用だ」



 手元も止めずに、声だけが飛んできた。どうせいつもの仏頂面だ。



「弟子が顔を出すのに、いちいち用件が必要なんですか」


「来るなら茶代を置いていけ」


「大魔法使いのくせにケチくさい」


「金持ちはお主のほうだろう」


「まあ、おかげさまでそれなりには……。ただ、近々、魔法協会をクビになるかもしれません」


「……どういうことだ」


「長期の任務を断ってきました。虚ろの迷宮に行くために」


「話はあとで聞く」



 部屋に上がると、机の隅に、封蝋のされた羊皮紙が一枚置かれていた。

 ソロンはペンを置き、よっこらしょと台所へ向かった。茶碗を二つ運んできて、ひとつを私の前にコトと置き、向かいに腰を下ろす。

 眠たげな目が、まっすぐこちらを向いた。



 その時、表の木戸のあたりで無遠慮な声が響いた。



「ソロン、紅心草(べにごころそう)だぞ!」



 縁側にドサリと布袋を放る音がして、足音はそのまま遠ざかっていった。

 ——紅心草。この世界に来たばかりの頃、ソロンのお使いで王都の肉屋まで全力疾走させられた、あの薬草だ。

 ソロンが縁側から布袋を拾ってきた。



「肉屋からだ」



 やっぱりあのオヤジか。それにしても、あの生ける伝説みたいな大魔法使いを呼び捨てにする人間が、この世にまだいたとは。



「……先生、あの肉屋の店主と仲いいんですか?」


「バルトか。ただの腐れ縁だ」


「へえ、先生にもそういう人がいるんですね。ちょっと感動しました」


「わたしに友人が一人もいないとでも言いたいのか?」


「いいえ? 肉屋の裏で薬草を横流しする怪しいオヤジと、それを揚げて食う偏食の魔導士。類は友を呼ぶって、まさにこのことだなと」


「減らず口を叩くな!」



 ソロンは布袋を抱えて台所へ引っ込み、かまどに火を入れて小鍋の油を熱し始めた。袋から出てきた紅心草は、葉の縁が赤く、根元に向かうほど深紅に染まっている。

 油がパチと鳴るなり、ソロンはその葉を数枚放り込んだ。じゅわっ、と葉が反り返り、赤が一段と濃くなる。

 届いた直後にノータイムで油にダンクシュートするなよ。



「……それ、全部揚げる気ですか」


「足りなくなるよりはいい。日持ちもする」


「あのですね、年寄りが揚げ物をそんな一気食いしてたら、心臓に来ますよ」


「……余計なお世話だ」



 ソロンはさらに一掴み、油へ放り込んだ。台所が、香ばしくて少しツンとくる匂いで満ちていく。



「お主の故郷にも、揚げ物はあるのか」


「そりゃもう山ほど。これにそっくりな『ポテトチップス』ってお菓子もあるし、エビや野菜に衣をつけて揚げる『天ぷら』もあるし」



 ——口の中に、じわりと唾液が溢れてきた。



「……ほう」



 ソロンは背を向けたまま、箸先で油の様子を見つめている。

 ……ダメだ。誤魔化しに来たんじゃない。



「……先生」


「なんだ」


「セリアにあの件、切り出してみたんですけど。……返事が、来ないんです」



 ソロンの箸が、油の海の上でピタリと止まった。



「迷宮の話か」


「……はい。一緒に行こうって言いました。でも『考える』って言われたきり、保留されてて」


「催促はしたのか」


「してません。……こっちの都合で巻き込むのに、急かすのは違うかなって」



 ソロンは小さく息をつき、再び紅心草を一枚ずつ油へ落とし始めた。



「で、わたしにどうしろと」


「…………分かりません」



 吐き出してから、自分でも情けなくて消えたくなった。一体私は何がしたいんだ? 愚痴ったところでどうにもならないのに。



「なら、先にお主自身の話を聞こう。——協会の長期任務を、蹴ってきたと言ったな」


「……はい」


「あの方の返事がどうあれ、行く気でおるのか」


「……行きます。絶対に」


「……アオイ」


「はい」



 ソロンの背中越しに、低く声が落ちてきた。

 いつも通りの平坦な調子なのに、そこに含まれる温度だけが、さっきまでとまるで違っていた。



「最初に弟子入りを許した日、わたしがお主に何と言ったか、覚えておるか」



 唐突な昔話のパスに、思わず記憶をまさぐる。



「……酒場で先生とひたすらエールをあおり散らかした記憶しかありません」


「あれはただの祝杯だ。酒の話などしておらん」



 ソロンが鍋の前で、半身だけこちらへ振り返った。細められた眠たげな目が、私の心を覗き込むように据わっている。



「——お主の目的について、わたしが何と言ったかを聞いておる」


「……『地球に帰るまでを、見届ける』……でしたっけ」


「忘れてはおらんな」


「……はい」


「あの言葉に嘘はない。お主が自ら選ぶ道の終わりまで、わたしは付き合う。——だからこそ、お主が行くと腹を決めたのなら、わたしは止めん」



 パチ、と油が跳ねた。鍋底に沈んでいた葉が一枚、ふわりと油面に浮き上がってくる。



「ただ——迷宮の前まで来た以上、わたしからも、一度だけ問うておきたい」



 ソロンは再び、油鍋へと向き直った。



「お主、最近よく笑うようになった。——最初にふらりと転がり込んできた頃の、あの死んだ魚のような顔とはまるで違う」


「……」


「その上で聞く。——地球に戻るのは、お主自身の意志か?」



 ……思っていたより、ずっと鋭く、まっすぐな一撃だった。

 けれど、答えならとっくに用意してある。何度も頭の中で組み立ててきた、鉄板の模範解答だ。



「ここに来たのは、私の意志じゃありませんでした。友達も両親も仕事も……何ひとつ自分で手放すと決めないまま、全部置いてけぼりにされた。だから、取り戻したいんです。私の、当たり前だった日常を」



 パチパチと弾ける油の音。赤く揚がっていく葉。ソロンは菜箸で、淡々と葉をひっくり返した。



「……それは、来た時の話だ」



 途端に、喉の奥に鉛が詰まったように言葉が引っ込んだ。

 用意していた完璧な模範解答が、音を立てて足元に崩れ落ちる。

 帰りたい。それは絶対に嘘じゃない。

 なのに——帰ったあとの日常を脳裏に描こうとすると、なぜか昨夜の焚き火の音と、指先を絡め合った時の、あのひんやりとしたセリアの体温ばかりが鮮明に浮かび上がってくる。

 奥歯をきつく噛みしめた。胸の奥を検索した。——検索結果:該当なし。いや違う、結果がないんじゃない。出したら全部崩れてしまうような答えを、私の心が必死にアクセス拒否している。

 ソロンは振り返らない。焦がさないよう葉を返しながら、ただ静かに待っている。台所には、油が弾ける音だけが延々と響いていた。



「……今は、答えんでいい」



 何事もなかったような声だった。ソロンが鍋を軽く揺すった。



「だが、その問いだけは、腹の中に抱えて持っていけ」



 また一枚、紅心草が落とされ、じゅっと小気味よい音が立つ。



「お主がいざ虚ろの迷宮の前に立った時、己自身で答えを出せばいい。——わたしはただ、お主が出した結末を見届けるだけだ」



 ……見届ける。ソロンが網杓子を鍋の縁にカツンと置いた。私は膝の上で、手をぎゅっと握りしめた。



「——で、あの方の話に戻るが」



 ソロンは油の中から、カラリと揚がった葉をすくい上げた。



「お主が迷宮へ行くことと、あの方が共に行くかどうかは、完全に別の問題だ」


「……」



 油を切られた葉が、大皿の上へとカサリと落ちる。



「一緒に来てほしいと願ったのなら、答えも真正面から本人の口から引き出せ」


「でも、しつこく急かすみたいで……」


「期限も切らずにただ黙って待つことを、世間では『気遣い』とは呼ばん。ただの『逃げ』だ。お主はまず己が出発する日を決め、それを叩きつけた上で、あの方の覚悟を聞け」



 ——キリヤには「できるだけ早く」と言えたのに。セリアには、具体的な日付ひとつ伝えていなかった。



「……分かりました。ちゃんと、聞いてきます」


「返事を聞いたら、もう一度ここへ来い。推薦状はその時だ」


「はい」



 大皿の上に、鮮やかな赤のチップスが小山のように積み上がった頃。ソロンは火を止め、手際よく油鍋に蓋をした。

 まだ熱気を放つ一枚をつまんで、口に放り込んでみる。サクッと軽い音がして、微かな苦味のあとに上品な甘みが広がった。……悔しいが、めちゃくちゃうまい。

 もぐもぐと咀嚼しながら、机へと戻る。ソロンも布巾で手を拭い、向かいの席にどっかりと腰を下ろした。



 引き出しから新しい羊皮紙を引っ張り出し、羽ペンの先をインクに浸す。そして、迷いのない筆致で何かをガリガリと書き殴り始めた。



「……何書いてるんですか、それ」


「お主が迷宮で野垂れ死なないための覚書だ。準備は早いに越したことはない」



 ——推薦状は返事を聞いてからと言った舌の根も乾かぬうちに、過保護な師匠はもう迷宮の準備を始めている。

 ソロンの羽ペンは止まらない。

 『歪みに遭遇したら、まず足を止めよ』

 『術式の予兆は耳の奥で先に鳴る』

 『焦った時ほど、息を吸え』——

 全部、普段の修行中に耳にタコができるほど叩き込まれた小言ばかりだ。

 さらに筆は進み、

 『靴下は予備を二足持て』

 『夜は冷える、温かい汁物を腹に入れよ』……いや、お母さんか? ダンジョン攻略の覚書に書く内容かこれ?



「先生、靴下二足も要りますかね?」



 ピタリとソロンの手が止まった。

 無言のまま「二」の上に力強い二重線を引き、その横に大きく『三』と書き足す。



「増やせとは一言も言ってないんですけど!?」



 ソロンの鼻から、ふっと短い息が漏れた。

 笑ったのか、それとも呆れたのか、判別のつかない音。



「……まったく、手のかかる弟子を持ったものだ」



 頼んでもいないのに勝手に箇条書きを増やしたのはどこの誰だよ。

 仏頂面に戻ったソロンは、羊皮紙に細かな砂をさらさらと振り、余分なインクを乾かしていく。その砂を払い落とす手が、いつもより一拍遅れた。

 覚書の上に置かれた節くれだった指が、ペンの軸を一度だけ撫でる。



「——迷宮へ行く前に、ひとつ確かめておくことがある」


「何ですか?」


「腕試しだ」


「……は?」


「三日のうちに、わたしと一戦交えろ」


「ちょ、先生、急にどうしたんですか」


「弟子の仕上がり、最後にこの手で確かめておかんと、どうにも寝つきが悪くて敵わん」


「最後にって……やめてくださいよ、縁起でもないフラグ立てるの!」


「ふん」



 セリアには、自分から期限を切って答えを聞く。そして先生とは、三日のうちに全力で戦う。

 ——揚げ物の音が、まだ耳の奥に残っていた。


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