たぶん
翌朝。
結局、寝付きが悪かった。まぶたは重いのに、頭の中だけ明るい。朝の光が窓から差し込む頃には、眠るのを諦めて起き上がっていた。
今日は依頼のない日だ。
支度をしながら、昨夜決めたことを頭の中で確認する。虚ろの迷宮。ソロンに詳しい話を聞く。……あとは、ついでに一つ。
朝食を簡単に済ませて家を出た。朝の王都は空気が湿っていた。石畳の隙間に昨夜の雨が残っていて、足音がいつもより少し鈍い。
歩いているうちに、机に置いてきた水筒が頭にちらついた。栓をしたまま、一口も飲めなかったあれ。——「キスした仲でしょ」。セリアの声が、勝手に再生される。
……順番は、迷宮が先だ。
路地裏のソロンの家は、朝の静けさに沈んでいた。扉を叩く。
返事は、ほんの一拍だけ遅れて聞こえた。
「アオイか……珍しいな、こんな時間に」
扉が開いた。見慣れた仏頂面。土間には薬草の束。庭先で、鹿が丸くなって寝ていた。……昨夜ろくに眠れなかった私より、よほど安眠している顔だ。
奥の部屋からかすかに茶の匂いが漂っている。ソロンに促されて、いつもの席に座った。
ソロンは急須を取り、茶葉を量る。途中で小さく咳払いをして、そのまま湯を注いだ。
ソロンが向かいに座って、茶碗を差し出してくる。湯気がふわりと立ち昇った。香草のような、土のような、落ち着く匂い。
「……先生」
「ふむ」
ソロンが茶をひと口含んで、こちらを見た。内側まで見透かしそうな目だ。
湯気をぼんやりと目で追った。茶の匂い。静かな部屋。——頭の中には、昨日の「キスした仲でしょ」と、一週間前の「バディなら普通」が、どちらも残っている。どこまで本気なのか、まともに聞ける相手は、この人くらいしかいない。
虚ろの迷宮のことなんですけど、と言うつもりだった。
「——バディって、キスするの、普通なんですか」
——あ。
ソロンが茶を吹いた。
綺麗に、机に向かって、盛大に。
湯気と飛沫が宙に散る。ソロンの片手が急須の縁を掴み、もう片方が口元を押さえる。咳。連続して三回。
ソロンがゆっくり口元を拭って、こちらを見た。
「——普通なわけがないだろう」
低い声で、ソロンはそう言った。
「……ですよね」
やっぱり普通なわけなかった。
——「は? 何しちゃってんの」
あの時、私はそう返した。キスしてきた相手への第一声として、あれは正解だったんだろうか。もう少しマシな言い方があった気がする。……いや、不意打ちだぞ。咄嗟に出る言葉なんて、あんなもんだろ。
耳を赤くして目を逸らしたセリアの顔が浮かんだ。
……いや、待て。まだ逃げ道はある。
「じゃあ——エルフは? エルフの文化だと、その、キスとか、わりと普通にしたり……」
「——お主の目に、エルフは、軽々しく口づける種族に見えるか」
「…………見えないです」
「……なぜそんなことを聞く」
「……いえ。異文化の確認というか」
——異文化の確認。何だそれ。論文でも書くつもりか。
……バディ。エルフ。異文化。
自分で並べた条件に、該当者が一人しかいない。
ソロンは、それ以上聞かなかった。答えを急かしもしない。
その視線に押されるように、ずっと蓋をしていたものが開いた。
これまで、セリアがおかしなことをするたびに、理由をつけてきた。震えていた指は、アドレナリン。私の前に出るのは、心配性。どれもその場では筋が通っていた。筋が通っている限り、それ以上は考えなくて済んだ。
でも、キスだけはどの理由にも当てはまらない。心配性がいくら進行しても、バディの唇は塞がない。
最後に残っていた「異文化」も、さっき先生に潰された。
——「三秒もあった。跳ねのけなかった」
……嫌では、なかった。
じゃあ何だったのかと考えて、すぐに行き詰まった。私がセリアをどう思っているかなんて、今日まで一度も考えたことがない。考える必要が、なかったから。
自分の気持ちを探ってみても、何も出てこない。じゃあ、セリアの側は?
人間嫌いで通っているエルフが、人間の私に、自分からキスをした。
——数十年かけて相手を見極める種族なんじゃなかったのか。森でも同じことを考えた。どれだけ考えても、唇の感触は消えなかった。
……仮に。仮に、好きだから、だとしたら。
前に出るのは、私に死なれたくないから。前髪を耳にかけたのは、触りたかったから。肩が離れなかったのは、離したくなかったから。水筒を奪ったのは、私のだから。
……通る。全部、通ってしまう。
一つずつ違う理由をつけてきたのに、たった一つで足りた。
……好きだから、としか読めない。
そこまで考えて、ひとつ思い出した。
いつだったか、帰り道でやたらと食い下がられたことがある。相手が魔族でも、と。……同性でも、と。
あの時は、ミルシェと私の話だと思った。どっちでもいい、恋愛に興味がない、と答えた。セリアはそれきり黙って、半歩先を歩いた。結局何が聞きたかったんだと思って、そのままにした。
……あれ、ミルシェの話じゃなかった。——セリア自身の話だったのか?
「……なんで、私なんだろう」
気づいたら、口から漏れていた。独り言のつもりだった。ソロンに聞かせるつもりじゃなかった。
ソロンは目を少しだけ細め、茶碗を口に運んだ。
やがて茶を淹れ直しながら、ぽつりと言った。
「……長く見てきたが、お主は自分で思っとるほど、つまらん人間ではないぞ」
まっすぐな答えではないのに、胸の奥に引っかかった。
返す言葉を探しているうちに、ソロンがもう一つ、呟いた。
「……最近、帰りたいと言わなくなったな」
——え。
「……言ってますよ。たぶん」
「たぶん、か」
ソロンはそれ以上、追撃しなかった。茶を飲んで、視線を茶碗に落とした。
この家に通い始めた頃、茶を淹れてもらうたびに、私は「帰りたい」と零していた。修行の合間に、世間話の合間に、同じ言葉を何度も。最近、いつそれを言ったっけ。昨日か、一昨日か——思い出せない。
……言われるまで、それを変化だと思っていなかった。
私も茶碗に視線を落とした。帰るために冒険者になり、ここまで積み上げてきた。
実力が足りないうちは、先延ばしにできた。その言い訳が、最近うまく効かない。
——今日ここへ来たのも、その先を聞くためだ。
もう一つの問いを、切り出す。
「先生、……虚ろの迷宮のこと、もう少し詳しく聞いてもいいですか」
ソロンの手が、茶碗を机に置く動作の途中で止まった。音がしなかった。
ソロンが「ほう」と短く息を吐いた。
「……声が、さっきまでと違うな」
言われてみれば、迷宮の名前を口にした時だけ、声がいつもより少し低くなっていた。
ソロンは一度茶を置いて、少しの間、黙った。言葉を選んでいるようだ。
「今のお主たちなら、探索に必要な実力は、もう備わっておる。そろそろ話してもよかろう」
——今のお主たちなら。
その一言を、胸の中で繰り返した。
虚ろの迷宮のことは、この世界に来てまだ間もない頃にソロンから聞かされていた。「お主自身が冒険者となり、自分の足で潜れ」——あの日から、私は冒険者をやっている。
手が届かないうちは、詳しい話を聞いても仕方がなかった。けれど、今は違う。
ソロンが急須を持ち上げた。注ぐ手が、途中で一度止まる。
それから、迷宮の内部について話し始めた。
「内部は、いつも同じ形とは限らん。空間も、時間も、安定しておらん。——あれは、迷宮そのものが生きている」
……生きている。
地図が当てにならない場所ってことか。長居はしない方がよさそうだ。
「先生。虚ろの迷宮って、ギルドの掲示で見たことがないんですけど」
「国管理だ。場所も、中身も、表には出ん。Sランクと、協会上層部の一部しか持っておらん情報だ」
「……Sランクって、かなり特別扱いなんですね」
ソロンが茶碗を置いた。
「Sランクになれば、魔族がどこに出たか、受理されたはずの依頼がなぜ記録ごと消えるのか——魔の始祖についても、一部は開かれる」
——魔の始祖。
遺書を書いた時の感触が、指先に戻ってきた。……その話は、今日はいい。
ランクは、強さと受けられる依頼の範囲を示すものだと思っていた。違う。何を知ることを許されるか、の話だ。
「挑む時は、ギルドに探索申請を出せ。ただし、申請にはSランク経験者の推薦が要る」
「……先生、書いてくれるんですか」
「セリアンディエル様との同行が正式に決まったらな」
「……頼めば、来てくれると思いますけど」
「——あの方は、お主が何をしに行くか、知っておられるのか」
「…………まだ、です」
ソロンはそれ以上、何も言わなかった。冷めた茶を、ひと口飲んだだけだった。
空になった茶碗を重ねようと、手が動いていた。
「——いい。茶碗くらい。お主に後始末はさせまい」
ソロンが片手で制した。そのまま、茶碗を自分で引き寄せる。
……この人、客に片付けさせない主義なんだよな。師匠なのに。まあ、甘えさせてもらおう。
ソロンの家を出る頃には、太陽がだいぶ高くなっていた。
家へ戻る足取りが、行きより少しだけ重い。
自室の机。昼下がりの光が窓から斜めに射している。
アルミ玉を板の上に転がした。コロ、と音がした。
今日、ソロンの家で得たものを、頭の中に並べてみる。
——ひとつ。バディでキスは普通じゃない。……師匠に茶を吹かせてまで確認する内容だったかは、今は考えない。
——ふたつ。虚ろの迷宮は国の管理下にあり、挑むには先生の推薦が要る。中は、生きている。
ひとつめは——まだ、考えない。
迷宮の方だ。行くなら、セリアに目的を打ち明けるしかない。
アルミ玉を転がす指が止まった。玉だけが板の上を滑り、机の端でカコン、と鳴る。
——「帰るために冒険者をやってる」。ただの事実だ。隠すようなことでもない。
……なのに、言いたくない。




