異文化
——一週間後。
依頼の現場から王都への帰り道。
朝に受けた討伐依頼は、予想より魔物の群れが大きかった。セリアが群れを崩し、私の蟲が逃げ道を塞ぐ。互いの死角を潰しながら一体ずつ仕留めて、正味一時間。推奨人数四名のAランク依頼なのに……。
街道の一本道を歩いている。空は高く、雲の影が麦畑の上を滑っていた。風がぬるい。
セリアが先を歩いている。
一週間前のキスは、「異文化」で片付けた。セリアも、あれから一度もその話をしなかった。
これで終わったはずなのに、セリアの横顔を見ると、柔らかくて少しだけ冷たい唇の感触が勝手に戻ってくる。
……やめよう。仕事のことを考えよう。
討伐時間は、正直に一時間。ただし報告書には、「今回の結果を根拠に推奨人数を減らさないこと」と追記しておこう。私たちの連携を標準仕様にされたら、次に二人で受ける誰かが死ぬ。
組み始めた頃とは、連携が別物になっている。
この調子なら虚ろの迷宮も、もう遠い目標ではない。
ただ、セリアと潜るなら、私が元の世界へ帰るためだと話さなければならない。
考えかけて、もう一度切った。今じゃない。まだ早い。もう少しだけ。
そう言い続けて、どれくらい経ったっけ。
今度こそ、考えなくて済む話題を探した。
「そういえば、姪っ子か甥っ子がもうすこしで生まれるんだって」
セリアが少しだけ顔をこちらへ向けた。
「……お姉さん、見つかったの」
「あ、こっちに来てすぐ見つかったよ。……ていうか、姉の話、覚えてたんだ」
「……覚えてる」
話したのは、一度だけだったけど……。
「……生まれたら、会いに行くの」
「そりゃ行くよ。顔くらい見たいし。しばらくは姉ちゃんの家に通うことになるかもね」
姉とエイランさんの子なら、地球人と異世界人のハーフになるのか。字面だけなら、とんでもなく壮大だ。
どっちに似るんだろう。ミミかセンかは知らないが、きっと、かわいいんだろうな。
ただ、ミミの方はかわいそうだ。自分の名前が「耳」から来ているなんて、知ったらどんな顔をするんだ。体の部位じゃねえか。
……いや、センは「栓」だ。どっちもかわいそうだった。
セリアが前を向く。歩調が、ほんの少し緩んだ。
「……そう」
声は小さかった。会話が途切れ、口の中が乾いている。
水筒を腰から外して、栓を抜く。一口飲む。ぬるい水が砂っぽい喉の奥に染みる。
いつの間にか、セリアが私と肩を並べていた。
栓を閉めようとした瞬間、セリアの手が伸びてきた。
ひょい、と水筒を抜き取られた。まるで自分の荷物を取り戻すような手つきだった。
セリアは当たり前みたいな顔で、そのまま口をつけた。細い喉が一度だけ動く。
……は?
「……ちょっと、私の水筒」
「何か文句ある?」
抑揚のない声だった。目だけは、すぐには逸らさなかった。
何か文句ある、って言われても。他人の水筒を勝手に飲めば、文化を問わず文句くらい出るだろ。
セリアはもう一口、ゆっくりと飲んでから、水筒を私に返した。
返された水筒を受け取った。
セリアの表情は変わらない。白金の髪の間から覗く耳の先だけが、ほんのり赤い。
視線を落とす。セリアの腰には、自分の水筒がちゃんと下がっていた。
「いやいやいや。自分のあるじゃん。……なんで、わざわざ私のを」
「あなたが砂漠で死にかけてた時に、私のを与えたでしょ」
……その話を持ち出されると弱い。あの一杯がなければ、今ここにいない。
「……それは、そうだけど」
セリアが顔を寄せてきた。声を落とす。
「キスした仲でしょ」
……いま、なんて言った。
一週間、お互いに一度も出さなかった話だ。今日も、思い出しかけては仕事に逃げていた。
それを、水筒一本の言い訳に持ち出された。
「は? それ今関係ある……?」
水筒とキスが、頭の中で遅れて繋がった。
……まさか。水筒に口をつけるのを、間接キスとして数えてる?
直接した仲なんだから、このくらい今さら——ってこと?
セリアの顔を見た。
「……」
黙るな。
否定されないと、この推測が正解になってしまう。
「キスした仲って……そっちが勝手にしてきたんじゃん」
「……嫌だった?」
「嫌だったとは言ってない」
「……三秒もあった。跳ねのけなかった」
数えてたのかよ。こっちは驚いて動けなかっただけだ。
セリアは顔を背けた。耳は、もう髪の隙間でも隠せないくらい赤い。
そのままセリアは先へ行く。私は水筒を握ったまま置いていかれ、慌てて追いかけた。
「キスした仲でしょ」と「三秒もあった」が、頭の中で交互に再生される。
一度キスした、ではなく——キスした仲。
セリアは、今の私たちをそう呼んだ。
胸の奥が、一瞬だけ冷えた。さっき切ったはずの考えが、また浮かびかけた。
王都へ戻る頃には、日が傾き始めていた。東門を抜け、人通りの多い大通りを歩く。さっきまでの会話は途切れたままだった。
別れ道で足を止める。
「じゃあ、また」
「……ええ」
セリアは数歩進んでから、一度だけこちらを見た。視線は、私ではなく、腰の水筒に落ちた。
さっき自分が飲んだから、栓が閉まっているか気になったんだろう。そう処理して、反対の道へ曲がった。
夜。
自室の机に安酒の瓶と干し肉の端っこを並べて、一人で飲んでいる。晩酌は、異世界に来てからも変わらない数少ない楽しみだ。
先に、今日の依頼報告だけ片付けた。
討伐時間、一時間。推奨人数、四名のまま。特記事項——今回の討伐速度は、同行者との連携を前提とした結果であり……。
そこで、ペンが止まった。
同行者。バディ。キスした仲。
紙の上で、インクの黒い点がじわじわと育っていく。
……危ない。業務報告に何を書こうとしてるんだ、私は。
慌ててペンを上げ、どうにか最後まで書き切った。
一口あおって、視線が机の隅にある水筒に引っかかった。
昼から一度も開けていない。セリアが口をつけてから。別に、避けてるわけじゃない。喉が渇いてないだけだ。
……嘘だ。酒のせいで今すごく渇いてる。水筒に手を伸ばした。栓を抜きかけて、止まった。飲み口をまじまじと見ている自分がいる。
一秒。二秒。三秒。
……なんで数えてるんだ、私は。
栓を戻した。代わりに酒を注いだ。水は明日でいい。
それにしても、「キスした仲でしょ」って。
一週間前は「不可抗力」と目を逸らしていた人が、今日はさも当然みたいに言った。
セリアの方から、そんな言葉が出てくるなんて思ってもいなかった。
セリアとキスしたなんて言ったら、ギルドのファン連中は羨ましがるんだろうな。
王都でも名の知れた冒険者。剣も魔法も桁外れで、黙って立っているだけで人が振り返る。
そんな人と、キスした。
異世界に飛ばされた時点で私の人生設計は壊れていたけど、誰がエルフとキスするところまで予想するんだよ。
しかも、キスしてきたのはセリアの方だ。
酒を持ち上げた手が、口元で止まった。
——異文化でしょ。異文化だから。問題ない。
……問題ないはずなのに、水筒が飲めない。
酒を一口飲んで、ふと思った。
そもそも、エルフにキスの文化ってあるのか。
キリヤに相談した場合。
笑顔は崩れない。崩れないまま「どうしてそれを僕に聞くのかな」と返され、場の空気だけが凍る。
フィルに相談した場合。
真顔で「何を言ってるんだ? それより次の任務は——」と返される。終了。
……相談先がない。
かといって、本人に聞いた結果が「バディなら普通」だ。あの回答は、もう信用できない。
酒を注ぎ足す。
……そもそも間接キスとは何か。同じ飲み口に唇が触れること。その定義なら水筒はそうだ。
でも待て。ギルドの水場では、冒険者が全員、同じ柄杓で水を飲んでいる。
この定義だと、ギルドの冒険者全員と間接キスしていることにならないか。
ガルドとも。
ガルドの顔が浮かんだ。
酒を一気にあおった。脳を洗浄したい。
……定義が悪い。棄却する。間接キスは、この世界に存在しない。
……異文化、でしょ。
瓶に直接口をつけた。もうコップに注ぐのが面倒だ。
その横に、書き終えた今日の依頼報告の控えがある。Aランク。昼間は考えるのをやめた虚ろの迷宮が、また頭に浮かんだ。
……そろそろ、先生に虚ろの迷宮のこと相談しないとな。……ついでに、エルフの文化についても、一応。明日、ソロンのところに行こう。
机に突っ伏した。硬い板が額に冷たい。
——異文化……。
三回目。もう声にもならなかった。
机の隅で、水筒がまだ栓をしたまま置いてある。
そのまま、目を閉じた。




