不可抗力
最近、セリアは敵と私の間に入り込もうとする。
一度は言った。射線が塞がる、と。返ってきたのは「体が動いた。それだけ」で、話はそこで終わった。
魔族に襲われた時は、私が魔力切れで動けなかった。あれは必要だった。でも、それからも、攻撃がこちらへ向くたびに前へ出る。連携の配置を崩してまで。
このまま続けば、いつかセリアまで怪我をする。もう、様子を見る段階じゃない。
……今日は、もう一度言おう。
依頼の帰り道。
街道に出る手前の一本道を歩いている。木立の間を風が抜けて、木漏れ日が足元で揺れていた。人通りはない。梢の音と、二人分の足音だけ。
セリアは私の先を歩きながら、こちらに速度を合わせている。
白金の髪が風に揺れるたび、尖った耳の先が見え隠れする。
依頼を重ねるうち、セリアの間合いや呼吸は、言葉がなくても読めるようになった。
「報酬の配分、前回と同じでいい?」
「……任せる」
「前回の、セリアの取り分少なかったよね。前衛の方が装備の消耗激しいし、六対四くらいにしないと——」
「……いらない」
「いらないって。実際セリアの剣の方が——」
セリアは取り合わない。報酬の話になると、いつもこうだ。——まあいい。後でこっそり上乗せしておけば済む。
「ていうかさ……今日の最後の一匹、また私の前に出たでしょ。前にも言ったけど、あれ、やめてよ。セリアまで危ないから」
セリアの歩調が、わずかに落ちた。
「……間に合った」
「何が」
「私が前に出た方が、早かった」
「そういう問題じゃないでしょ。あれくらい避けられたって。セリアが前に出なくても、ちゃんと対処できたよ」
「……避けられなかったら?」
「その時は、ちょっと怪我するくらいでしょ」
「……怪我?」
ちょっと怪我する、の一言にまで食いついた。最近のセリアは心配性が進行している。でも、かすり傷まで数に入れるのは、さすがに行きすぎじゃないか。
軽く笑って、肩をすくめた。
「……笑いごとじゃない」
「笑ってないって」
「……笑ってる」
「だって、ちょっとの怪我くらいで心配しすぎでしょ」
セリアは何も言わない。歩調だけが、また少し落ちた。まだ納得していないらしい。
「次は、守ってもらわなくてもいいよ。庇われないと戦えないなら、セリアのバディにはふさわしくないし。——まあ、私一人くらい消えても、セリアなら——」
セリアの足が、止まった。
私は勢いのまま、二歩ぶん先へ出た。
「——え? どうした——」
振り返った瞬間、襟元を掴まれた。
ぐいと引き寄せられ、顔が上を向く。セリアが、すぐ目の前にいた。
——近っ。
口を開きかけた——その瞬間、セリアが身を屈めた。
唇に、セリアの唇が触れた。
思考が止まった。
最初に届いたのは、匂いだった。
前を歩くセリアから、いつも微かに流れてくるやつ。何の匂いかは分からない。それでも、嗅げば一発でセリアだと分かる匂い。——九層で抱き寄せられた時より、ずっと近い。
白金の髪が、視界に流れ込んできた。さらりと頬にかかる。木漏れ日を透かして、一本一本が薄い金に光っていた。
目を閉じている。長い睫毛の先が、微かに震えていた。
唇は——柔らかくて、薄くて、少しだけ冷たかった。
襟を掴んだ指が、布越しに小さく揺れていた。
息の仕方を、忘れていた。
三秒。
唇が離れた。
セリアが、互いの顔が見えるところまで身を引いた。
赤い目が開いた。こちらを見ている。——壁がない。いつもの冷たさが、どこにもない。
一秒。二秒。
——壁が戻ってきた。ゆっくりと。瞳に氷が張るように。
……脳が追いついていない。
唇にはまだ感触が残っているのに、目の前のセリアは、もう何食わぬ顔を作り始めている。
二人とも、森の一本道に立ち止まったままだった。梢の音だけが降ってくる。
「……は? 何しちゃってんの」
我ながら声が平坦だった。人間、驚きのメーターが振り切ると逆に棒読みになるらしい。
セリアは答えなかった。目を逸らして、一歩だけ横にずれた。道の端に寄るように。耳の先が赤い。
「……不可抗力」
……不可抗力。地震、台風、落雷、隕石。そういう時に使う言葉だ。
「森で振り返ったらバディにキスされました」は、どう頑張っても天災の仲間には入らない。
「不可抗力でキスする人いる?」
「……いた」
いたって言われた。
……それ自分のことだろ。
「いないでしょ」
「……バディなら普通」
言い訳が変わった。不可抗力から、バディの慣習へ。説明するたびに原因が変わるやつは、大抵、本人が一番事態を分かっていない。
セリアの目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
唇へのキスは、普通、恋愛対象にするものだ。少なくとも地球では。
——「普通は、数十年かけて相手を見極める」
——「だから人間とは合わない」
前に、セリア自身がそう言っていた。
数十年かけて見極めるはずのセリアが、その何十分の一も一緒に過ごしていない人間に。
……なんでキスした。
「……バディなら普通なの? 本当?」
「……普通」
セリアの声が、ほんの少しだけ上ずった。
耳が赤い。さっきより赤い。
……「普通」のことを話している人の耳は、普通、赤くならない。
「……ふうん」
喉まで出かかった言葉を、そのまま飲み込んだ。
セリアが二歩進んだところで、足を止めた。振り返らない。
「……前に、言った」
「何を」
「死なずに帰ってきたら、褒めてあげる、と」
平坦な声だった。
「……それ、ずいぶん前の話だよね」
「……今、褒めた」
死なずに帰ってきたことを、今? キスで?
——「私一人くらい消えても」なんて言った私に、死ぬな、と。……そういうこと?
それだけ言って、セリアが歩き出した。何事もなかったように先を行く。
……切り替えが早い。私は二秒遅れて、その背中を追った。
今さら、しかもこのタイミングで、あんな古い約束を引っ張り出してくる。言い訳として、ど下手だ。下手すぎて——逆に、嘘には聞こえなかった。
……いや、ここは異世界だ。エルフには、バディにキスする文化が本当にあるのかもしれない。私が知らないだけで。
——異文化。
そう片付けたのに、上ずった声が、何度も頭に浮かんだ。
足元の小石を蹴った。乾いた音を立てて、道の端へ転がっていった。
しばらく無言で歩いた。これ以上、さっきの話を続ける気にはなれなかった。
ふと気づくと、セリアが隣を歩いていた。肩が、時々触れる。
いつの間に並んだんだ。触れるたび、肩の布越しに微かな感触が通る。意識が勝手にそこに引っ張られて、落ち着かない。
「……肩、当たってるんだけど」
「……そう」
「そう、じゃなくて」
「…………」
離れない。理由も言わない。
不意に、セリアの手が伸びてきた。私の前髪を、そっと耳にかける。指先が額を掠めた。
指が離れた。目が合った。セリアが、先に逸らした。
「……何」
「……邪魔だったから」
髪のことか? 前髪は目にもかかっていなかった。
……何が邪魔だったんだよ。どういう心境?
セリアの指の冷たさだけが、額にまだ残っていた。
「あの……この距離のまま、歩くの?」
「……だめ?」
問い返す声が、いつもより弱かった。
「いや。確認しただけ」
東門をくぐると、人通りが一気に増えた。セリアはすっと先へ出て、耳の赤みも消えた。
ギルドの扉を押す。剣を帯びた冒険者、掲示板の人だかり、革鎧の匂い——見慣れたロビーだ。
セリアが壁際に収まった。腕を組んで、壁にもたれる。
何気なく、その横顔を見た。目が、唇で止まった。
薄い唇が、静かに閉じている。
……あれが、さっき、私の唇に触れてたんだよな。
……何を反芻してるんだ、私は。
セリアの赤い目が、こちらを向いた。目を引き剥がす。
カウンターで報告を済ませ、ロビーへ戻ると、ミルシェが壁際のベンチにいた。セリアから三歩も離れていない。
依頼書を広げていたが、目がこっちを向いている。……絶対、待ち構えてただろ。
「ユズリハちゃん、おかえり♡」
「おっす……なんか久しぶりな感じする。いつからいたの」
「ちょっと前から♡」
「フィルとリコは? 最近、見ないけど」
「二人なら依頼♡ 私は今日、お留守番♡」
「そっか。元気ならいいや」
「フィルがユズリハちゃんのこと羨ましがってたよ♡」
「……なんで?」
「Aランクの依頼を受けたいんだって♡ もっと刺激が欲しいって。……ほんと、死に急いでるよね♡」
——「代わってほしいくらいだよ」。前に、そう言われたことがある。
刺激欲しさに危険へ寄っていくフィル。かすり傷の可能性だけで私の前へ出るセリア。二人の危機感を足して二で割れば、ちょうどいいのに。
ミルシェの視線が私を通り越した。壁際のセリアを、じっと見ている。
「ねえ、セリアンディエル様♡ 耳、赤いよ。何かあった?♡」
名前を呼ばれ、セリアが壁にもたれたまま、顔だけをこちらへ向けた。
確かに、耳の先が赤い。門をくぐった時には消えていたはずなのに。
問いかけられたのはセリアなのに、心臓が一つ跳ねた。
セリアの顎が、少し上がった。
「……何もない」
「ふうん♡」
ミルシェの目が、こちらへ戻った。
……こっちを見るな。キスされたなんて言えるわけがない。私は掲示板へ視線を逃がした。
ミルシェは何も言わず、またセリアへ視線を戻した。
ふと気づくと、指が自分の唇に触れていた。いつから当てていたのか、覚えがない。
慌てて下ろした。ミルシェはまだセリアを見ていた。……セーフだと思いたい。
ミルシェが手招きした。屈むと、潜めた声が耳にかかった。
「ユズリハちゃん、なんかセリアンディエル様の匂いする♡」
肩を触れ合わせて歩いた。髪にも触られた。でも、移るほどだったか?
考えるより先に、頬にかかった髪と、震えていた睫毛が浮かんだ。
……一日一緒にいたんだから、当たり前だろ。そう返すつもりだった。
口が動かなかった。
代わりに、壁際から低い声が飛んできた。
「……凍らされたいの」
……囁いたのに、聞こえたのか。
ミルシェは笑顔を崩さない。声だけ、もう少し落とした。
「ミルシェもユズリハちゃんとバディ組みたかったな♡」
……ミルシェって、自分のこと名前呼びだったっけ。
思わず、まじまじと見た。
「……ミルシェは誰かとバディ組まないの?」
「パーティはあるけど♡ 組むならユズリハちゃんじゃなきゃ嫌だもん♡」
一拍遅れて、ミルシェが首を傾げた。
「……なんてね♡」
ミルシェは笑顔を崩さないまま、こちらを見上げていた。
いつもと同じ笑顔のはずなのに、なぜか冗談には聞こえなかった。
ギルドを出た。
夕暮れの通りを歩く。露店が片付けを始めている。オレンジ色の光が石畳を染めて、人の影が長く伸びていた。
セリアが、私の先を歩いていた。
……人の匂いって、そんなに移るものなのか。
襟元に鼻を寄せた。ほんのり甘い。——って、通りのど真ん中で何をやってるんだ。慌てて顔を戻した。
……いい匂いだ。
唇の感触は、もう消えていた。
代わりに、あの匂いだけが、まだ離れない。
前を歩くセリアの背中を見ている。白金の髪が夕日に透けて、縁だけが金色に光っていた。
耳の先は、もう元の色に戻っている。
次に会う時も、入口脇の定位置で、腕を組んで待っているんだろう。
何事もなかった顔で、いつも通りに。
……でも私はもう、それをいつも通りには見られない気がした。




