規格外
この世界で、私を下の名前で呼ぶ人は少ない。
ソロンは「アオイ」、姉は「蒼」、義兄のエイランさんは「アオイさん」。それだけだった。
——昨日、そこに一人、増えた。
セリアの「アオイ」。
……いや、数に入れなくていい。あれは気まぐれだ。三体目が来て、とっさに、短い方の名前が口をついて出ただけ。
なのに、その一回で、なぜか姉の顔が浮かんだ。
だから、なのかもしれない。翌朝、用もないのに、ギルドへ行く前に足が姉の家へ向いていた。
昨日のことは話さない。魔族三体と戦いましたなんて言ったら、姉は三日寝込む。
門をくぐると、庭木がきれいに整えられていた。相変わらず、私の宿の部屋が丸ごと入りそうな玄関だ。
水やりをしていたメイドさんが顔を上げて、私を見るなり目を丸くした。
「まあ……! お久しぶりです。今、お呼びしてきますね」
じょうろを置いて、小走りで奥へ入っていく。
玄関先に一人残された。
……居候していた頃は、勝手に上がって勝手に皿を洗っていたんだけどな。取り次いでもらう側になるのは、どうにも落ち着かない。
しばらくして、姉が出てきた。
「蒼! 久しぶりだねぇ、たまには顔見せてよ。心配してたんだから」
言いながら近づいてくる姉の腹が、大きくふくらんでいた。
思わず、足が止まった。
……いつの間に。
遅れて、書斎の方からエイランさんが出てきた。
「あ……えっと、これは……おめでとう、ございます……?」
「久しぶりだね。……ああ、順調だよ。もう少ししたら生まれるかな」
エイランさんが嬉しそうに言う。姉は照れくさそうに、お腹をさすっている。
「女の子ならミミ。男の子ならセンにしようと思うの」
「へえ。どっちもいい名前じゃん」
——……ちょっと待て。
ミミ。セン。耳栓じゃねえか。
姉に「妊活中なの」と耳栓を渡された、あの夜が脳裏に蘇った。
これ、狙ったわけじゃないだろうな? ……絶対狙ってるだろ。ネーミングセンスを疑う。姉の笑顔を凝視した。
どっちが生まれても、耳栓の片割れとして人生を始めることになる。
将来、「どうしてこの名前にしたの?」と聞かれたら、何と答えるつもりだ。
——あなたを作る夜、叔母さんに渡したものから取りました。
言えるわけないだろ。墓まで持っていけ、その由来。
——ともあれ、私はもうすぐ叔母になるらしい。
実感は、まだ湧かない。この世界で生まれてくる子だ。私は今も帰るつもりなのに、姉の家族は、この世界で増えていく。
気づけば、生まれたら知らせてよ、と言っていた。
立ち話もなんだからと居間へ通され、茶を一杯飲んで帰ろうとしたところで、エイランさんが「そうだ、紹介したい人がいる」と書斎へ声をかけた。
もう一人、出てきた。
白髪交じりの髪を緩く流し、銀縁眼鏡の奥で淡い色の瞳を柔らかく細めている。茶でも勧めてきそうな、穏やかな笑みだった。
……誰だ、この人の良さそうなおじさん。
「この方はアシルさんだ。騎士団から資料を届けに来てくださってね」
「お久しぶりですね、ユズリハさん」
お久しぶり、と言われて。眼鏡の奥の目を見て、一秒遅れて記憶と一致した。
——ああ。あの時の、クソ野郎だ。
窓のない石牢に、白銀の刺繍が入った黒いロングコートで現れた男。二人の衛兵を従え、革手袋の手で私の顎を掴み、羊皮紙を突きつけた尋問官……。
あの時は、硝子みたいに無機質な目で私を眺めていた。それが今は、同じ眼鏡の奥に柔らかい皺まで寄せている。
——騎士団の黒いコートには、表情筋を封印する呪いでもかかっているのか。
エイランさんによると、アシルさんは尋問官を続けながら、学術院へエルフに関する古い文献を提供しているらしい。二人は、その仕事で繋がっている。
言い分は分かる。当時の私は素性の知れない闖入者で、あれが仕事だったんだろう。頭では分かる。
でも、あの牢での惨めな夜は、まだ一つも忘れていない。
姉の夫の仕事相手に恨み言をぶつけるわけにもいかず、笑顔で茶を飲んだ。
聞けば、この茶葉はアシルさんの手土産だという。……道理で、いい茶だ。
遠慮なく、おかわりした。しょうもない復讐なのは分かってる。それでも、三杯飲んだ。
姉の家を出て、昨日の報酬を受け取りにギルドへ向かった。露店の親父が声を張り上げ、荷馬車が石畳を軋ませる。剣を腰に帯びた冒険者とすれ違う。見慣れた朝の道なのに、今日は少しだけ足取りが軽い気がした。
ギルドに着くと、セリアが入口脇の定位置で、腕を組んで壁にもたれていた。
その姿を見た瞬間、声が蘇った。
——アオイ。
セリアは視線を合わせないまま、先に扉を押した。
中は朝から混み合っていた。武装した冒険者が依頼ボードの前に群がっている。革鎧の匂い。干し肉を齧る音。窓際のテーブルでは三人組が地図を広げて何か揉めている。
三人組。——そういえば、最近会ってないな。ミルシェ、フィル、リコ。みんな、どうしてるんだろう。
セリアが私のすぐ隣についた。次の依頼を探すのは私の役目。こだわりがないのか、任せた方が早いと思ってるのか。
受付に向かうと、メリルが営業スマイルで迎えた。
「ユズリハさん、おはようございます。昨日の報酬が確定しております。それと、次もAランク依頼をお考えですか?」
「えっと、今日は見るだけで……」
高難度の依頼を連日受ければ、身体を壊す。ほどほどに休んでほどほどに働く。給料換算すれば前職よりも倍は稼いでいる。セリアのおかげだけど。悪くない労働環境だ。魔法協会からの空気の読めない着信さえなければ。
「承知しました。……あ、それと」
メリルが掲示板の隅を指した。新しい告知が貼ってある。
「全ランクにおける単独での依頼受注の一時停止」。
「D・Eランクにも拡大されました。低ランク帯でも魔物の出現数が増加しているとのことで」
「今まではCランク以上だったのに……」
「はい。初心者エリアの安全も確保できなくなったと……」
初心者エリアまで?
そこすら安全じゃないなら、駆け出しの新人はどうするんだ。
……けど、セリアとバディの私には実害がない。依頼書に目を通した。
「……ユズリハさん。余計なことかもしれませんが」
メリルが声を落とした。営業スマイルが、一瞬だけ外れた。
「このところ、Aランクばかりですね。……どうか、お気をつけて」
「大丈夫です。セリアがいるし」
「……そう言って、戻らなかった人を何人も見ました。ランクは、飾りではありません」
メリルはそこで口を閉じ、営業スマイルを戻した。
候補にした依頼書をメリルに返し、代わりに報酬の入った革袋を受け取った。
中身を確かめたところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「ユズリハさん。……少し、よろしいですか」
セリアガチ勢のヴィーナだった。前に会った時とは違い、今日は神妙な顔だった。そのまま、頭を下げる。
「あの時の非礼を、お詫びします。……セリアンディエル様に選ばれただけの、運のいい人だと思っていました」
ヴィーナが顔を上げた。まっすぐこちらを見ている。唇が、固く結ばれていた。
「あの後、あの方に直接お願いしました。解消して、私と組んでくださいと。……断られました」
知らぬ間に頼んでたのかよ。
「ソロ規制の穴埋めなら、誰でもよかったはずです。あの方は人間と組まない。組まざるを得なくなって、たまたま隣にいたのがあなただった。……そう思っていました」
「うん。私も、そう思ってる」
「バディは、片方が望めば解消できます。あの方は、していません。私を断ってまで」
ヴィーナが、一度だけ息を吸った。
「Bランクのまま、Aランク依頼をいくつも。守られているだけでは、そうはなりません。……あの方が隣に置き続けている理由が、やっと分かりました。規格外なのは、あなたの方だったんですね」
……褒められてる。セリアガチ勢の厳正な審査に、ようやく通ったらしい。
でも、昨日の魔族三体だって、私が倒したのは一体だけだ。最初の一体と、全力を使い切った私を狙ってきた三体目を仕留めたのはセリア。——二人で出した結果だ。
魔族は人間より強い。魔法も使うし、こっちの狙いまで読んでくる。そんなのを三体。昨日、受付の手が止まるわけだ。
——まあ、私が倒した一体は、頭を使うより自分語りに忙しい男だったけど。
「……これからは、応援させてください。それで、あの、セリアンディエル様は普段——」
「……行こう」
セリアが私の手を掴んだ。そのまま出口へ引かれる。
「ちょ、セリア」
「セリアンディエル様が……ユズリハさんの手をっ……!」
振り返ると、ヴィーナがその場に膝をついていた。
謝罪から崇拝への戻りが早い。人の手を引いただけで、崩れ落ちないでほしい。
手を引かれたまま、出口へ向かう。その途中で、掲示板の前に不自然な空間があるのに気づいた。
人が一人分、ぽっかり空いている。その周りだけ、人の足が避けていく。
中心に、少年が立っていた。
頭に布を巻いている。側頭部が、そこだけ不自然に盛り上がっていた。赤い目。依頼書を見上げ、手を伸ばしかけては引っ込めている。
冒険者の一人が、連れの肩を掴んで小声で囁いた。
「……おい、角。あれ魔族だろ。なんで——」
「特例だとよ。元は人間で、もう人は襲わないとか何とか。……手ぇ出すな、処分食らう」
「……あの目ぇ見て信じろってのかよ」
——知ってる。あの角も、あの背丈も。
トールだ。
心臓が、一つ跳ねた。
……冒険者が当たり前にいる場所に、角を持った少年が一人で立っている。
立ち止まった。引かれていた手が、するりと抜ける。
——次の瞬間には、トールの方向へ足が出ていた。考えるより先に。
ロビーを横切る。さっきの囁きが止まり、周囲の視線が一斉に集まった。全部まとめて無視した。
——知り合いに声をかけるだけだ。
「トール」
少年が振り返った。
赤い目が見開かれる。
「ユズリハ……さん?」
声が震えていた。
あの日と同じ赤い目だった。でも、今は——ちゃんと、人間の目でこちらを見ている。
「元気?」
自分でも驚くくらい、普通の声が出た。
トールの肩から力が抜けた。ほんの少しだけ。
手を見た。指先が汚れている。爪の間に土が詰まっている。——まだ、細い手だ。
「は、はい。冒険者見習いを、始めました」
「見習い?」
「……この体になってから、魔力だけは、強くなったので」
喉の奥が、詰まった。
魔法を覚えたいと言っていた子だ。小石が五ミリ浮いただけで、ユーゴが才能あるって騒いでいた。願いは、最悪の形で叶った。
「ユーゴさんが……なりたかったものに、なろうと思って」
——ユーゴ先生。あの広場で、そう呼ばれるたびに照れて笑っていた。
——聞こえたか、ユーゴ。
「……そっか」
それしか言えなかった。
トールが、深く頭を下げた。
「あの時は……ありがとう、ございました」
声が、揺れていた。
あの日、トールの口から出たのは謝罪だけだった。礼を言ったのは、母親だった。
あの選択が正しかったのか、ずっと分からなかった。ユーゴは死んだ。トールの体は戻せなかった。何も完璧じゃなかった。でもこうして本人からのお礼を聞くと——
鼻の奥が痛い。
「……元気でやんなよ」
声が掠れた。
「にしても、よく登録が通ったね」
「キリヤさんが、推薦状を書いてくれました。特例登録、だと」
「そうなんだ」
「はい。……あの後、協会本部から人が来たんです。村の結界を調べたり、俺の体を診たりして。殺意が戻っていないか、何度も確認されて。その記録もあったから、認められたみたいです」
——本部が動く話になる。あの日、キリヤはそう言っていた。推薦状を書き、その記録で道を通す。……あの人らしい。
「まだ低ランクですけど……あの、組んでくれる人を、探してて。少しずつ、やっていきます」
「うん。無理しないでね。あ、受付のメリルって人、ランクで態度変わるから。何か言われても、気にしなくていい」
言いたいことは他にもあった。でもここで長く話しても、トールに余計な視線が集まるだけだ。
トールが小さく頷いた。布の下で、角が揺れた。
背を向けて、離れた。振り返らなかった。
少し離れた場所で、セリアが腕を組み、私とトールを交互に見ていた。
視線が合うと、耳が小さく動き、すっと目を逸らした。
その隣まで戻った。
「……知り合い?」
「うん。前に助けた子。……魔族になった体は、元に戻せなかったけど」
セリアの視線が、掲示板の方へ向いた。
「……感謝してた」
「……そうなんだよね」
口にしたら、もう少しだけ漏れた。
「助けるだけなら良いのに、私の力が魔の始祖への対抗手段になるかもしれないって、キリヤさんに言われちゃってさ」
セリアの赤い目が、わずかに見開かれた。
「後から刻まれたものを外せるなら、魔の始祖も無力化できるかもしれないって」
セリアの指が、剣の鞘を握った。
「……まあ、理屈の上では、だって。こっちはそんな大役、引き受けた覚えないんだけどね」
笑ったつもりだった。でも、声は思ったより軽くならなかった。
「……怖いの?」
「そりゃ怖いよ。魔族がいるかもしれないってだけで遺書を置いてきたのに、その大元なんて考えたくもない」
「……一人で行かないで」
「まだ行くとも決めてないけど」
「……決めても、私に言って」
——まただ。
バディが危険なら心配する。それ自体は分かる。私だって、セリアが危なければ心配する。
最初は私を戦闘に参加させようとしていた。それが今は、危ない相手ほど後ろに置こうとする。
昨日だって、戦いが終わってから、片腕で抱き寄せたまま、すぐには離さなかった。そして今は、「一人で行かないで」。
一つだけなら、バディだからで済む。でも、ここまで続けば、傾向として扱うべきだ。
——セリアの心配性が、進行しすぎている。
返事はできなかった。セリアも、それ以上は言わなかった。
ギルドを出ると、昼前の通りは人が増えていた。セリアが先を歩いている。
食堂の窓から湯気が上がっている。どこかの子供が走り回って、母親に叱られている。日常だ。
パン屋の前を通った。焼きたての匂いが風に乗ってくる。昼は少しいい方を買おう。
——初心者エリアすら安全じゃなくなった、と貼り紙にはあった。この匂いの立つ通りが、いつまで、こうしてあってくれるのか。
トールの「ありがとう」と、セリアの「一人で行かないで」が、どちらも耳の奥に残っていた。
——守りたいものがあるやつは強くなれる。
畑の柵の前で、ユーゴがトールに言った言葉をふと思い出した。
守る、か。……柄でもない言葉だ。そう思うのに、なぜかすぐには、手放せなかった。




