アオイ
ダンジョンの七層。
天井の鉱石が紫がかった光を放っていた。六層までは青白かったのに、ここから先は色が変わる。空気が重い。湿気が肌にまとわりつく。
灰底の回廊、深層調査。前回は六層で、角の大きな鹿を見つけたところで引き返した。今回は、その先だ。——深層には、魔族の目撃報告がある。
宿の机には、遺書も置いてきた。念のためだ。……念のため。
角を曲がった先に、大蜥蜴がいた。
赤い目がこちらを向く。
身を低くした次の瞬間、一直線に飛びかかってきた。横へ跳んでかわす。巨体は私の脇を通り抜け、床を削りながら着地した。
着地した蜥蜴のすぐ先に、短い枝道があった。奥は行き止まり。——使える。
魔物の背後に、バグ・スウォームを放った。火を嫌った巨体が枝道へ逃げ込む。中へ入ったところで、蟲を入口まで進ませて退路を塞いだ。
奥まで逃げた蜥蜴が、引き返してくる。だが、入口には蟲がいる。火を見て、また奥へ逃げていった。
三往復、四往復。——無限ループ。……五往復目で、ちょっとかわいそうになってきた。
アルミ玉を握り、往復する蜥蜴の術式を読む。後付けの継ぎ目はない。——殺すしかない。
セリアに目配せする。次に入口まで戻ってきた蜥蜴が蟲を見て背を向けた瞬間、入口の外で待っていたセリアが光弾を放った。白い光が蟲の群れを抜け、その背中を貫いた。
「……汚い戦い方」
「効率的と言ってほしい」
セリアの指先から、白い光が消えた。
不意に、頭の中に声が割り込んだ。
『——ユズリハ君。先日の街道巡回の報告書、読んだよ。後付けの個体は、無し……か。君の「無い」は、信用できる。そこに無いと分かるだけでも、充分に意味があるんだ。——やはり、興味深いね』
通信石。キリヤだ。
セリアの耳が、こちらへ動いた。
「協会。……ごめん、急ぎじゃないやつ」
急ぎでもない用件を、迷宮の深層で頭の中に流し込んでくる。——着信拒否のない社用携帯。最悪だ。
八層。九層。
降りるごとに通路が広くなり、天井が高くなる。鉱石の光が遠くなって、足元が暗い。水滴が天井から落ちる音が、奥の方で反響していた。
魔物の遭遇は減ったが、一匹あたりが重い。八層の狼型は二匹がかりで飛びかかってきたし、九層の蝙蝠の群れは天井から降ってきた。全部片付けた。時間はかかったが、怪我はない。
九層に入った頃から、セリアの位置が妙に近い。……聞いたらまた「風向き」とでも返ってくるんだろうか。さすがにダンジョンで風向きは苦しい気がするが。
九層の奥。空気が変わった。
重いとか冷たいとかじゃない。魔物がいる時の圧迫感とは、質が違う。
セリアの耳が動いた。前方に、鋭く傾く。
「……止まって」
声が低かった。剣の柄に手がかかっている。
通路の奥を見た。紫の光の中に、二つの影が立っていた。人の形。角がある。赤い目が二対、こちらを見ている。
一体が前に立ち、もう一体が斜め後ろを固めている。互いの死角を塞ぐ位置だ。赤い目が、セリアの剣から私の手元へ動く。こちらを観察している。
——魔族だ。心臓が跳ねた。
指先が冷えていく。喉が渇いた。
アルミ玉を握った。二体の体に術式が走る。見るのは、後付けの継ぎ目だけ。——ない。どちらにも。
後から術式を植えつけられていない。——なら、殺すしかない。
セリアが私の前に出た。
白金の髪が視界に入る。それだけで、呼吸が少し戻った。
私が動きを崩し、セリアが仕留める。——二人なら、きっとやれる。
「……私の後ろにいて」
——まただ。危ない相手ほど、私を前に出したがらない。
セリアは返事を待たなかった。
白い光が弧を描いた。地面を蹴った音すら聞こえない。気づいた時にはもう、左の魔族の前にいた。
魔族の腕が振り下ろされる。セリアの剣がそれを弾き、返す刃で喉を裂いた。
一秒。
魔族が崩れ落ちる。倒れる音が、広い通路に反響した。
……え、もう?
残る一体の視線が、倒れた同族へ落ちた。表情は動かない。
セリアは剣を振って血を飛ばし、刃を返した。その切っ先は、もう残る一体へ向いている。止まる気はない。私を後ろに置いたまま、二体とも片付けるつもりだ。
セリアが踏み込むより先に、その横を抜けた。残る魔族との間へ割って入る。
「こっちは、私がやる」
背後で、セリアの足が止まった。
「……後ろにいて、と言ったでしょう」
「『見るだけなら、私と組む意味は?』って聞いてきたの、セリアじゃん」
正面の魔族は、人の顔をしていた。側頭部の角が、鉱石の光を受けて鈍く光っている。その視線が私とセリアの間を往復する。構えは崩れない。
膝の裏は強張っている。呼吸も浅い。——でも、頭は動く。
「……一瞬で斬ったか。なるほど。この深さまで来ただけはある」
……しゃべってる。
攻撃してこない。構えたまま止まっている。——頭が回り始めた。
「我は深淵の牙が一柱、ヴァルディス。——お前の名は」
名乗っている……。なんだその厨二病みたいな名前の組織は。
——めっちゃしゃべるじゃん、この魔族。何を狙ってる?
「私は大賢者、ソロン・ヴェルディクト!」
「……嘘をつくな!」
魔族が、鼻を鳴らした。くだらない問答は終わり、とばかりに構え直す。
「戯言はそこまでだ。まずは貴様から——」
魔族の右足が、半歩前へ出た。距離が縮まる。右腕に赤黒い光が集まり始めていた。
魔法か。くるか。
バグ・スウォームをぶつけて視界を塞ぐ。いつもの形が頭に浮かんだ。
でも、私が蟲を出せば、こいつも右腕の魔法を放つ。何を溜めているのか分からないまま撃ち合うのはまずい。
それに——こいつは、聞いてもいない組織名を自分から名乗った。攻撃より、名乗りを優先した。
なら、撃たない。こちらの攻撃を悟らせず、口だけを動かさせる。その間に、別の一発を通す。
アルミ玉を強く握った。周囲の大気から魔力が渦を巻いて流れ込んでくる。腕の芯が熱い。掌が焼けそうだ。
——一気に集めれば五秒。ただし、渦も光も隠せない。目の前のこいつに気取られない細さで流し込む。何倍もかかる。
足は震えている。声は震えさせない。
笑え。愛想よく。ちょっとした世間話みたいに。
魔力が溜まるまで、こいつを喋らせる。
「すみません、一つ聞いていいですか」
「……何だ」
「深淵の牙って、何名くらいいるんですか」
魔族の表情が変わった。眉が上がる。まさか聞かれると思っていなかったんだろう。
——語りたい顔だ。このタイプ、知ってる。じゃなきゃ、わざわざ名乗り出たりなんてしない。
「……七柱だ。いずれ劣らぬ精鋭。この深層を統べる力の名に恥じぬ者たちよ」
「七人。すごいですね」
言葉を交わす間にも、魔族の右腕の光は濃くなっている。——こいつも溜めている。先に撃たれたら終わる。
肩越しに、セリアの声が飛んできた。低い。鋭い。
「……何を悠長に話しているの」
「——今いいところだから、黙ってて」
前を向いたまま答えた。背後の気配が凍りついた。
でも信じてくれ。まだ溜まりきらない。指の間から光が漏れ始めている。気づくな。頼むから気づくな。
「それにしても。七柱もの精鋭が、なんでこんな迷宮の奥に籠もってるんです?」
あくまで、世間話の顔で。
魔族の口の端が、吊り上がった。
「籠もっている、とでも思ったか。——ここは、我らの揺り籠だ。迷い込んだ獣は牙に、人は同胞に。主の御手にかかれば、みな生まれ直す」
「へえ。……その中でヴァルディスさんは何番目に——」
「愚問だな」
顎が上がった。完全に調子に乗っている。
「最強に決まっている。我こそ七柱の筆頭にして、深淵を統べる第一の牙。力、速さ、魔力——いずれを取っても、他の六柱の追随を許さん。ことに、この右腕へ魔力のすべてを集めて放つ奥義は、岩を砕き、鎧を裂き、魂さえ深淵へ引きずり込む。これまでその全貌を見て、生きて帰った者は一人もいない。——よかろう。そこまで知りたいのなら、冥土の土産に見せて——」
——長い。素晴らしい。もっと喋れ。
あと少し。掌の中でアルミ玉が脈打っている。集めた魔力が渦を巻いて、暴れ出す寸前だ。でも離すな。
魔族が、赤黒い光をまとった右腕を高く掲げた。完全に演説の構えだ。
「七柱の筆頭たる我が力——その名を——」
——溜まった。
「——ごめん!」
巨大火球!
掌から放たれた火球が通路を埋め尽くした。逃げ場を失った熱と衝撃が、通路の奥へ一気に奔る。壁が抉れ、天井の鉱石が弾け飛ぶ。熱波が頬を炙り、足元の岩が赤く焼けた。
——岩ごと蒸発させた、あの日の没技。
光が収まった時、通路の先には焦げた岩しか残っていなかった。
耳鳴りの向こうで、石を蹴るような音がした気がした。けれど、すぐに聞こえなくなった。
膝が笑った。
壁に手をついた。指に力が入らない。視界がぼやける。体の芯から絞り出した感じで、立っているのがやっと。
——ソロンの警告通りだ。撃った後は魔力切れで棒立ちになる。あれだけの音を聞きつけて何か来たら、終わる。
でも。勝った。初めて、魔族を自分の力で倒した。
壁にもたれて、息を吐いた。心臓がまだうるさい。全身が震えている。
——怖かった。ずっと怖かった。しゃべっている間も、笑っている間も。
……人の形をしたものを、焼いた。
角があった。赤い目だった。でも人の顔をしていた。口があって、声があって、名前があった。ヴァルディス。技の名前を言いかけていた。
分かっている。分かっているけど、飲み込むまでに、少し時間がかかった。
焦げた匂いが、鼻の奥に残っていた。さっきまであれだけ喋っていた声は、もう、どこにもなかった。
隣にいたセリアが、焦げた通路を見て、私を見て、もう一度通路を見た。
「……何をしたの」
「溜めが長すぎるって理由で前に没にした技。——相手がしゃべってる間に魔力溜めて打ち込んだ」
セリアが黙った。焦げた壁を見ている。
「……汚い」
「今日二回目」
……これから魔族にはしゃべらせよう。名乗り始めたら、時間をもらえる。
「七柱の筆頭」も「最強」も、話半分でいい。
でも——「揺り籠」。あの一言だけは、聞き流せなかった。
迷い込んだ獣は牙に、人は同胞に。
あいつら自身は、生まれつきだった。作られたのは——六層の、あの鹿の方だ。後付けの術式を植えつけられた、元は普通の獣。
そして「人は同胞に」。トールと、同じ手口だ。
——「深淵の牙」、「揺り籠」、「主」。今夜キリヤに返す報告は、「無し」じゃない。
まだ、魔力は戻らない。動けるようになるには、時間がいる。
その時、セリアの耳が跳ね、来た道の奥へ鋭く向いた。
一拍遅れて、石を蹴る足音が響く。
顔を向けた。紫の光の中、角のある人影がこちらへ駆けてくる。
——三体目。まだ……いた。
赤い目は、セリアではなく私を捉えていた。進路を変えない。まっすぐ、私へ向かってくる。
身構えようとした。膝が言うことを聞かない。アルミ玉を握り直そうとした指が、開いたままだった。足が地面に張り付いている。
「——アオイ!」
白い光が横から割り込んだ。セリアが私と魔族の間へ滑り込み、右手の剣で、私へ振り下ろされた腕を外側へ弾く。骨まで響く重い音。
同時に左腕が私の背中へ回り、腰を抱え込まれた。その腕に引かれ、私はセリアの背後へよろめいた。
白金の髪と背中が、魔族を視界から遮った。
空気が、一瞬で冷えた。
「——氷結」
白い氷が魔族の足元から噴き上がった。脚、胴、喉——頭まで、一息に呑み込んでいく。
いつもなら凍らせるのは四肢だけだ。
氷像に亀裂が走った。次の瞬間、魔族ごと砕け散った。
……終わった。
セリアが剣を下ろし、振り返った。
張りつめていた身体から力が抜ける。崩れかけたところを、腰に回った左腕が支えた。
そのまま、ぐっと引き寄せられた。額が、セリアの肩口に触れる。
右手には、まだ剣が握られている。
腕はひんやりしていた。それなのに、触れられた場所だけが熱を持った。
戦闘は終わっている。三体とも倒れた。それでも、その腕は緩まない。
「……セリア」
「……立てる?」
「もう大丈夫……ありがとう」
一拍遅れて、腕の力が緩んだ。
帰路。
ダンジョンの中を戻る間、セリアはしばらく一言も喋らなかった。
それ自体はいつものことだ。でも今日は、時々こちらを窺うように横を向く。視線が合うと、すぐ前に戻る。
魔力はとっくに戻っている。アルミ玉を握って歩けば、補充は道中で済む。
帰りの魔物は二人で片付けた。
「あのさ」
「何」
「さっき、私の名前、呼んだよね」
間。
「別に……ただの……あなたの名前でしょう」
「ただのって……」
訊き返しかけて、やめた。
これ以上は、どうせ「別に」で終わる。いつものセリアだ。
でも——聞こえた。「ユズリハ」じゃない。「アオイ」と。
ソロンの家で、本名だと話した。それを覚えていたんだ。
セリアの声で聞くと、初めて聞く名前みたいだった。
ダンジョンを出ると夕暮れの森だった。湿った空気から解放されて、肺が軽い。
セリアが先を歩いている。耳の先が赤い。ずっと赤い。
「耳、なんか赤いね」
「……耳ばかり見ないで」
振り返らずに、セリアが言った。声が上ずっていた。
「もしかして、さっきの『アオイ』、気にしてる?」
「——気にしてない」
即答だった。歩幅が広くなって、置いていかれそうになる。
——気にしてる人の反応だろ明らかに。
王都へ戻り、ギルドで報告を済ませた。魔族三体遭遇、討伐三。深淵の牙という名も伝えた。受付の手が止まって、奥から人が呼ばれた。——依頼完了。
セリアとは、そのまま別れた。
部屋に戻ると、遺書が置いたときのまま残っていた。
——今回は、読まれずに済んだ。
畳んで、荷物の底に押し込んだ。また使うかもしれない。
フルスタック・ファイアは再封印。三体目には、指一本動かせなかった。生きて帰れたのは、セリアがいたからだ。反省点なら、いくらでも出てくる。
出てくるはずなのに、さっきから同じところで止まっている。
——「アオイ」。




