ノイズ
巡回から戻った翌日、ソロンの家に寄った。
背嚢の底から、あの魔導書を取り出す。
「先生、これ。街道の道標の裏に隠してあった」
ソロンが受け取って、頁をめくった。古い術式記法を指でなぞっている。
こういうものを調べるなら、ソロンの目が要る。
「これ、読めます?」
「読める。——読めるが」
ソロンの指が止まった。
「……お主、中身は読んだのか」
「読みました。永久体毛除去。部位を選べない全身一括仕様で……髪も眉も睫毛も、まとめて」
ソロンが黙って魔導書を閉じた。
私の顔を見た。魔導書を見た。もう一度私の顔を見た。
「……古代の魔導士は偉大だが、時に正気を疑う」
「売れますかね」
「……記法そのものには価値がある。中身に価値があるとは言わん」
ソロンが再び頁を開いた。装丁をひっくり返し、背表紙を確かめる。眉間の皺が深くなった。
「起動条件の記述がない」
「らしいですね。書いた人、詰めが甘いというか」
「他人事のように言うな。何を引き金に発動するかも分からん術式を、後生大事に持ち歩いておったのか」
「え。まあ……売れたら嬉しいなと」
「条件が分からんということは、いつ引かれるかも分からんということだ。道中で満たしていたら、どうする気だった」
「その時は諦めて、帽子を探します」
「お主はそれでいいだろうが、バディの御方はどうなる! セリアンディエル様だぞ。王都でも名の知れた、あの高貴なお方の髪に万一のことがあってみろ」
「……あれ。私の心配は?」
「『帽子を探す』のだろう」
「抜けても、先生ほどの魔法使いなら、生やしてくれるでしょ」
ソロンが、一瞬詰まった。
「魔法で育毛など不名誉だ!」
「え、でも、弟子のために努力する姿は美しいと思いますよ」
「育毛にわたしの人生の最後の努力を注がせるな!」
力いっぱい言い切ってから、ソロンは長い咳払いをした。賢者の威厳が、数秒だけ留守になった。
「これは置いていけ」
「え。要るんですか」
「要らん! ……要らんが、いつ発動するとも知れんものを、お主のように運の悪い者に持たせておく方が危険だ。預かって、起動条件を調べておいてやる」
「じゃあ、調べて売り物になったら、山分けでお願いします」
「こんな危険なもの売り出してたまるか」
魔導書はソロンの書架に収まった。棚に置く手つきだけは、最後まで汚いものを摘むようだった。
帰り道、背嚢が軽かった。冊子一冊分より、ずっと。
——一週間後。
セリアが先を歩いている。白金の髪が背中で揺れている。木漏れ日が髪を透かすたびに色が変わる。白、銀、薄い金。
やっぱり綺麗だな。
——ウィッグにしたら、いい値がつくだろうな。あの魔導書より、確実に。
……あれを先生に預けて、本当に良かった。この髪が抜けたら、もったいなさすぎる。
今日の依頼は、王都の東で目撃された大型魔獣の討伐。街道沿いの集落が被害を出し始めたので、早めに叩いてほしいとのことだった。Aランク指定。
森に入って二時間。会話は必要最低限。セリアは一度も振り返らない。
歩く速度は私に合わせているのに、並ぶことはなかった。髪も、いつものように下ろしている。
地図を確認しようとポケットから紙を取り出した。目撃地点は、もう少し先だ。
顔を上げると、セリアの足が止まっていた。
こちらを見ている。——いや、見ていない。
目の焦点が合っていない。私を通り越して、もっと遠くを見ている。
つられて背後を振り返った。木々と、下生えと、来た道が続いているだけ。魔物の気配もない。
——何もない。なのに、見ている。
「セリア」
名前を呼んだら、視線が戻ってきた。一拍、遅い。
「……何でもない」
——まだ何も聞いてないんだけど。
セリアが歩き出す。私もついていく。
しばらく歩いたあたりで、気づいた。
セリアの立ち位置が安定しない。さっきまで先を歩いていたのに、いつの間にか私のすぐ横にいる。腕が触れそうな近さ。かと思えば、急に離れる。また近づく。また離れる。
——おかしい。前の巡回とは違う。
「……さっきから、やけに近くない?」
「……風向き」
「それ、前にも聞いた」
セリアの歩みが、一瞬だけ乱れた。
「……この地域は風が変わりやすい」
同じ質問に、同じ答え。しかも今日も無風。
戦闘力はAランク以上なのに、嘘のスキルはFランクかな。
——でも、隠しているのは悪意じゃない。悪意なら、もっとうまくやる。
——索敵か。
そういえば、さっきから耳が小さく動いている。右に、左に、落ち着きなく角度を変えている。
私には聞こえない何かを、あの耳が拾っている。脅威の方向が変わるたびに、位置を調整しているのだろうか。
——だったら、言ってくれればいいのに。
足元に、深く抉れた蹄の痕があった。
幅は私の手のひらより大きい。太い木の幹が根元からへし折られている。断面がまだ新しい。
——でかい。相当でかい。
セリアの目が変わった。手が剣の柄にかかる。
さっきまで落ち着かなかった動きが、嘘みたいに消えた。
茂みが裂けた。
大型の魔獣だった。体高は私の背丈を超えている。猪に似た体格だが、二本の牙が角のように反り上がり、全身が岩のような甲殻に覆われている。赤い目が薄暗い森の中でぎらぎら光っていた。
——Aランク指定は伊達じゃない。こりゃやばい。
アルミ玉を握った。動く相手の術式を読むのに、余裕はない。全部は見ない。後付けの継ぎ目があるかどうか、そこだけ——ない。生まれつきの個体だ。
バグ・スウォームを展開しようとして、止まった。
——撃てない。セリアが前にいる。
いつもなら横に開く。蟲で視界を潰して、セリアの間合いへ流す。それが私たちの形だ。
なのに今、私の正面に立って壁になっている。
撃てば、セリアごと飲み込む。
「セリア、右に——」
言いかけた時、魔獣が突進してきた。
地面が震える。重い。この距離を詰めるのに二秒もかからない。
セリアの左手から白い光が放たれた。光が弧を描いて魔獣の顔面に突き刺さる。突進の軌道が逸れ、巨体が木に激突した。幹が割れる。
——止めた。でもこの配置じゃ、私は何もできてない。
セリアが踏み込んだ。剣を抜く。光を纏った刃が甲殻を薙ぐ——弾かれた。硬い音がして、刃が滑る。
——浅い。セリアの斬撃じゃない。
いつものセリアなら、回り込んで継ぎ目を突いて、とっくに終わらせてる。なのに今日は、私の前から離れない。半歩も。
魔獣が体勢を立て直し、こちらへ頭を向けた。
——どうする。
次の瞬間、魔獣が地面を蹴った。セリアの横を抜け、まっすぐ私へ突っ込んでくる。
バグ・スウォームを顔面へ集中させた。火の蟲が甲殻に次々とぶつかり、赤い火花を散らす。だが表面を焦がすだけで、勢いは落ちない。
油蟲で足を——近すぎる。間に合わない。
横へ跳ぼうとした。身体が動くより、魔獣の方が速い。
その瞬間セリアに手首を掴まれ、強く引かれた。足が地面を離れる。
直後、巨体が目の前を通り過ぎ、牙がさっきまで私のいた地面を抉った。
土の匂い。心臓が耳の奥で鳴っている。
——生きてる。考えろ。次が来る。
魔獣が、向こうで反転している。まだ、退がる気はない。
——魔獣を斬るより、私を庇う方が先だった。
殻を破れないんじゃない。私がいるから、破りにいけないんだ。
魔獣が地面を蹴った。まっすぐ、こっちへ。
今度は、引きつけた。ぎりぎりまで。
足元へ油蟲を撒く。突進の勢いのまま、前脚が滑った。巨体が泳ぐ。体勢が、大きく崩れた。
同時に、私は横へ跳んだ。セリアの正面から、自分でどいた。
——これで、庇うものはない。
「セリア!」
セリアの姿が、消えた。
次に見えた時にはもう、泳いだ巨体の懐にいた。白い光を纏った刃が、前脚の付け根——甲殻の合わせ目へ、迷いなく滑り込む。
内側から、巨体が灼き切れた。
魔獣が崩れ落ちる。地面が揺れた。
——終わった。
息が、まだ整わない。膝に手をついた。
足音が近づいてきた。セリアが剣を鞘に戻しながら、私の前に立つ。返り血のひとつも浴びていない。
無言で私の腕を取った。袖を上げて、掴んだ方の手首を検める。それから、反対の腕。
「大丈夫、掠ってもいない。引っ張ってくれたおかげ。——ありがと」
「……次は、もっと早く避けて」
叱る声は平坦だった。でも、手首に触れる指が、微かに震えている。
……アドレナリンだろうか。戦闘直後は誰でもこうなる。現に私の手も、まだ震えている。
確認が終わっても、指はそのままだった。
一拍。二拍。——三拍目で、離れた。
それでも、手首だけが、まだ指の形を覚えていた。
報告書には「討伐完了」とだけ書けばいい。
「さっきの戦闘、振り返っていい?」
障害が出たら原因を特定して、次に備える。仕事の基本だ。
「開幕、なんで私の正面に立ったの。射線が塞がれて、蟲が出せなかった。いつもの形なら、あの突進は最初から捌けてる。……それに、あの角度はセリア自身も危なかったでしょ」
「……別に」
「別にじゃなくて。理由があるなら知りたい。次があるから」
セリアは黙っていた。いつもより、長い。
それから、こちらを見た。正面から。今度は焦点が合っている。
「……あなたは分析的すぎる」
「え?」
「……感情に、いちいち理由をつけないで。体が動いた。それだけ」
——分析的すぎる。
……知ってる。そんなこと、言われなくても知ってる。全部に理由をつけないと気が済まないのは、SEの職業病だ。
でも、分析の何が悪い。理由が分かれば、次に活かせる。戦い方だって、そうやって組み立ててきた。
だいたい、今は連携の話だ。感情なんか、関係ない。
「体が動いた。それだけ」。理由なし。論理なし。私が一番苦手な答えだ。
言い返そうとした。でも、感情に理屈は通じない。
……今は、飲み込んでおく。
セリアが、小さく息を吐いた。
視線を外して、剣の柄に手を戻す。いつもの姿勢だ。
会話は終わった。
帰路。
日が傾いて、木漏れ日が橙に変わっていた。
あの会話から、三十分くらい無言で歩いた。
——「分析的すぎる」。
……認める。認めるけど。
「……セリアだって」
言ってから、止まらなくなった。
「いっつも主語ないし、三語で会話終わらせるし、『別に』で全部片付けるし……。分析しないと連携なんてできないよ」
「……伝わってるでしょ」
「伝わってたら、三十分もセリアのことで悩んでない!」
セリアの足が止まった。振り返る——かと思ったが、振り返らなかった。
でも、横顔が一瞬だけ見えた。口角が、わずかに上がっている。
——今、笑わなかったか?
確認する前に、セリアが歩き出した。
……笑った。絶対笑った。木漏れ日のせいじゃない。
何がおかしいんだ。私は真面目に苦情を言っているのに。
——この人は、本当に読めない。
王都の東門が見えた。
石畳の音。人の声。馬車の車輪。門をくぐる。
ギルドで報告を済ませた。問題なし。依頼完了。解散。
宿への帰り道、一人で歩きながら、今日のログを頭の中で並べ直した。
焦点の合わない目。「風向き」の言い訳。震えていた指。あの笑い方。——細かいものには、それらしい理由がつく。索敵。アドレナリン。気まぐれ。
でも、問題は、そこじゃない。
今日のセリアは、ずっと、私を後ろに庇っていた。
自分の射線を潰してでも、いつもの連携を崩してでも、私を前に出さなかった。
——街道で私が引きつけすぎたのを、警戒してるんだろう。危ない相手のときは、格下を後ろに置く。Aランクなら、当然の判断だ。
理屈は、通っている。それなのに、その結論だけが、うまく片づかない。
本来なら、切り捨てるべきノイズだ。——なのに、私の前に立ったあの背中だけが、消えてくれない。
——数日後。
ギルドの依頼ボードの前に、セリアと並んで立っていた。
次の依頼を選ぶのは、私の役目だ。
一枚の依頼書の前で、手が止まった。
『灰底の回廊 深層調査』。ここは以前鹿をハッキングした場所だ。
注記の欄に、小さな文字がある。——深層にて、角のある人影の目撃報告あり。
……魔族。
紙一枚が、妙に重い。
避ければ済む。今は、まだ。でも、Aランクの依頼を受け続ける限り、いつかは当たる。
魔族と関わって、いいことなんて一度もなかった。それでも、協会の認定を受けた以上、いつかまた任務で当てられる。その時は、依頼を選ぶのはこっちじゃない。日も、場所も、隣にいる人間も。
だったら、殺すつもりで魔族と対峙する最初の一回くらいは、自分で選びたい。セリアのいる、今のうちに。
依頼書を、ボードから外した。
「……いいの」
「善は急げって言うし」
セリアが私の顔を見た。少し、長く。それから、依頼書へ視線を落として、また私に戻した。
「……分かった」
受付に依頼書を出す間、指先がずっと冷たかった。
——人生で一番、気の重い受注だった。




