分類不能
巡回依頼の二日目、夜になった。
街道を外れた森の中に、小さな泉を見つけた。
岩の隙間から湧き出した水が、苔むした窪みに溜まっている。幅は二メートルもないが、水は澄んでいた。窪みから溢れた水は岩肌を伝って下り、少し低くなった場所で、ひと回り広い溜まりになっている。
セリアが湧き口の水を手で掬い、口に含んだ。「……飲める」と短く言った。
じゃあ、上は飲み水。洗うなら、下の広い溜まりだ。天然にしては、よくできた二段構えになっている。
野営地はここに決まった。泉から少し離れた開けた場所に荷物を下ろす。
街を離れる依頼で、地味に困るのが用を足す場所だ。日帰りなら出発前後で済むことも多いが、数日行程ではそうはいかない。
魔法使いなら水魔法で洗い、風魔法で乾かせるぶん、後始末は早い。魔法を使えない冒険者は水や布を持ち歩く。どちらにしても、人目につかない場所だけは自分で探すしかない。
最初の頃は、ひたすら尊厳と戦っていたが、もう慣れたものだ。きっと私は地球に帰っても躊躇なく野ションできると思う。アラサーまだまだいける。
下の溜まりの周囲を見て回り、白い筋の入った大岩と茂みに囲まれた一角を見つけた。野営地からは死角で、上の湧き口からも離れている。大岩の陰にある乾いた地面は、水際から外へ向かって傾斜している。
セリアが薪を集めに森の奥へ入ったので、その間にそこで用を済ませ、水で洗い、風で乾かして戻った。
セリアが戻ってきてから焚き火を起こした。
火の番をしながらメモを整理していたら——いない。
セリアがいない。さっきまで向かい側にいたのに、いつの間にか消えていた。荷物はある。剣もある。セリアだけがない。
魔物か。いや、気配はなかった。……どこ行った? トイレか?
立ち上がって、周囲を見回した。焚き火の明かりが届く範囲には誰もいない。森の奥は暗い。泉の方に——
足が止まった。
月明かりが、下の溜まりの水面を照らしていた。
水際に、白い筋の入った大岩がある。その上に、脱いだ服がきれいに重ねてあった。
その岩のすぐ前で、セリアがこちらに背を向け、腰まで水に浸かっていた。
——水浴びか。このタイミングで……。まあ確かに、三日行程の依頼中に身体を清められる機会は限られている。
編み込んだ白金の髪が裸の背中を伝い、その先が水に長く浮かんでいる。月の光が髪を銀に変え、揺れるたびに光が散った。
細い肩から落ちた水滴が、肩甲骨のあいだを滑り、腰のくびれに沿って泉へ戻っていった。人間の肌なら月明かりを跳ね返すだけなのに、セリアの肌は、光を内側に含んでいるように青白く見えた。この世のものじゃない——という表現が、初めて比喩じゃなく感じられた。
——綺麗だ。
心臓が一拍、強く打った。——不意打ちだ。私のやってることは「覗き」ではない。断じて。
……待て。
白い筋の入った大岩。
さっき、私が背にしてしゃがんだ岩だ。
そのすぐ前で、セリアが水浴びしている。
全身の血が引いた。
——いや、用を足したのは岩の裏の乾いた地面だ。傾斜も泉とは逆。物理的には何ひとつ問題ない。
それでも、月光に照らされた白金の髪と、茂みでしゃがんでいた自分が、同じ画面に収まってしまった。
精神的には、もう手遅れだった。
音を立てずに後ずさった。焚き火の前に戻った。何も見ていない。何も見ていない。
しばらくして、セリアが戻ってきた。
「……身体を清めた」
清めた……。
セリアはそれだけ言って、焚き火の前に座った。赤い瞳が炎を映して深い色になった。
濡れた髪が、焚き火の光を映している。
……考えるな。番の話をしよう。正気に戻れ。
「あの……焚き火の番、どうする」
「……あなたは寝なさい」
「またそれ? 今日は私にもやらせてよ」
「……必要ない」
「ある。今日はセリアも寝て」
セリアが何か言う前に、依頼記録用の紙を取り出し、夜を三つに区切った当番表を作った。魔物が最も活発になる真夜中から明け方を赤にして、自分の名前を書いた。夜くらいは私が番をする。
「……何をしているの」
セリアが紙を覗き込んでいた。
「当番表。深夜帯は私が入る。いつもセリアに任せきりだから」
セリアが紙を取り上げた。
赤い欄の「ユズリハ」を横線で消して、その上に自分の名前を書いた。丁寧な筆跡だった。
「……ちょっと」
「深夜に魔物が出たら……あなたが一番、危ない」
「だから鍛えてるんだけど」
「……まだ足りない」
返された紙では、私の名前が青い欄に追いやられていた。確かに深夜に大型が出たら、私一人では咄嗟に捌けない。反論はやめた。
赤い欄のセリアの名前が、ずいぶん頑丈な盾に見えた。
「……分かった。深夜はお願いします。でも、最初は私」
私が先に番をする。焚き火の反対側に敷物を敷き、セリアは毛布にくるまった。配置は、それで決まったはずだった。
焚き火の前で、今日のメモを整理する。
布の擦れる音がした。顔を上げると、セリアが毛布ごと敷物を引きずって、焚き火を回り込んでくるところだった。私の隣に敷き直して、毛布を肩に巻いたまま座る。
「……寝ないの? 私がちゃんと番をするか、心配?」
「……違う」
「じゃあ、何」
「……こっちの方が風が当たらない」
風なんて吹いてないんだが。
——申告と観測結果が一致していない。
でも、指摘する理由はない。隣に座るセリアはいつもより近く、肩の輪郭が焚き火で縁取られていた。
触れてはいないのに、呼吸の間まで分かる。
不意に、セリアが毛布の中から片手を出した。手のひらを上に向けて、私の前へ差し出す。
「え……何」
「……気になるんでしょう」
「まあ、気になるけど。長く触りすぎたって怒ったのに。なんで自分から?」
「……早く」
急かす声に、昼間の棘はなかった。
手首に指を添えた。触れた肌は、やっぱりひんやりしている。
私には冷たい。でもセリアからすれば、人間の指は熱く感じるのかもしれない。
指先に返ってきた脈は、触れた直後から速かった。
「最初から速い気がする。……測り間違いではなかったのかな」
セリアは手を引かなかった。そのまま、空いている手で私の手首を取った。
「——え」
「……私も」
「私の脈を?」
「……比べる」
互いの手首を取る形になった。セリアが手元を覗き込むように傾いて、膝が触れた。濡れた髪の先が、二人の腕の上に落ちる。
焚き火の光の中で、白い指と自分の指が、同じ火の色になっていた。
細い指が手首の内側をゆっくり辿り、脈の上で止まった。赤い目が、わずかに見開かれる。
脈打つたび、手首に触れるセリアの指先へ意識が吸い寄せられる。
意識した途端、自分の鼓動が一段速くなる。
——あ。やっぱり測り方じゃない。セリアも、こうなったんだ。
測ろうとすること自体が、相手の値を変えてしまう。脈は、静かには測れない。
「……人間は、いつもこんなに速いの」
「安静時なら、もう少し遅い。手首なんて普段は触らせないから、意識して上がってるだけ。……昼のセリアも、これだったんだね」
「…………」
返事の代わりに、私の指先へ返る脈が、また一つ速くなった。
「人間の脈、初めて?」
「……初めて」
「人間嫌いなのに、興味はあるんだ」
「……バディだから」
どちらから手を離すでもなく、脈だけが速くなっていった。
セリアは目を伏せて、私の脈を数えている。睫毛の影が頬に落ちて、口元が——ほんの少しだけ、緩んでいた。
離す理由も、急ぐ理由も、見つからなかった。夜の森は静かで、火の揺れる音と、指先の脈だけがあった。
安静時の脈が測れないなら意味がない。——再測定、失敗。
やがて、セリアの指が離れた。触れられていた場所だけ、妙に冷たさが残った。
私も手を離した。
火を挟んで向かい合っていた、あの夜を思い出す。集落のことと、兄を探していることを話してくれた夜。
目的の達成か、あるいは私の寿命か——いつかバディに終わりが来ることは分かっている。それはいつになるんだろう。
「ねぇ」
「……何」
「お兄さんを見つけるまで、冒険者を続けるの?」
セリアは火を見たまま、しばらく答えなかった。
「……少なくとも、Sランクになるまでは続ける」
——Aランクの魔物を、一人で、一撃で仕留めるくらいだ。セリアがSランクになるのも、そう遠くない気がする。
「なんでSランク?」
「…………」
「Sランクになったら、冒険者辞めるの?」
「……分からない」
「その時は、バディも解散?」
赤い目が、こちらを向いた。
「……あなたは、いつまで続けるの」
「…………どうだろ」
答えられなかった。
私には虚ろの迷宮がある。その先に帰る道があるかもしれないことを、まだセリアには話していない。
だとしたら、バディでいるうちに、虚ろの迷宮へ行っておきたい。あそこに、一人では潜れない。セリアがSランクになる前に……。
我ながら、計算高いことを考えている。
自分の先を伏せたまま、これ以上セリアの先だけを聞くことはできなかった。
薪がぱちんと爆ぜる音だけが、夜の中に響いた。
当番表通り、セリアが先に眠った。
酒に潰れて寝落ちした姿は見たことがあるが、自分から毛布に入り、私に番を任せるのは初めてだった。十分もしないうちに、呼吸が穏やかになった。
火の番をしながら、時々セリアの方を見た。寝顔は——見えない。こちらに背を向けて丸まっている。
白金の髪が毛布からはみ出していた。焚き火の光が髪の先を橙色に染めている。今日は編み込みだったから、ほどけかけた三つ編みの毛先が地面に触れていた。
月が木立の上まで来ていた。交代までは、まだ少しある。
……明日はどんな髪型なんだろう。また「気分転換」するんだろうか。
そんなことを考えながら、薪をくべた。
番を交代する頃には、私の方がうとうとしていた。
気配が動いた。肩を軽く叩かれて、目を開けると赤い瞳がすぐ近くにあった。
「……交代」
「ん……了解……」
自分の毛布に潜り込む。まだ少し冷たい。
目を閉じた。
——どのくらい眠っただろう。
薄い意識の中で、何かが肩にかかった。軽い。少し、ひんやりしている。
上着だ。微かに、花の甘さに薬草の青さが混じる、あの匂いがした。セリアの匂いだ。
動けなかった。目を開けられなかった。
手の気配が近くにあった。肩にかかった上着を直すような、小さな動き。それが止まった。
数秒。
手が離れた。足音が遠ざかる。焚き火の方へ戻っていく。
目を閉じたまま、肩の重みを感じていた。ひんやりした布が、自分の体温で少しずつ温まっていく。……喉の奥に、言葉が詰まったまま溶けた。
三日目の朝。
目を覚ますと、肩の上着はもう無かった。
泉に顔を洗いに行こうとして——白い筋の入った大岩が目に入った。
足が止まった。
その岩のすぐ前、昨夜と同じ側にセリアがしゃがんでいた。
両手で水を掬い、顔を洗っている。水滴が顎を伝って、鎖骨に落ちる。朝日が水面を照らして、セリアの髪が光っている。
三日目の髪型は、両サイドの髪だけを後ろで結んで、残りは下ろしていた。一日目は一つ結び、二日目は編み込み。——三日とも違った。
セリアが水を掬い、もう一度顔を洗う。それから、立ち尽くしている私を見た。
「……おはよう」
「おはよ……」
私は石になった。
——なんでまた、ここで清めてんだよ。
「……何をしているの。顔、洗えば」
「……うん。いい。今日は拭くだけにする」
「……ここの水も、飲めるけど」
——知ってる。水に罪はない。悪いのは私の記憶だ。私の記憶によると、ここの水は飲めない。
結局、顔は水魔法で濡らした布で拭いた。
焚き火の跡を消して荷物をまとめると、野営地はただの森の空き地に戻った。
三日間の依頼を終え、来た道を王都へ戻る。
不思議なことに、行きより歩調が合っていた。
隣を歩くセリアに目を向けた。
「その髪型も、いいね」
今回は「戦いやすいのか」とは聞かない。感想に余計な解釈を付けるからバグる。結論だけ言えばいい。
セリアはすぐには答えなかった。一瞬だけ歩調を乱し、サイドの結び目に手をやった。
「……そう」
それだけだった。剣に手はかからなかった。——学習の成果だ。
セリアが時々こちらを見た。——視線だけ。すぐ前を向く。
私も時々セリアの耳を見た。朝からずっと穏やかな角度だ。
帰り道に魔物が出た。二匹。行きに仕分けた猪型と同じ種だ。
セリアが前に出る。私はアルミ玉を握り、バグ・スウォームを一匹目の顔へ集中させた。
視界を塞ぎながら、後から重ねられた術式の継ぎ目だけを拾う。——ない。
「一匹目、後付けじゃない!」
セリアの剣が走り、猪型の首を断った。
二匹目がセリアを無視して、私に向かってきた。
バグ・スウォームを顔へ集中させる。視界を塞いで進路を逸らし、セリアの射程へ追い込む。何度も繰り返してきた形だ。
同時に、二匹目も見る。——継ぎ目はない。
「二匹目も!」
返事の代わりに、白い剣閃が首を断った。追い込んだ先には、もうセリアの刃が待っていた。
倒れた猪型の牙が、私の数歩先で止まっている。……読むのに集中して、引きつけすぎたか。
「……今、見ながら動けた」
「……ぎりぎりだった」
セリアはそれ以上何も言わず、剣を一振りして血を払い、鞘に戻した。
これでもう「戦闘に参加しないで何をしてるの」とは言われない。……たぶん。
……セリアが、まだ立ち止まっている。視線は死体ではなく、その手前——さっきまで私が立っていた場所に落ちていた。
「セリア?」
「……何でもない」
キリヤへの報告はそれでいい。「ライゼ街道沿い、後付けの個体は未確認」。
三日歩いて、報告は一行。まあ、異常が確認されなかったなら、それが一番いい。
王都の東門が見えてきた。
三日ぶりの石畳。人の声。馬車の音。空気が変わる。森の冷たい匂いから、街の埃っぽい匂いに。
門をくぐった瞬間、セリアの歩調が変わった。半歩前に出る。森に入る前と同じ距離だ。
——森の中では、もう少し近かったのに。
門を一つくぐっただけで、距離が元に戻った。
それだけのことなのに、半歩の差が妙に広く感じた。
「……依頼報告、ギルドに寄るよね」
「……ええ」
一言。いつものセリアだ。
三日間で集めた記録は多い。髪型、耳、瞳、食事、睡眠、心拍。書こうと思えば、いくらでも項目は増やせる。
記録できるのは、起きたことだけだ。
「風が当たらない」と隣に来た。私の脈を測り返した。夜中、黙って上着をかけた。
どれも、セリアの方からだった。
でも、それが何を意味するのかは、どの項目にも書けない。
記録は増えた。なのに、分類ができない。セリアのことが、前より分からない。
……厄介だな、それは。
「……何を考えているの」
セリアが半歩前から、振り返らずに聞いた。
「セリアのこと」
正直に答えた。嘘をつく理由がない。
セリアの足が一瞬だけ止まった。
すぐに戻った。早足になった。耳の先が、赤い。
——……また、分類できないやつだ。
「……余計なことを考えないで」
「余計じゃないと思うけど」
「余計」
一語。いつもの温度。
でも、歩調は戻らなかった。少しだけ早いまま。
私は半歩遅れで、その背中を追いかけた。




