個体差
二日目の朝。
前に二人で野営した時も、私の方が先に眠った。あの夜は、打ち明けたこと、打ち明けられたことが頭から離れなくて、そんなことを気にする余裕もなかった。
昨晩は見張りの交代を申し出たけど、セリアに「寝なさい」の一言で切られた。
Aランク冒険者に番を任せて寝るBランク。構図としてはおかしいけど、逆らう余地がなかった。あの声で「寝なさい」と言われたら、もう寝るしかない。命令じゃなくて、拒否権のない提案。
エルフがショートスリーパーなのは知っている。それでも、自分だけ毛布にくるまって朝まで寝たのは、少し居心地が悪い。
目が覚めた時、焚き火はきれいに消えていた。セリアは荷物をまとめ終えて、水筒の水を飲んでいた。
朝日が差し込んで、白金の髪を横から照らしている。水を飲む喉が動いた。鎖骨の線に光が落ちて、そこから肩へ。——セリアは寝たのか? 目の下に隈一つない。
「おはよう」
「……おはよう」
「セリア、寝た?」
「……少し」
「少しって何時間」
「……数える必要がない」
——測定不能。省電力設計の仕様は非公開らしい。
セリアが水筒を下ろした。
——あ。
昨日は後ろで一つに結んでいた髪が、今朝は緩く編み込まれていた。サイドの髪を後ろに流して、うなじの辺りでまとめている。顔周りの印象が昨日と全然違う。
少し前なら、見落としていたと思う。今は『見る』モードなので一目で違うと分かる。
「……今日は編んでるんだ」
セリアの動きが止まった。
背嚢の紐を締めていた手が、ゆっくりと離れる。
振り返る。朝の逆光の中で、赤い目だけがはっきりと見えた。
「……何が」
「髪。昨日より時間かかりそうだけど、そっちの方が戦いやすい?」
「……戦いやすい……?」
セリアは抑えた声で、そこだけ繰り返した。
長い沈黙。
鳥の声が三回聞こえた。焚き火の灰が風に飛んだ。セリアの右手が、ゆっくりと腰の剣の柄に触れた。
——え。
「…………もう一度、言って」
「え? いや、朝の準備として効率が——」
「——黙りなさい」
……何がまずかったんだ。
昨夜は「気分転換」と言っていた。それを私は「戦いやすい」に言い換えた。
……回答を間違えたらしい。
だとしても、剣に手をかけるほどか?
セリアの手が、剣の柄から離れた。
そのまま踵を返して歩き出す。足音が、いつもより少しだけ強い。
分からないまま、慌てて後を追った。
気まずい。
セリアは黙ったまま、いつもより少しだけ速く歩いている。編み込んだ髪が背中で揺れるたび、さっきのはやはり不正解だったと告げられている気がした。
——とりあえず、話題を変えよう。このまま黙って歩き続けたら凍死する。物理的にではなく、精神的に。
「セリア」
「……何」
声が硬い。でも返事はした。——いける。
昨日は耳が動いたと言ったところで睨まれて、聞きそびれたことがある。
「昨日、蜥蜴と戦った時の耳なんだけど」
「…………」
「ぴくって立った。私の方を一瞬向いて、すぐ蜥蜴に戻った。あれ、意識してやってるの?」
セリアが足を止めた。振り返る。
「……そこまで覚えているの」
「目の端に入っただけ。でも、動き方が気になって」
「戦闘に参加しないで何をしてるの」
人間にはない可動部が、本人の意思とは別に動いたように見えた。何に反応したのか、仕組みも条件も分からない。
エルフの身体についての本は探せばこの世界にもあるだろう。私が読んだことがないだけだ。戻って探せば、耳の動きについても何か分かるかもしれない。
——でも、エルフ本人が今目の前にいるんだぞ? 直接聞いて確かめたっていいだろ。
「戦闘に集中してなかったのはごめん。でも、動き方だけもう少し確認したい」
セリアの目が、すっと細くなった。
「私は実験体じゃない」
「いや、これは観察であって——」
「同じ」
一語。刺さる。——でも引き下がりたくない。
「単刀直入に聞くけど、エルフの耳って感情で動くの?」
「ない」
「今、耳立ってるけど」
「…………」
セリアの耳が——わずかに伏せた。
「ない」と言った直後だ。見間違いじゃない。
「今——」
「……言わないで」
口を閉じた。今のは、怒っているというより恥ずかしがっているように見えた。
分かった、言わないよ……でも、記録はさせてもらう。否定すると立つ。動いたことを指摘すると伏せる。——傾向は見えた。
セリアの足は速い。追いつくのがやっとだ。
それでも、道が曲がる前には一度振り返る。
……置いていく気はないらしい。こういうところは好きだ。——バディとして。
昼過ぎ。街道沿いの岩場で休憩を取った。
セリアが岩に腰掛けて、水筒の水を飲んでいる。
隣に座った。朝より少しだけ距離を取って。
エルフは同じ言葉を話すし、見た目も人間に近い。だから今まで、身体の仕組みまで同じようなものだと思っていた。
でも、耳は感情に反応しているように見える。睡眠も食事も、人間とは違う。一つ気づくと、他はどうなっているのかまで気になってくる。
「あとさ」
「……まだあるの」
「セリアの脈、ちょっと確認していい? 手首だけ」
セリアの目が、こちらを向いた。水筒を持った手が止まっている。
「……なぜ」
「人間と同じか気になって。エルフって循環系が違うのかなって。……無理にとは言わないけど」
セリアが、水筒を持ったまま動かなかった。
返事のないまま、数秒。——水筒を岩の上に置いた。
それから、右手をこちらへ差し出した。
——いいらしい。
手首に指を添えた。触れた肌は、やっぱりひんやりしていた。
脈が、指先に伝わってきた。——遅い。
私の脈が二度打つ間に、一度しか返ってこない。心配になる間隔なのに、セリアの呼吸は穏やかだった。これが、この身体の正常値らしい。
「…………」
遅い脈を数えながら、顔を上げた。
赤い目とぶつかった。
セリアは、動かなかった。払いのけない。声も出さない。石のように固まって、こちらを見ている。
指先に、さっきより早く脈が返ってきた。
……あれ。測り方、間違えたか?
もう一度……さらにもう一度。確かめるうちに、間隔は安静時の半分近くまで縮まっていた。
「……い、つまで」
声が、震えていた。
セリアの声が震えるのを初めて聞いた。——それで我に返った。脈に気を取られて、いつからこうしていた?
常識が三秒遅れで追いついてきた。
手を離した。慌てて。
「ごめん。長く触りすぎた」
「……先に時間を決めなさい」
「……すみません」
声に棘がある。でも——目を伏せた横顔が、うっすら赤い。
……照れてる? いや、手首に触られたくらいで普通は照れないだろ。長く触られることには慣れてないのかもしれない。
——手首で測定可。安静時心拍は約四十。測定中に倍近くまで上昇。指がずれたか、測り方の問題(要確認)。メモ完了。
巡回を再開した。しばらくは何事もなく過ぎた。セリアは一言も喋らなかった。——でも歩調は合わせてくれていた。
これ……何か言った方がいいのか。でも、手首は許可を取ったし、長く触れたことも謝った。耳のことは聞いただけだ。
——なのに、何でこんな空気になってるんだ。
不意に、セリアが口を開いた。前を向いたまま。
「……なぜ急に」
「……何が?」
「私のことを。……昨日から、ずっと」
いつもの静かな声。でも、朝みたいな棘はなかった。
……正直に答えた。
「キリヤさんの依頼で魔物の観察を始めたら、なんかスイッチが入っちゃった。一度観察モードに入ると、目の前のもの全部気になるみたい。……セリアがたまたま一番近くにいたのもそうだけど、私エルフのこと全然知らないなって」
「……たまたま」
「うん」
セリアが、少しだけ歩調を落とした。
何か言いかけた気がした。——でも、言わなかった。
午後。魔物は出ないまま、巡回だけが進んだ。
夕方に差し掛かって、森の中の光が弱くなってきた頃。セリアが木の根元で立ち止まって周囲を警戒していた。暗がりの中で赤い瞳が光っている。——猫の目みたいだ。瞳孔の開き方か、それとも網膜の奥で光を返しているのか。
……気になる。
見えてしまったものは仕方ない。
「セリア」
セリアがこちらを見た。返事の代わりに、赤い目がわずかに細くなる。また何か始まると警戒している顔だ。
「暗いところで瞳孔ってどう変わる? ちょっと見せて」
「……あなた、懲りないの」
それでも、セリアは顔をこちらへ向けた。暗がりで瞳孔を見るには、近づくしかない。
一歩近づいた。セリアは半歩引きかけて、足を止めた。
……逃げないなら、いいのか。
見上げる形になった。……高い。頭一つ分は違う。
セリアは唇を固く結んでいた。赤い目が、落ち着かないように揺れる。
「……早く」
——よし。今度は先に条件を言う。手首の時の反省だ。
「少しかがんで。目の高さを合わせたい。三十秒だけ」
「……長い」
長い? 数百年生きるエルフにとって、三十秒なんて誤差だろ。
——秒数じゃなくて、距離の問題か。
セリアの赤い目が、一度だけ私から逸れた。
一拍遅れて、ほんの少しだけ身を屈める。
赤い目が、こちらの目線まで下りてきた。
——近い。
肌も鮮明に見える。白い、というより、色が薄い。頬の奥にある血の色まで、肌越しに淡く透けて見える。
人間の肌では、こんな透明感は出ない。
目が合った。赤い瞳の中に、自分の顔が映っている。暗さに慣れて開いていた瞳孔が、目が合った瞬間、もう一段だけ大きくなった。
赤いガラス玉みたいに、奥まで澄んでいる。もう少しよく見ようと、顔を寄せた。虹彩の中に金の粒が浮いていた。人間の虹彩よりも粒が大きく、光を細かな面で返している。——形は同じでも、まるで別物だ。
粒を追って、さらに覗き込む。睫毛が長い。こんな近くで見ると——色まで、髪と同じ金だ。光を受けて、影が頬に落ちている。
セリアの唇が、薄く開いていた。喉が小さく動いた。
「……瞳孔、やっぱり人間より反応速度が速い。開き方も大きいな。虹彩の金の粒、光の角度で——」
——首元が、熱くなった。
脳の奥に、声が響く。
『——魔法協会からのお知らせ。秋季研修会の参加受付を開始いたします。ご希望の方は最寄りの支部までお越しください。なお、定員に達し次第締め切りとさせていただきます——』
魔導通信石。全体通知。
最悪のタイミングで。
「なんで今——!? いや待って、いいところだったのに——」
集中が完全に切れた。身を引いた。
……三十秒。とっくに過ぎていた気がする。先に時間を決めたのに、数えるのを忘れた。意味がない。
「まだ途中だった。三十秒じゃ足りない。もう少し——」
セリアが一歩引いた。まるで金縛りが解けたように、大きく息を吸い込んだ。肩が上下している。
赤い瞳が揺れていた。
「……もういい」
声が掠れていた。
セリアが踵を返した。足音が速い。——怒らせた。いや、怒らせたのか? さっきまで逃げもしなかったのに。
まぁ……人間嫌いのセリアに、あそこまで距離を詰めたら、そりゃ嫌にもなる、か。
追いかけた。背中が遠い。
「……セリア、待って」
「…………」
返事がない。歩幅が広い。——でも足音は静かだ。朝とは違う。耳は、伏せたままだった。
この耳の角度が何を示すのか、まだデータが足りない。でも今追加の観察を申し出たら、本当に斬られる気がする。
二十分ほど、会話がなかった。
……気まずい。何か別の話をしたい。
メモを頭の中で整理する。体温、睡眠、食事、心拍、耳、瞳孔。——駄目だ。全部、身体の話だ。
身体のことで変な空気になったんだ。性格の話なら、さすがに許されるだろうか。
「……あのさ」
「……何」
「エルフって、執念深いの?」
セリアの足が、わずかに止まった。
「エルフは長寿な分、執念深いって聞いたから。実際どうなのかなって」
「……人間が、諦めるのが早いだけ」
短い。いつもの声。
——執念深いことについて否定はしないんだ。そうかそうか。
それきり、また会話が途切れた。
さらに十分ほど歩いたところで、セリアが口を開いた。前を向いたまま。
「……明日は、もう少し距離を取りなさい」
声に棘がなかった。
「距離を取りなさい」。……うん、反省しよう。やっぱり至近距離は嫌だったんだな。次回はもう少し段階を踏もう。
心の中で、今日のデータをまとめた。
——エルフ観察メモ、二日目。
体温:ひんやりする。キリヤも同じだった。
睡眠:少しで動ける。隈も出ない。
食事:水だけで一日動ける。
心拍:普段はゆっくり(40回/分くらい)。測っているうちに倍近くまで跳ね上がった(測り方の問題か? 要再測定)。
耳:感情で動く? 本人は否定。否定すると立つ。動いたことを指摘すると伏せる。
瞳孔:暗いところで大きく開く。虹彩に金色の粒。
性格:執念深さは否定しなかった。
課題:協力条件が不明。文句は多いが、成功率は高い。
結論:明日は距離を守って観察する。
項目は増えた。でも、これでセリアのことを知ったと言えるかというと、たぶん違う。
次は身体の仕組みじゃなくて、セリアが何を考えているのかを、もう少し知りたい。
……本人に言ったら、また「私は実験体じゃない」と言われそうだけど。




