保留
——今日、ずっとこうだ。
今日の依頼は、近郊の集落へ向かう荷馬車の護衛。道中に出たのも、小型の魔物が数匹だけだった。
セリアが横を歩いている。いつもなら少し先を行くのに、今日は肩を並べたままだ。
依頼中も、刃を振るう合間に、何度か目が合った。
休憩に入るたび、「疲れてないか」と聞かれた。三度も。
……前までなら、体力を舐められてると思って終わりだった。
あと、休憩のたびに私の水筒が無言で往復した。……もう、何も言わないことにした。
一昨日の水筒の件からだ。「キスした仲でしょ」に、私が「そっちが勝手にした」と返してから、何か言いたげな視線だけが増えた。
西日が長い。
石畳の上に、影が二つ並んで伸びている。
依頼帰りの街道には私たちしかいない。風の音だけが続いていた。
ふいに、セリアの歩調が緩んだ。
私もつられて速度を落とす。二人分の足音が少しずつ間延びして、やがて同時に途切れた。
「……どうしたの」
返事はない。セリアがこちらへ向き直り、一歩だけ距離を詰めた。
肩が触れそうで、触れない。赤い目が、まっすぐ私を見ている。
セリアが身を屈めた。白金の髪が視界に流れ込み、唇がゆっくり近づいてくる。
——あ、これ、知ってる。
森の一本道。あの時と同じだ。
半歩下がればいい。顔を背けるだけでもいい。
右足に力を入れた。
動かない。
セリアの唇が、触れる寸前で止まった。視線が、私の反応を待っている。
——『普通なわけがないだろう』。
昨日の先生の声が、耳の奥で響いた。
——それでも、動かなかった。
セリアが、ほんの少しだけ近づいた。吐息が頬に触れる。
——首元が、カッと熱くなった。石が青白く光り出す。
『——魔法協会より。認定魔導士の定期届出期限についてお知らせいたします——』
「待って。協会から連絡」
セリアの動きが止まった。触れかけていた吐息が離れ、赤い目が私の首元の石に落ちる。
事務連絡が、脳内に直接流れ込んでくる。抑揚のない定型文。
——前は、セリアの瞳を覗き込んでいた時。今度は、唇が触れる寸前。
こいつ、セリアとの距離を検知してないか。
「……認定魔導士の、定期届出だって。セリア?」
「……」
「……怒ってる?」
「……あなたにじゃない」
石に怒ってるのか。気持ちは分かる。
セリアが先に歩き出した。さっきまで隣にいたのに、その背中が妙に遠い。
私のせいじゃないと分かっていても、このまま黙って追う気にはなれなかった。
「……今のって」
背中に、ぶつけた。
「私のことが好きってこと?」
セリアは振り返らない。
「……あなたの寿命は短い。……伝える前に、いなくなるのは嫌」
——伝える前に、って。
伝える、何を。……訊くまでもないか。
セリアは、否定しなかった。
……それ、ほぼ告白では。
「……この前は、体が勝手に動いた。今日は、違う」
「……いや、あの」
その先が、出てこなかった。喉のあたりで、全部つかえた。
通知はまだ続いている。届出期限は今月末。届出に必要な書類は、認定証、直近三ヶ月の活動報告書、冒険者ギルドでの所属バディがいる場合はバディ登録証——
……バディ登録証って何だ。見たことない。そもそも、もらったっけ。
「……なんか、認定魔導士の定期届出に、バディ登録証がいるらしくて。……あれって、ギルドでもらうんだっけ?」
「……」
返事がない。
——話を逸らしたのは、ばれてる。
沈黙の中で、昨日先送りにしたことが、また浮かんだ。
前を行くセリアの背中を追っている。薄い金の髪が、夕日に透けている。
セリアは、伝える前にいなくなるのは嫌だと言った。
なら、私も、伝えておかなければならないことがある。
奥歯を、一度噛んだ。
「セリア」
声が、自分で思っていたより低かった。
「……何」
背中を向けたまま、セリアが応じた。
「……前に、別の世界から来たって話、したよね」
「……ええ」
「あの時、言わなかったことがある」
返事はない。ただ、セリアの耳は、こちらへ向いたままだった。
「——元の世界に、帰る方法もあるかもしれないってソロンが」
セリアの足取りが、一拍だけ乱れた。
背中は、こちらに向けたままだ。
「……帰りたいの?」
「……」
すぐには、答えられなかった。
ソロンには、もう帰りたいと言わなくなったと指摘された。
姉の子どもを可愛がって、ほどほどにセリアと働いて……ミルシェたちと談笑して、ソロンのもとへ行っては小言を言われる。セリアがお兄さんを見つけるまでを見届ける。
そんな日々を、この先も続けていくことを、いつの間にか頭で思い描いていた。
少し遅れて、声を絞り出した。
「……うん」
一度言ってしまうと、あとは止まらなかった。
「『次元転移魔法の魔導書』が、虚ろの迷宮にあるって。解読できれば、元の世界に帰れるかもしれないって。私が冒険者をやってるのは、最初から、そのためだった。帰るため」
街道を風が抜けた。
——ここから先が、本題だ。
先生は、セリアとの同行が決まるまで推薦を書かない。
——『帰る』ための道に、さっき唇を寄せてきた相手を連れていく。
——「伝える前に、いなくなるのは嫌」。そう言われた直後に。
……考えるな。考えたら、言えなくなる。
手のひらが汗ばんでいる。ポケットの中のアルミ玉が、指の間で滑った。
「……一緒に、来てほしい」
言ってしまった。
「……あなたを、帰すために?」
「……うん」
二人分の足音だけが、街道に続いた。
五歩。六歩。七歩。沈黙が、歩数の分だけ重くなっていく。
八歩目で、自分の足音だけが、大きく聞こえた。
セリアの指が、剣の柄をゆっくりなぞった。
「……考える」
考える、か。断られたわけじゃない。保留だ。それでも、セリアの背中が、さっきより遠い。
もう一度頼む言葉は、出てこなかった。
代わりに、焚き火の前で聞いた「兄を探している」という言葉が浮かんだ。
冒険者なら各地を回れる。誰かを探すなら、これ以上の立場はない。——あの夜、そこまでは納得した。
納得できなかったのは、その先だ。
「少なくとも、Sランクになるまでは続ける」。なんでSランクなのかと聞いて、返ってきたのは沈黙だった。
探すだけなら、Aで足りる。今のセリアなら、入れない場所の方が少ない。
それでもSランクと言い切った理由を、私はまだ聞いていない。
「……セリアは」
その背中に、声をかける。
「Sランクにこだわるのって、……お兄さんのため?」
セリアの足が、止まった。
振り返らない。立ち止まっただけだ。夕日が、背中の輪郭を赤く縁取っている。薄い金の髪の先が、光を含んで揺れていた。
私も立ち止まった。
「……ええ」
否定も、はぐらかしも、来なかった。
「……会えたら、どうするの」
訊いてから、踏み込みすぎたと思った。
セリアは、すぐには答えなかった。
「……止める」
——止める、か。
兄に向ける言葉としては、重い気がする。何を止めるんだ。
「兄が……取り返しのつかないことを、したから」
セリアが、また歩き出す。私もついていった。
数歩進んだところで、その背中が、もう一度止まった。
「……あなたの、力」
「……?」
「…………いい。なんでもない」
セリアの足が、先に動いた。私も追った。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
風が吹くたび、道の片側に並ぶ木々の影が揺れた。
「……兄のこと、あなたにしか、話していない」
セリアが、前を向いたまま呟いた。
「……私にしか、って」
「……話してもいいと思った」
それだけでは、理由になっていない。
それ以上は出てこないみたいだったから、黙って歩いた。
二人分の足音が、しばらく夕暮れの街道に続いた。
「……ルミナリエルフ。赤き不変花。名乗れば、みんな、一歩下がる」
セリアが、前を向いたまま続けた。
「……崇めるか、怖がるか。どちらでも、離れる距離は同じ」
血統の話はソロンから聞いていた。
……エルフだから偉い、純血だから偉い。その感覚が、私にはよく分からない。
「……あなたは、下がらなかった。私が、何を言っても」
……無能とか雑草とか言われた記憶しかないんだが。
「あれはセリアが煽ってきたからでしょ」
「……勝てるはずがないのに、決闘を挑んできた」
……いや、あの時は勝てると思ってたんだけど。今思えば、完全に無謀だ。
「……諦めが、悪い」
……褒められてるのか、これ。
「……挑んできた人間は、あなたが初めて」
セリアの歩幅が、少しだけ狭くなった。
「……みんな、私から何かを欲しがる。血か、腕か、容姿か」
セリアが、ほんの少しだけこちらへ顔を向けた。
「……あなたが欲しがったのは、私に勝つことだけ」
……ノートの見出しが『対バカエルフ戦略』だったことは、隠し通さなければならない。
「……どの魔法を使っても、蟲ばかり」
いや、それここで並べないでよ。
「……あなただけ、隣にいた」
……その隣から、いなくなろうとしている。しかも、その腕を借りて。
風が吹いた。セリアが髪を押さえ、一房だけ耳にかける。普段の仕草なのに、指の白さだけが目に残った。
何か返したかった。でも、「帰る」と口にしたばかりの喉からは、何も出てこなかった。
王都の門が、遠くに見えてきた。
夕日が最後の赤を空に残している。門の向こうから、荷車の音と、犬の声と、誰かの笑い声が聞こえてくる。ありふれた夕暮れの音。
ふと気づくと、セリアが半歩後ろを歩いていた。
影が二つ、石畳の上を伸びている。
私の影の方が、少しだけ前にあった。
振り返ろうとして、やめた。
門をくぐる時、セリアが隣に戻った。
「……バディ登録証は、ギルドでもらえる」
「今答えるんだ」
「……二人分の署名がいる。明日、一緒に」
……迷宮の返事より先に、そっちが決まった。
門の中の灯りが、石畳に伸びた二人の影を呑み込んだ。
半歩後ろの気配だけが、まだ背中に残っていた。




