異世界でも週報からは逃げられない
夜、魔導通信石が光った。
蒼白い光。脈を打つように明滅している。——着信だ。
……嘘だろ。「今夜くらいは黙っていてくれ」と願ったのは、ほんの数時間前だ。
カメラも盗聴もついていないと、ソロンは断言していた。なら、この絶妙な間の悪さは何なんだ。
ベッドの上で寝転がっていた体を起こした。宿の窓から差し込む月明かりの中で、石を手に取る。
「やあ、ユズリハ君。夜分にすまない」
キリヤの声。穏やかで、人当たりがよくて、——底が見えない声。
「少し、話したいことがある。明日の午前、僕の執務室に来てくれるかな。——待っているよ」
——用件は、言わなかった。
上司の「少し話したいことがある」ほど、心臓に悪い前振りはない。前職の経験則だと、この台詞の後に来るのは、大抵燃えている案件だった。
魔法協会の副支部長が、わざわざ夜に、一個人を名指しで呼ぶ。「話したいこと」が世間話のはずがない。
——魔法協会の、依頼か?
認定魔導士の身としては、断れない類の。……正直、気は進まない。前の任務が、楽しい思い出ばかりってわけでもなかったからな。
光が消えた。石を握ったまま、天井を見上げた。
明日の午後はセリアと次の依頼の打ち合わせがあるが、午前なら空いている。
——前日の夜に呼びつけておいて、日時もあっちが指定。こっちの都合は、まるっと無視かよ。理不尽すぎる。たまたま空いてたからよかったものの。
異世界に労基はないのか。ないんだろうな。魔法協会、絶対に労基がない。
月明かりが天井で揺れている。目を閉じても、あの声が、耳の奥に残っていた。
翌日の午前。
魔法協会の建物は相変わらず威圧的だった。石造りの門をくぐって、受付で名前を告げると、三階の執務室に通された。
扉を開けた。
——広い。窓から午前の光が入っている。壁際に魔導書の棚。中央に応接用のテーブル。棚の本は全て背表紙が揃えてある。ソロンの家とは真逆だ。
「座って。茶を淹れよう」
キリヤが棚の奥から茶器を出した。手慣れている。——客を迎え慣れている人間の所作だ。
湯を注ぐ。茶葉が開く匂いがした。出された湯呑みに口をつける。——普通に美味い。美味いのに、味わう余裕がない。この人の前にいると、面接を受けているような気分になる。
「さて」
キリヤが向かいに座った。茶を一口。それからテーブルに湯呑みを置いて、こちらを見た。
「まず——Bランク昇格、おめでとう。ユズリハ君」
「……どうも。キリヤさんの推薦の、おかげですけど」
「セリアンディエル殿とバディを組んだそうだね。——どう、手応えは」
……ギルドと協会は協力関係だ。バディ登録くらい、向こうの耳に入っていてもおかしくない。
——理屈は、分かる。でも、組んだばかりの動きまで筒抜けなのは、背中に目があるみたいで、落ち着かない。
「……組んだばかりですけど。なんとか、やれてます」
「あの方と組めるなら、心配はいらないか」
穏やかに笑う。
キリヤが湯呑みを置いた。前置きは終わり、という間だった。
「先日、ダンジョンで魔物を——討伐せずに、持ち帰ったそうだね」
——鹿の話だ。
「……なんでそれを」
「角と赤い目の鹿を抱えて王都を歩けば、さすがに目立つよ。『蟲使いが鹿を攫っていった』という報告が、僕のところに三件届いている」
攫うってなんだよその言いかた。『蟲使い』が『鹿』を攫うとか、字面的におかしいだろうが。
「攫ってません。保護です」
「知っているよ。だから、君に訊きたい」
キリヤが指を組んだ。
「トール君にしたことと、同じことを?」
「……はい」
「なぜ、殺さなかった」
——なぜ。
その問いなら、昨日、答えたばかりだ。
あの時、喉の奥からやっと出てきた言葉は、まだそこに残っていた。
「……あの鹿の殺意は、後から刻まれたものでした。生まれつきじゃない。後から押しつけられて、苦しめてるだけのものなら——外したかった。それだけです」
キリヤは、黙って聞いていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「『後から刻まれたもの』——やはり、君には生まれつきの魔物と、後から作り変えられたものの違いが見えているんだね」
「……はい、なんとなく構造的に分かります」
「断片的に術式が見える者なら、報告例はある。特殊な魔導具を介して、術式の一部が光って見える——その程度だ」
——特殊な魔導具。……私の場合はアルミ玉だが、前例はあったのか。
「でも、その違いを見分けられる人間は、僕の知る限り前例がない。——君の目は、見えすぎている」
語る声は、講義のように平坦だった。なのに、紫水晶の瞳だけが、一段深い色をしていた。
「……自分でも、仕組みはよく分かってないんです。見えるものを、見えるまま言ってるだけで」
——嘘じゃない。ただ、いちばん肝心な一点——ポケットの中の玉のことだけは、言葉から外した。
キリヤを敵だと思っているわけじゃない。任務でも世話になった。でも、これだけは渡せない。
この人の質問は、丁寧に外堀から埋めてくる。どこまでが世間話で、どこからが検分なのか、境目が見えない。何を知りたいのか。どこへ誘導されているのか。一つ答えるたび、次の一手を読み直す。……面接だと思っていた。違う。観察されている。
湯呑みに添えた指が、湿っていた。
「…………」
キリヤが湯呑みに目を落とした。
長い沈黙だった。湯呑みの湯気が、細くなるくらいの。
そして、低く。半分、独り言のように。
「後から刻まれたものを、外せる。……理屈の上では、魔の始祖が相手でも——同じことだ。無力化、できるはずなんだ」
げ……。
似たようなことは、前にも言われた。魔の始祖に対抗できる戦力になる、と。
でも、あの時より近い。私が殺意を外したという事実が、今度は魔の始祖の名前に直接繋げられた。
それだけで、背中の奥が冷えた。
「……これなら、間に合うのかもしれないな」
さっきまでの、営業の声じゃなかった。
「……え?」
——間に合う?
キリヤは顔を上げて、もう、いつもの笑みに戻っていた。
「——いや。独り言だよ。この話は、まだ早い」
——はぐらかされた。穏やかな笑顔で、するりと。
……この人は、いつか私を、そこに届く駒として数えるつもりなのか?
あり得る、と思ってしまった。
あの任務で、この人は魔族化の可能性を読んでいながら、私たちには伏せていた。焚き火の何気ない質問ひとつで、覚悟を測っていた。村を守れる結界すら、犯人を泳がせるために、あえて張らずにいた。
——目的のためなら、必要なことを隠す。しかも、その線引きが、こっちからは読めない。
冗談じゃない。こっちは、帰る方法を探すだけで手一杯なんだ。ラスボスと戦うのは勇者の仕事だろ。求人なら、他を当たってほしい。
「さて。——ここからは、副支部長としての話だ」
声のトーンが、変わった。
「最近、魔物の出現に異常がある。本来いないはずの地域での目撃。通常種とは違う行動パターン。——ここ三ヶ月で、ギルドの報告が目に見えて増えた」
「…………」
——心当たりがある。
この前のダンジョンの依頼票にも、『三ヶ月で倍増』とあった。私はそこで、あの鹿を見つけている。
「討伐された魔物が、生まれつきなのか、後から変えられたのか。それを見分けられる人間は——君しかいない。君にしか頼めないことがある」
来た。
湯呑みを持つ手に、力が入った。——断れない任務が、また来る。
「——今まで通り、ギルドの依頼を続けてくれていい。その中で不自然な魔物を見つけたら、報告してほしい。場所、状態——分かる範囲でいい」
「…………それだけ、ですか」
「それだけだよ」
……身構えていた分、拍子抜けした。
「……何のために?」
「後付けで魔物にされた個体が増えているなら、それは——魔の始祖が動き出している、足跡だ」
——また、その名前かよ。
鹿一匹の後始末のつもりが、いつのまにか、この世界の一番奥にいる『何か』にまで話が伸びている。……勘弁してほしい。
「当面、協会から君に任務を出すつもりはない。ギルドの依頼に集中してほしい」
「……はい?」
思わず、変な声が出た。
——任務が、来ない。あの断れない、胃の痛い、魔族がらみの任務が。来ない。
脳内でクラッカーが鳴った。紙吹雪が舞い、拍手が鳴り止まない。
——歓喜!
「やっ——」
「や?」
「……やむを、得ませんね。決まりでしたら、仕方ありません」
出かかった万歳を、喉の奥でねじ伏せた。危ない。
「……随分、嬉しそうだね」
「気のせいです」
真顔を作り直す。
「協会が直接動けば、相手にこちらの関心を知らせることになる。君は今まで通り、依頼を受けるだけでいい。——それに」
キリヤが茶を一口飲んだ。
「セリアンディエル殿と組んでいる限り、君の力は自然と伸びる。彼女との実戦に勝る訓練はないからね。協会の任務で君の時間を潰すのは、惜しい」
……さっきの脳内パレードを、そっと解散させた。
力を伸ばせ、と言われている。——魔の始祖と対峙させるために。
「報告は、副支部長への定期報告という形でいい。——協会のために動いてもらうんだ。もちろん、相応の報酬は出す」
——用意がいい。定期報告という建前に、報酬という餌まで、もう出来上がっている。最初から、これを頼むつもりで呼び出したんだ。やることは『見つけたら報告するだけ』。
「……分かりました」
——結局、異世界まで来て、週報からは逃げられなかった。
世界が違っても、報告書は死なない。
「ありがとう。——今日はここまでにしよう」
立ち上がった。湯呑みを置いて、扉に手をかける。
「ユズリハ君」
振り返った。キリヤが席に座ったまま、こちらを見ていた。
「その力——大事にしてくれ」
静かな声だった。
紫の瞳が、まっすぐこちらを向いていた。
答えないまま、扉を閉めた。
協会を出た。空は少し傾き始めていた。
外気に触れて、詰めていた息をやっと吐いた。あの部屋を出るまで、肩がずっと強張っていたらしい。
しばらく歩いて、ギルドに入った。
掲示板の前にセリアがいた。こちらを見た。
「……遅い」
——待ってたのか。そういうところだけは律儀だ。
「ごめん。キリヤさんに呼ばれて、話してきた」
セリアの手が止まった。
掲示板に伸ばしかけていた指が、下りる。こちらを向いた。
「依頼?」
「協会の任務っていうより……生まれつきじゃなくて、後から手を加えられた魔物を報告しろって」
「……それだけ?」
「それだけ。協会の任務は当分ないってさ」
セリアの目が、細くなった。長い間、私を見ていた。
——魔の始祖の名前は、出さなかった。言ったところで、気が滅入るだけだ。
「……キリヤさんとは、知り合いなんでしょ? どんな関係?」
セリアが前を向いた。掲示板の依頼書を見ている——振りをしている。焦点が合っていない。
長い一拍。
「……望んで関わった相手じゃない」
掲示板の一点から、目を動かさない。
「あの人の親切には、値札がついてる」
それだけ言って、体が掲示板に向き直る。話は終わり。
——望んで関わった相手じゃない、か。
穏やかじゃない言い方だ。でも、それ以上は、何も言わない。
——値札。
Bランク昇格。丁寧な分析。報酬の約束。——どれも親切の顔をして、私の逃げ道を、一つずつ塞いでいた。
差し出された親切の分だけ、断る自由を持っていかれる。……セリアの言葉の意味が、分かる気がした。
「……うん」
それ以上は言えなかった。「気をつける」とも「大丈夫」とも。——どっちも嘘になる気がした。
それから明日の依頼をひとつ選んだ。気づけば、日が傾いていた。
ギルドを出た。
夕暮れの道を、二人で歩いた。足音が、少しだけ硬い。
キリヤの「まだ早い」と、この人の「値札がついてる」が、頭の中で交差している。
空が暗くなっていく。
誰も、肝心なところまでは言わない。——私も含めて。
私は魔法協会を利用して、その代わりに、ハッキングの能力を利用される。それはいい。
ただ——キリヤに、協会に、魔の始祖の影に。散々振り回された挙げ句、帰り道まで見失うのだけは、ごめんだ。
勝手に魔の始祖を帰宅ルートの経由地に入れないでほしい。
隣に、セリアがいる。この人は、私に何も要求してこない。ただ、隣を歩いている。
それだけで、少しだけ息がしやすかった。
——けれど、この静けさが、いつまで続くのかは、分からなかった。




