事後報告
木戸を押した。
庭先にソロンがいた。縁側に腰を下ろし、さっきまで使っていた茶器を盆にまとめている。鹿が足元に寝そべっていた。
足音に気づいたソロンが、顔を上げた。
「忘れ物か」
「いえ」
「……菓子なら、気が早いぞ」
「持ってきてません。——ちょっと、話があって」
ソロンが私を見た。一拍。
盆を脇へ寄せた。
「座れ」
縁側に座った。隣に間が一つ分。いつもの距離。
鹿が起き上がって、私の膝に頭を押し付けてきた。角の先が脚に食い込む。地味に痛い。けど、今はそれくらいがありがたかった。
庭に夕日が差している。薬草の鉢が長い影を引いている。ソロンの横顔は逆光で、表情が読めない。
……切り出せ。ここまで来て黙ってたら、ただの二度手間だ。
——なのに、喉が動かない。
膝の鹿を見下ろした。私が殺意を抜いて、この人が引き取った魔物。角も赤い目も残ったまま、それでも、こうして庭先で寝そべっている。
でも、これから話すのは鹿のことじゃない。助けた相手のこと。助けられなかった相手のこと。
私が何をしたかは、ソロンには隠せない。黙ったまま「任せられる」を受け取るのは、ずるいから。
知らないうちに、鹿の毛を握っていた。
「先生」
「何だ」
「もう一つ、事後報告が、あるんです」
ソロンが茶を啜った。眉間に、わずかに皺が寄る。
「……言ってみろ」
手のひらが湿っている。鹿の頭を撫でた。毛が硬い。
「……魔族を、一人、助けました」
間。
ソロンの手が止まった。湯呑みを持ったまま。
風が庭の薬草を揺らした。鹿が耳を動かした。それ以外、何も動かなかった。
「先生が教えてくれた術式の読み方。五日間の訓練。——あれを最初に使った相手が、その魔族でした」
ソロンは何も言わない。湯呑みを膝の上に置いた。
「あの子の中で、ずっと空を掴み続けてる仕組みがあったんです。『殺せ』を呼ぼうとして——でも、中身が最初から空っぽで。だから、掴めないまま空回りしてた」
「……殺意がない魔族、ということか」
「はい。生まれた時から。人を殺したい子じゃありませんでした。軽く見えるし、距離は近いし、何でも冗談みたいに言う。でも、困ってる相手を見つけると、放っておけない。自分に冷たかった奴のことも、平気で助ける。……すごく、いい子なんです」
ソロンが顎を引いた。聞いている。
鹿の背中に手を置いたまま、続けた。
「空回りしてたところを、閉じただけです。あの子そのものには、触ってない。やったことは、小さい」
先生の教えの、最初の使い道がそれだった。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「……すみません」
風が止んだ。
ソロンは湯呑みを持ち上げて、一口。また置いた。
「お主のやり方で答えを出せと言ったのは、わたしだ」
責めるでも、許すでもない声だった。
「もう一つ、あります」
ソロンの視線がこちらに来た。
「……聞こう」
鹿の頭から手を離し、膝の上で握った。指が冷たい。
「先生の教えで、仲間を殺した相手を、生かしました」
ソロンが、ゆっくりとこちらを向いた。
「魔法協会のアスタル村の任務で——人間の少年が、魔族にされていました」
喉が締まる。それでも、もう言葉は止まらなかった。
「殺意が上書きで刻まれていました。暴走して、人を襲っていた。……その子が、私の仲間を殺しました」
「…………」
ユーゴの顔が浮かんだ。
認定試験に受かった日の顔。トールに駆け寄った背中。——殺さないで、というあの声。
目の奥が熱い。飲み込んだ。
「でも、殺せませんでした。仲間が——その少年を殺さないでって、最後に言ったから」
ソロンの呼吸が変わった。
鹿が顔を上げた。膝から降りて、庭の隅に歩いていった。
二人だけになった。
「その時は、仲間の言葉に縋っただけでした。自分のしたことが正しかったのか、いまだに飲み込めていません。でも……私は魔族を、人間に都合よく作り替えたいわけじゃないです。ただ、後から押しつけられて、本人を苦しめているだけのものなら——外したかったんです」
ミルシェの中で空回りしていたもの。鹿の体に、雑に縫いつけられていた赤い脈。
トールの奥で、一瞬だけ戻った声。
どれも、本人そのものには見えなかった。
抜けるなら、抜きたかった。
ソロンは何も言わなかった。
湯呑みを置いた。かちん、と鳴った。
——あの音。さっきセリアの前で「任せられる」と言った時と同じ音。でも意味が違う。さっきは手が震えていた。今は——置く力が強すぎた。
「先生」
声が出た。ずっと言えなかったこと。
「先生なら——どうしましたか」
アスタル村から戻ってから、ずっと胸の底に沈んでいた問いだった。あの時は、誰にも訊けなかった。今——ここで、口から出た。
ソロンの横顔を見た。
逆光の中、目だけが光っていた。長い歳月が刻んだ何かが、あの目の奥にある。
「…………」
沈黙が、長かった。
薬草の影が伸びている。夕日が庭の奥に沈みかけている。
ソロンが顔を上げた。空を見ている。私を見ていない。
「……わたしなら、などと訊くな」
呟くような声だった。
突き放す響きではなかった。
魔族は討つもの。先生はそうした。当たり前のことだ。——それでも、妻も、弟子も、戻らなかった。
魔族に大事な人を奪われる痛みを、この人は知っている。だから訊いた。訊いてしまった。
でも、同じ痛みでも、同じ答えになるとは限らない。
「わたしの答えを借りるな。お主の手で、決めよ」
低い声だった。
正しいとも、間違いとも、言わない。ただ、私に返す声だった。
ソロンが立ち上がった。
台所に消えた。
しばらくして戻ってきた。手に湯呑みが二つ。新しい茶。
一つを私の前に置いた。何も言わずに。
自分の分に口をつけた。
——この人は、いつもこうだ。言葉の代わりに、茶を出す。叱る時も、認める時も、何も言えない時も。
「……事後報告が多すぎるぞ」
溜息混じりにソロンは言った。
——さっきバディのことを報告した時と同じ返し。でも声が違う。怒っていない。責めてもいない。
「すみません」
「……馬鹿弟子が」
いつもの言葉。
でも——声が、掠れていた。
それ以上は何も言わなかった。私も言わなかった。
茶を飲んだ。熱かった。舌の裏が痺れた。夕日が沈んでいく。影が伸びていく。庭の隅で鹿がまた寝そべっている。
何かが、一つ、降りた気がする。全部じゃない。でも。
帰り際。
木戸に手をかけた。
……ふと、首元の通信石に指が触れた。ずっと気になっていたことがある。
「……あ、そういえばこの石、カメラとか盗聴とか、ついてたりします?」
「そんな技術はない。だいたい、お主の言う『かめら』が何かを、わたしは知らん」
「知らないのに『ない』って断言できるの、逆にすごくないですか」
「知らんものが、付いているわけがなかろう」
「その自信はどこから……」
「疑心暗鬼になりすぎだ。それはただ声を届けるだけの石にすぎん」
「……ですよね」
首元の石を、指で軽く弾いた。社畜の首輪は、結局ただの社畜の首輪だった。
風呂のたびにこの石を握り込んで、妙な姿勢で体を洗っていた。あれから解放されるだけで、だいぶ嬉しい。
「……一つ、言っておくぞ」
ソロンが手を止めた。鹿の頭に手を置いたまま、視線は庭の奥に向けている。
「エルフというのは、長寿な分、執念深い」
「……はい?」
なんだ唐突に。
「——いや、執念深いなどと、上品に言ってやる義理もないな。要するに、しつこいんだ。粘着質で、往生際が悪い!」
ソロンのこめかみに、うっすら血管が浮いていた。
経験談だ。これは完全に経験談だ。
「何百年も前の恨みを、昨日のことのように蒸し返す。貸した本は百年経っても返さんくせに、こちらの失言は半世紀越しに一字一句あげつらう。一度こじれれば、こちらが詫び倒したところで、許すまでがまた数十年だ。それでいて——自分の非だけは、きれいさっぱり、忘れている」
ソロンの目が、今度ははっきり血走っていた。
めっちゃ怒ってるじゃん。
「——その執念が、極まればどうなると思う。魔の始祖を見てみろ。人間への恨み、たったそれ一つで、生命の理まで書き換えおった。おかげで世界は、未だに魔物だらけだ。エルフの執念というのは、世界に仇なす規模まで膨れ上がる」
「……それ半分くらい私怨が混じってますよね。エルフに、何されたんです」
「…………」
否定が、ない。——本当に、何かあったらしい。墓場まで持っていきそうな恨みが、先生の側にも。これ以上は、聞かないでおこう。
……いや、待て。心当たりなら、こっちにもある。
前に、私が何気なく流した恋愛話——『誰が誰と一緒にいようが、本人が幸せならそれでいい』——を、後日、一言一句違わずに引用されたことがある。あの時は「エルフって記憶力いいのか」で流したけど。
——そういうことか。種族仕様だったのか。
「あの方も、例外なくエルフだ」
ソロンの声が、少し真面目に戻った。
「一度こうと決めたら、諦めんだろう。良くも悪くも、な」
「……」
「——エルフとバディを組むというのは、そういうことだ」
——すぐには、何も言えなかった。
守られる、とも、縛られる、とも、両方の含みが声にあった。
ソロンは視線を鹿に戻した。それきり、口を開かなかった。
帰る時に振り返った。
ソロンが庭に立っていた。鹿が寄ってきている。追い払うかと思ったら——黙って、頭を撫でていた。
角の根元を、ゆっくりと。
何も言わず、坂を下りた。
王都の灯りが、下の方に広がっている。さっきセリアと見た景色と同じ。でも隣に誰もいない。
足音が、一人分だけ、石畳に落ちている。
——重かった。でも、話せた。
足が、少しだけ前に出る。
それでも、セリアに言えていないことは、まだ残っている。
……せめて今夜くらいは、この首輪が、黙っていてくれればいい。




