師匠の目利き
セリアと正式にバディを組んで、ひと月余り。
依頼続きで、報告がすっかり遅くなった。Aランク帯を二人で回すのにも、だいぶ慣れてきた。今日はその区切りに、ソロンへ顔を出す。
茶でも飲んで、鹿の様子を見て、バディ組みましたと報告して帰る。
そのくらいの気楽さだった。——私だけは。
朝から隣のセリアの足取りが、やたら硬い。顎を引いて、前だけ睨んでいる。視線で石畳を割れそうだ。
魔物の群れを前にしても眉一つ動かさない女が、私の師匠に挨拶するだけで、果たし合いにでも向かうような顔をしている。
まあ、気持ちは分かる。私だって、セリアの身内に挨拶しに行けと言われたら——たぶん、前の晩から胃が痛い。
「……私が行く必要は」
「あるって」
「……一人で行けば」
「バディの報告に、片方だけ行ってどうするの」
セリアが黙った。
足は止めない。半歩後ろを、しれっとついてくる。ただ、歩幅だけがいつもより妙に小さい。
表通りから裏路地、坂を上がって生け垣を曲がる。
この道に入ると、いつも息が楽になる。街の音が遠のいて、薬草の匂いが混じってくる。
低い石垣の一軒家。屋根の苔が、前より育ってる。庭先の薬草の鉢、その隙間を——何かでかいものが、のっそり動いた。
角。赤い目。あの鹿だ。ソロンに預けた元魔物。元気そうで何より。
木戸を開けた。
奥でソロンが顔を上げる。鉢を抱えた、土だらけのローブ姿。どこからどう見ても畑仕事帰りの世捨て人だ。
「……アオイか」
ぶっきらぼう。いつも通り。それだけで、喉の奥がゆるむ。ただいま、と言いそうになる。人の家なのに。
それから、その目が、私の隣で——止まった。一拍。
——お。あの先生が、固まった。サプライズゲストとしては大物すぎたか。
セリアが浅く会釈する。無言。でも、丁寧。
ソロンが、それに何か返そうと、口を開きかけて——
その瞬間だった。さっきの鹿が、庭の奥から全速力で突っ込んできた。
私に気づいたらしい。
「ちょ、ちょちょ近い近い近——」
顔面を舐められた。容赦というものがない。視界がまるごと、鹿の舌で塗り潰される。
おまけに角が庭木に引っかかって、ばきん。枝が折れる。折れた枝ごと首を振り回すから、鉢が傾いて、土がばらばらと——
ソロンが無言で鉢を押さえた。慣れた手つきで。
「先生、これ、迷惑かけてないですか……? 私が押し付けといて、なんですけど」
「問題児だ」
「すみません……」
「庭の薬草を、根こそぎ食った」
「すみません……」
「干した洗濯物に、角を引っかけて回る」
「本当にすみません……」
「夜中に、鳴く」
「マジですみません……って、なんで私が謝ってるんだ。私、鹿じゃないんですけど」
「お主が連れてきたんだろうがッ!!」
「すみません……引き取り先、探します」
「……いや、いい」
ソロンが、ぷいと目を逸らした。
——文句ばっかり並べるくせに、手放す気はゼロじゃないか。預けるときもあれだけ渋ったくせに。
鹿が私から鼻を離して、ぐるりと首を回した。次の獲物を物色する顔だ。
のっそりセリアに寄って、鼻先を、その手のひらに押しつける。
——氷漬けにされた上に、危うく輪切りにされかけた相手だぞ。警戒心がなさすぎる。
セリアは、振り払わなかった。撫でもしない。されるがまま、鹿に手を貸している。
鼻先で手を押されて、セリアの肩が、ほんの少し下がった。
鹿が満足して、庭の隅で草を食み始めた。
さて。本題だ。
——連れてきた時点で、先生はもう全部察してる気がするけど。一応、口に出しておく。
「先生。バディ、組みました」
ソロンが、腕を組んだ。嫌な間。
「……順序が、逆だ。馬鹿弟子」
「順序?」
「組む前に連れてこいと、言っただろうが」
「あ……すみません。完全に、事後報告です……」
「まったく」
溜息。——でも、声に棘はない。
ソロンが、セリアに向き直る。一拍置いて、
「……アオイ。セリアンディエル様は、魔族ではない」
いやそりゃ魔族じゃないだろ。
——あ。そうだった。「連れてこい」は、これのためだ。背中を預ける相手が擬態した魔族じゃないか、先生が見ておく。
……正直、すっかり忘れてた。茶でも飲んで帰るくらいの気分で来た。
でも、それは口が裂けても言えない。また説教が始まる。
私は、さも最初から分かっていた顔で、深く頷いた。
ついでに、先生向けの「ちゃんと目的は覚えてましたよ」アピールとして、わざとらしく胸を撫で下ろしてみせる。
「さすがにセリアは魔族じゃなかったかぁ、良かった〜」
隣から、視線が刺さった。
セリア、ごめん。あとで何か奢る。
ソロンが、セリアに軽く頭を下げた。
「……よく来てくださった、セリアンディエル様。むさ苦しい所ですが、茶くらいは出せます」
それから、ふと、声の調子を落とした。
「……いつぞやは、馬鹿弟子をお助けくださったとか。あなたがいなければ、この子は魔族にやられていた。礼が、遅くなりました」
——うわ、なんか、むず痒い。
ラークとミナの、あの一件のことだ。ソロン、覚えてたんだな。
セリアが、わずかに目を伏せた。
「……いえ。……たまたま、通りかかっただけです」
「それでも、です」
ソロンが、もう一度、頭を下げた。
セリアが、居心地悪そうに視線を泳がせる。
……あの氷みたいなセリアが、たじろいでる。ちょっと、貴重だ。
それから私に、顎をしゃくる。
「アオイも入れ。突っ立ってるな」
……待遇の差。
居間に通された。
壁一面、魔導書の山。埃と、乾いた紙の匂い。前に来た時と、一ミリも変わらない。
手持ち無沙汰に、棚の背表紙を眺める。『寝癖永久固定術の書』。『詠唱時間半減術式の書』。『瞬間移動の魔導書(衣服は付いてこない)』。
……来るたび思うけど、先生の蔵書、ジャンルの振れ幅がおかしい。まともな学術書の隣に、絶対ふざけて書いたやつが平然と並んでる。瞬間移動できても着いた先で全裸って、戦場のど真ん中に裸で現れる魔法使いを、いったい誰が必要とするんだ。敵も困るだろ。味方はもっと困る。
……「詠唱半減」だけは、ちょっと欲しい。
セリアがソファに腰を下ろす。私は向かいの椅子。
台所から、湯を沸かす音。先生の茶は、長い。葉を量って、湯温を測って、蒸らしまで秒で計る。そういう人だ。
——二人きりになった、その時。
「……さっき」
セリアが、ぽつりと口を開いた。いつもの淡々とした声。なのに、いつもより少しだけ、慎重だった。
「あの人が、あなたを呼んだ名前」
「アオイ? ああ、本名。こっちの言葉だと発音しづらいらしくてさ。ユズリハって、実は名字なんだよ」
「…………」
セリアは、それきり黙った。
膝の上の指先が、握るでもなく開くでもなく、一度だけ動いた。
足音。ソロンが茶を三つ、盆に載せて戻ってきた。
「セリアンディエル様」
セリアの前に、湯呑みを置く。
「……ありがとうございます」
——え。あのセリアが、両手で受け取って、かしこまって礼を言ってる。
ソロンが、セリアの正面に腰を下ろした。
二人が、ほぼ同時に茶に口をつけ、ほぼ同時に湯呑みを置く。初対面のはずなのに、妙に、息が合っている。
……沈黙。
いや、違う。これは沈黙じゃない。
ソロンがセリアを見ている。何かを確かめるみたいに、じっと。セリアは目を伏せて、動かない。言葉は、ひとつもない。
なのに——なんだ、この空気。
「あの……何か話そうよ」
無視。ソロンがもう一口、茶を飲んだ。セリアも飲んだ。
——強者二人がかりの黙殺。地味に胃に悪い。
と、ソロンが、ふと目を細めた。そして、セリアを見たまま——今度は、ちゃんと声に出した。
「……抑えておられますな」
「……分かりますか」
「隠すほどのものでも、ないでしょうに。——勿体ない」
何の話だ、これ。強者にしか分からないテレパシーか何かか。
抑えてる。——何を?
「あの……魔力の話?」
二人が、同時にこっちを見た。そして、同時に、目を逸らした。
——いや待って。二人して逸らさないで。
肯定も否定もしてくれないと、当たってるのか外してるのかも、分からないんだけど。
ソロンは答えず、窓の外を見た。庭で鹿が、のんびり草を食んでいる。
……鹿を口実に、しれっと話を流したな。この人。
ソロンの目が、ふいに、私に向いた。
「どちらから、誘った」
無視しておいて、それは聞くのか。
「……私からです」
ソロンが頷いて、また、セリアに向き直った。
「その誘いを、なぜ受けてくださった」
セリアの肩が、わずかに上がった。
「……この子の、力が要る」
「……それだけですか」
「……それだけ」
二度目の「それだけ」が、最初より小さい。
ソロンは、何も言わなかった。茶を一口含んで、セリアを見ている。長く。
その目が「それだけ」を信じていないのか、ただ眺めているだけなのか、私には読めない。
——でも、引っかかってるのかもしれない。エルフが人間を選んだことに。
ソロンが、ふっと、息を吐いた。
「悪くない」
不意に、ソロンの声が、柔らかくなった。聞いたことのない声だ。
「……任せられる」
セリアに向けて。静かに、はっきりと。
「自分で考えろ」「甘えるな」が口癖のこの人が、他人に「任せる」と言った。
「この馬鹿弟子は、放っておくと無茶をする」
「ちょっ……」
「腕は悪くない。頭も回る」
「急に褒めた」
「だが、肝心なところで自分を勘定に入れん」
「褒めてなかった」
「打てる手が残っていると見ると、引かん。守りも退き際も、すぐ後回しにする」
「ぐっ…………」
「……知り合って間もない頃、私に模擬戦を挑んできました」
「セリア、それ今言う?」
「……事実」
「馬鹿者、死んでも文句は言えんぞ」
——返す言葉が、ない。
ソロンが、盆に湯呑みを集める。
その手が、一瞬、止まった。指先が、かすかに震えて——かちん、と湯呑みが鳴った。
ソロンは何も言わず、盆を持って、台所へ消えた。
帰り際。
玄関先で、ソロンが見送りに出てきた。例の鹿も、ちゃっかりセリアの袖を鼻で押している。
セリアが、おそるおそる、角の根元に触れた。鹿が、気持ちよさそうに目を細める。
それから、もう一度。今度は、耳の後ろに。慣れない手つきだった。
「先生。また来ますね」
「来んでいい。来るなら、菓子を持ってこい」
「……はい」
——来んでいいって言いながら、しっかり条件をつけてくるじゃん。
木戸に手をかけた、その時。
「…………また、伺います」
——え。
振り返る。セリアが、ソロンに向かって、さっきより深く頭を下げていた。
来たくないって、あれだけ渋ってたのに。
ソロンは、何も言わなかった。ただ、小さく顎を引いただけ。
木戸をくぐって、坂を下りる。
隣のセリアの足取りが、来た時より軽い。
「……私を、魔族だと疑っていたの?」
「あ、いや、疑ってないって。あれは先生が、査定したくて呼んだだけで」
「なのに、わざわざ胸を撫でてみせた」
「…………」
ぐうの音も出ない。……あとで本当に、何か奢ろう。
「ソロン、どうだった」
「……悪くない人間」
「それ、セリアの中だと最大級の褒め言葉でしょ」
「…………」
否定しない。——肯定だ。
この人の「悪くない」が最上級だって、なんで私が分かるんだろう。……分かるんだよな、なぜか。
「……『任せられる』って、重いよね」
「……」
「先生があんな風に言うの、初めて聞いた。……勝手にお守り役を任されて、セリアこそいい迷惑だよね」
フィルの言葉が蘇る。エルフにとって、人間の一生はまばたきの間だ、と。
何十年もかけて選ぶ相手を、この人は、私にした。
効率がいいから。連携しやすいから。私の力が要るから。理由なら、並べられる。
でも、それで割り切るには、フィルの声が、耳に残りすぎてた。
ソロンは、私が帰りたがっていることを知っている。だから、あの「任せられる」は、たぶん永遠の話じゃない。
それでも——セリアはどうなんだろう。この人は、どれくらい先まで見て、頷いたんだろう。
「……迷惑なら、組んでいない」
短い返事。でも、いつもみたいに突き放す響きじゃなかった。
夕暮れの坂。石畳を踏む足音が、二人分。来た時と同じ道なのに、空気だけが違う。
坂の下に、王都の灯りが見え始めた。
——お主を、任せられる。
また、ソロンの声が耳の奥で鳴った。
そこで、足が止まった。
私はまだ、あの人に肝心なことを話していない。
ミルシェのこと。トールのこと。先生の教えを使って、私が何をして、何が起きたのか。
このまま坂を下りたら、また、先送りにする。
隣で、セリアが足を止めた。私を、見る。
「……先に行ってて。もう少しだけ、先生と話してくる」
セリアは、一秒だけ私を見て、何も訊かなかった。
小さく頷いて、坂を下りていく。足音が石畳に吸い込まれて、夕暮れの中に消えた。
——振り返る。坂の上に、ソロンの家。屋根の苔が、夕日に光っている。
ひとつ、息を吐いた。
足を、踏み出した。




