例外処理
ダンジョンの入り口は、岩肌に空いた穴だった。
看板一つない。入り口の上に苔がびっしり張り付いていて、知らなければただの岩の窪みにしか見えない。
依頼票を広げた。
『灰底の回廊 奥部探索
目的:魔物異常増加の原因調査
推定脅威度:A
備考:直近三ヶ月で魔物の出現数が倍増。
奥部は未踏査区域あり。四名以上の編成を推奨』
三ヶ月で倍増。原因不明。調べてこい、と。
ぶん投げかよ。雑な依頼だな。
しかも推奨は四名以上。今ここにいるのは二名で、片方は前に出られない後衛だ。普通なら、正気を疑われる編成だろう。
——でも、隣にいるのがセリアだと、その計算が崩れる。
「……ここ入ったことある?」
「何度か。五層まで」
「何層まであるの」
「分からない」
「……分かんないのかよ」
セリアが先に降りた。穴の縁に手をかけて、迷いなく暗闇に消える。私も続いた。
——地下一層。
壁面の鉱石が青白く発光していた。松明がなくても足元が見える。前にセリア含めたパーティメンバーと潜った古代遺跡は真っ暗だったのに、ダンジョンごとに仕様が違うらしい。
空気はひんやりとしていて、天井から水滴が落ちる音が一定間隔で響いている。
通路は人が二人並べるくらいの幅。セリアが前、私が後ろ。セリアと組んで、もう何度目かの依頼だ。この並びも、いつの間にか自然に決まっていた。
足元の岩が濡れていた。一歩遅れて踏んだ私が、軽く足を滑らせた。
「……滑る、これ」
「分かっている」
短い。いつものセリアだ。
でも最初の頃みたいな「話しかけるな」の空気はない。情報は受け取る。必要なことは言う。不必要なことは言わない。
——効率的だ。パーティとしては、これが正解なんだろう。
地下二層に入ったところで、最初の魔物に遭った。
岩陰から飛び出してきた狼型の魔物が三匹。四つ足、灰色の毛並み、赤い目。
——バグ・スウォームを放った。視界を塞いで、逸らす。逸れた先には、もうセリアの刃が待っている。一匹目が倒れた。
「右」
セリアの一言。それだけで足りた。
右へ散った一匹を蟲で追い立てる。逃げ込む先は——セリアの間合い。残る一匹が私に飛びかかった瞬間も、セリアは振り向きもせず光弾で撃ち落とした。
——十秒。三匹、終わり。
初めて組んだ日は、連携なんて呼べた代物じゃなかった。自棄で撒いた蟲が、たまたま嵌まっただけ。それが今は——合図一つで済んでいる。
「なんかいい感じじゃない?」
「……まだ、伸びる」
セリアが剣を鞘に収めて、先へ歩いていく。振り返らない。
地下三層、四層。
降りるごとに鉱石の光が弱まり、通路が広く、天井が高くなる。足音が奥の暗闇に吸い込まれていく。
魔物の遭遇も増えた。狼、大蜥蜴、蝙蝠の群れ。種類もバラバラだ。全部片付けた。セリアと二人なら、このランク帯は作業に近い。
ただ——立て続けに片付けているうちに、ふと気になった。
「……蜥蜴と蝙蝠って、隣り合って棲むもの?」
「棲まない」
「……前に来た時も、こんなに多かった?」
「いいえ。ここまでは」
原因不明の魔物増加。依頼票の文字が頭をよぎる。
数だけじゃない。本来は棲み分けるはずのものが、同じ場所にひしめいている。——まるで、外から持ち込まれたみたいに。
——考えすぎか。
五層を越えた。
セリアが足を止めた。
「ここから先は、私も入ったことがない」
青白い光が、ここを境にさらに暗くなる。空気が重い。湿気が肌にまとわりつく。
「……行く?」
「行く」
迷いがない。私とは、肝の据わり方が違う。
私はポケットの中のアルミ玉に触れた。冷たい。いつもの感触。大丈夫。
——六層。
広い空洞に出た。天井が見えないほど高い。鉱石の光が届かず、壁際だけがぼんやりと青白く浮かんでいる。
静かだった。五層までの魔物の気配が、ここには薄い。
その代わり——別の気配がある。
奥から、音が聞こえた。
何かが壁にぶつかる鈍い衝撃音。繰り返し。不規則。
そして——鳴き声。低く、掠れた声。怒りじゃない。
苦しんでいるような声。
セリアの手が剣の柄にかかった。
私は壁に背をつけて、音の方向を窺った。
空洞の奥。青白い光に照らされた岩の壁際に、それはいた。
——鹿、だった。たぶん。
大型の四つ足。角が異常に肥大していた。頭の大きさに不釣り合いなほど巨大で、枝分かれした先端が壁に引っかかっている。自分の角の重さで、まっすぐ立てていない。
目が赤く濁っている。魔物の目。体が震えていた。壁にぶつかる。よろめく。また壁にぶつかる。角が岩を削る音が、空洞に反響する。
暴れているんじゃない。自分の体に、振り回されているようだ。
セリアが無言で剣を抜いた。
踏み込もうとした、その瞬間。
「——待って」
声が出ていた。考えるより先に。
「…………何」
セリアの目が、こちらを向いた。赤い目。鋭い。
鹿が暴れている。いつこっちに突進してくるか分からない。待つ理由がない。——セリアの判断は正しい。
でも。
アルミ玉を握った。視界が、変わった。
——術式が見える。鹿の体の内側に、コードが走っている。
殺意プログラムの赤い脈動。見慣れたものだ。
でも——何かが違う。質が違う。トールの殺意プログラムは、緻密だった。生命機能と深く絡み合い、自己修復まで備えていた。
こいつのは——雑だ。殺意プログラムが、元の体に乱暴に継ぎ接ぎされている。本来の生体構造と噛み合わず、体がそれを拒んでいる。——だから、もがき、震えている。拒絶反応だ。
あの角は、術式が体を作り変えた痕。
「……こいつ、最近だ」
「何が」
「魔族の術式。後から付けられてる。——この鹿、元はただの動物だ」
セリアの目が、わずかに見開かれた。
一秒。沈黙。
「……術式が見えるの」
「玉を通すと見える。——説明は後」
ハッキングで解放することはできる。
でも、本当にそれでいいのか。トールにやったことが、正しかったのか。私はまだ、答えを持っていない。殺意は剥がした。けれどトールは、元の姿には戻れないまま、半端な体で生きている。救ったのか、ただ死なせなかっただけなのか。
また、同じことをしようとしている。確信なんて、ない。——それでも。この鹿の苦しみを、見なかったことにはしたくない。
なら、あとは手順だ。
森鼠の時は、呼び出し口を塞ぐだけでよかった。それで大人しくなった。でも、こいつは違う。
この鹿が苦しんでいるのは、殺意が暴れているからじゃない。後から雑に埋め込まれた殺意プログラムを、体が異物として拒んでいるからだ。出口を塞いだところで、その異物が居座る限り、拒絶反応は止まらない。
だから、殺意プログラムごと引き抜くしかない。幸い、トールの核みたいに生命と固く絡んじゃいない。浅い。これなら、抜ける。
「……こいつを、止めたい」
鹿がまた壁にぶつかった。角が折れかけている。このままだと自分で自分を壊す。
「止める……? 殺さずに?」
「そう。殺意だけ消す。後から無理やり付けられたものを、取り除く」
「殺した方が、早い」
「……一度だけ、やらせてほしい。斬るのは、私が失敗してからでも遅くない」
セリアの視線が、私から、もがく鹿へ動いた。
長い、沈黙。
「お願い。動きを止めてほしい。接触しないと、できない」
セリアの左手が、ゆっくりと持ち上がった。
「……どうかしてる」
セリアの手のひらに、魔力が収束する。冷気が、私の肌を刺した。
「——氷結」
鹿の四肢が、一瞬で凍りついた。地面から這い上がった氷が脚を覆い、胴を押さえ込む。
鹿が鳴いた。もがく。でも動けない。
——セリアの魔法は、正確だった。脚と胴だけ。頭は凍らせていない。呼吸を塞がないように。
近づいた。
鹿の息づかいが荒い。赤い目が、私を捉えた。睨んでいるのか、怯えているのか、分からない。——でも、その奥に、もっと切実な何かが滲んでいる。
苦しい。助けて。そう言っているように、見えた。
……人間の、勝手な解釈かもしれない。
でも。
アルミ玉を強く握った。指先を、鹿の首筋に触れさせた。
——術式の全体構造が広がった。造りは、トールと同じ。
——集中。
殺意の線だけを、生命の線と見分けて、一本ずつ消していく。一本消して、影響を見る。次を消して、また見る。
魔力が削られて、体の芯が冷えていく。
生命の線を、一本でも読み違えれば——この手が、この子を殺す。指先に、命の重みがかかる。
不意に、指先がぶれた。
どれが生命で、どれが殺意か——さっきまで見分けられていた線が、急に、同じに見えてくる。
指が、止まった。
背後で、セリアの気配が鋭くなった。踏み込む足音——斬る気だ。
「——待って。まだ、やれる。続けさせて」
声が掠れた。
セリアの足が止まった。剣は抜いたまま。信じて待っているのか、しくじれば斬るために構えているのか——分からない。
——信じてもらえなくても、いい。
——最後の一本。核。殺意プログラムの根幹。
手を伸ばした。
消した。
指先の感覚が遠い。膝が少し揺れた。——でも、立っていられる。トールの時よりは、マシだ。
鹿の体から、力が抜けた。暴れていた体が静かになって、目の奥にあった殺意が——薄れていく。
氷が溶けた。セリアが術を解いたのだ。
鹿が、ゆっくりと立ち上がろうとして——よろめいて、そのまま座り込んだ。さっきまでの苦しみが、憑き物のように落ちている。穏やかな息づかい。
でも、赤い目は消えていない。肥大した角も、頭に残ったまま。体は、魔物のままだ。
消せたのは、殺意だけ。体を作り変えた術式は、生命機能と一体化していて、触れない。無理に剥がせば、この子が死ぬ。——それに、そこまで踏み込めば、今度はこっちがもたない。トールで、一度死にかけてる。
……本来は、森を歩いていただけの鹿だったはずだ。草を食べて、水を飲んで、群れの中で静かに暮らしていただけの。
森の鹿が、こんな地下深くにいるわけがない。誰かが連れてきて、この術式を押し込んだ。
——その暮らしごと、壊した奴がいる。
「……何をしたの」
セリアの声が、背後から聞こえた。
振り返った。セリアの表情は——読めなかった。いつもの無表情。でも、何かが違う。
「……手術」
「…………」
セリアが、黙ったままだ。いつもの「興味がない」沈黙じゃない。その目が、まっすぐ私に向いて、逸れない。
……魔物は殺す。それしかない世界で生きてきた人に、私は何を見せたんだろう。
いたたまれなくて、つい付け足した。
「大した力じゃないよ。戦闘の役には立たないし。……これをキリヤさんに見せたら、Bランクの判子をもらえた、ってだけの代物」
軽口のつもりだった。でも、セリアは笑わなかった。相槌の一つも、返ってこない。
「……体は、戻せない。まだ」
まだ。
その一語が、自分の口から出た。
今はできない。でも——いつか。
セリアが、剣を鞘に戻した。いつもの流れるような所作じゃない。一拍、迷うような間があった。
座り込んで震える鹿を——ついさっきまで斬ろうとしていた相手を、ただ見ている。
——その姿に、ソロンを思い出した。殺し続けてきたあの人も、術式を解かれた森鼠が去るのを、ただ黙って見つめていた。
セリアも、何も言わない。
それから、私を見た。何か言いかけて——飲み込んだ。——見たことのない目だった。少なくとも、私に向けたことのない目だ。
なぜだか、見返していられなくて、目を逸らした。
「……行きましょう」
短かった。でも、いつもの突き放す短さじゃなかった。
鹿がこっちを見上げていた。
赤い目。でもさっきまでの敵意はない。怯えのような、困惑のような——もう一つ、名前のつかない何か。
「……どうするの、これ」
セリアが鹿を見下ろして言った。
「……分かんない」
正直に答えた。殺意を消すところまでは考えた。その先は、考えていなかった。
……ここに、置いていくしかないか。
六層に一匹。殺意がない分、もう、抗うこともしない。他の魔物に食われて終わりだ。それでも、連れて出るなんて現実的じゃない。角は通路に引っかかるし、地上に出たって、こいつの居場所はない。
鹿から目を逸らす。
「……行こう」
背後で、何かが立ち上がる気配がした。
鹿が、よろよろとついてくる。足を止めると、止まる。歩き出すと、歩き出す。三歩の距離を、保ったまま。
「なんか……ついてきてない?」
鹿は首を傾げた。ついてくる。
殺意を消した相手に、懐かれる。——あの森鼠は、解放した途端に逃げていったのに。こいつは、逃げない。私の動物受けは、ゼロか百しかないらしい。
「……分離不安か」
観念して、振り返った。
「……連れて行くしかないかも」
「……本気?」
「他に案ある?」
斬ればいい——そう返ってくると思った。
でも。
「…………」
セリアは、無言。隣に寄ってきた鹿から目を離さない。剣の柄に、手はかからないままだった。
……依頼は、魔物が増えた原因の調査だった。
湧いていたのは上の層で、この六層は不気味なくらい静かだ。いたのは、この一匹だけ。——たぶん、こいつが増加の答えだ。同じ細工をされた魔物が他にもいるなら、数が倍になったのも頷ける。
未踏の奥に二人で潜るより、戻って報告した方がいい。
帰路。
六層から一層まで、来た道を戻る。
掌サイズの小動物ならまだ可愛げもあったんだろうけど、大型の鹿が三歩後ろをついてくるのは、普通に邪魔だ。角が通路に引っかかるたびに立ち止まる。
角を切り落とせば早い。——けど、あれは術式で肥大した部分だ。生命と繋がってる。迂闊に刃を入れれば、せっかく助けたこの子を、今度はこっちが傷つける。引っかかるたびに、律儀に外してやるしかない。
三層の狭い区間で、ついに完全に詰まった。角が左右の壁に食い込んで、びくともしない。
「……引っ張って。反対側から」
「……なぜ私が」
「一人じゃ抜けない」
セリアが、黙って鹿の角を掴んだ。私が後ろから胴を押す。
——Aランク冒険者と元SEが、二人がかりで魔物の角を壁から引っ張り出す。どんなシチュエーションだよこれ。
岩の削れる音がして——抜けた。鹿がよろめいて、セリアの腕に鼻先を押しつけた。
セリアが、無言で腕を引いた。鹿は、離れなかった。
道中の魔物はセリアが片付けた。私は鹿の救出係。セリアは鹿に懐かれ係。
……何やってるんだろう、私たち。鹿が、私の手に鼻先を擦りつけてきた。……まあ、いいか。首筋を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。
視線を感じて顔を上げると、セリアが真顔でこっちを見ていた。
「なに撫でてるの……それ、魔物なんだけど」
「今はただの、人懐っこい鹿でしょ」
「角が、私の背丈ほどあるけれど」
「……角がチャームポイントの、大きめの犬」
「ならない」
ぴしゃり、と切り捨てられた。当の鹿は我関せずで、私の手を舐めている。
地下一層。出口の光が見えた。
ふいに、セリアが手を差し出した。
「……それ、見せて」
アルミ玉のことだ。手のひらに乗せると、セリアが指でつまんで、しげしげと眺めた。
見た目は今も、傷だらけのただの金属の玉だ。変わったのは、これが何なのかをセリアが知ってしまったこと。それだけ。
先生が握った時も、何も見えなかった。術式を見てハッキングするのは、どうやら私にしかできない。
セリアが、玉を返してくる。指先が、一瞬、私の手に触れて——すぐには、離れなかった。
それきり、何も聞かなかった。なぜそんな力があるのか。私が、何者なのか。聞きたいことだらけのはずなのに。
ダンジョンを出た。
夕暮れの森に、湿った岩の匂いが混じっている。地上の空気が、やけに甘く感じた。
振り返ると、鹿が穴の縁で立ち止まっていた。地上の光に目を細めている。——そりゃそうだ。ダンジョンの中にいたんだから。
おそるおそる、一歩踏み出した。草を踏む感触に、耳がぴくっと動く。
——この子は、ここを知っているんだろうか。森を。光を。ダンジョンに放り込まれる前の世界を。
覚えていたら、いいな。
帰り道。
あの苦しみを植えつけられたのが、一匹だけとは限らない。誰かが、意図的に、魔物を作っている。
——フードの、エルフ。束ねた銀の髪に、金色の瞳。あの森で、トールを操っていた男。胸元の黒い石が、内側から火のように光ったのを、覚えている。
接触して、生きものに術式を植えつける。トールにされたことと、この鹿にされたこと。やり口は、同じだ。
あの男が、何者なのか。これが、どこまで広がっているのか。
答えは出ない。掻き消えるように消えた背中は、今も、何も教えてくれない。
出口のない問いを抱えたまま、私は魔物の姿のままの鹿と、何も言わないセリアと、三人で帰路についた。




