ユズリハ
問題は、鹿だった。
ダンジョンから連れ帰った元魔物。殺意は消えたが、見た目は魔物のままだ。肥大した角。うっすら赤い目。こんなのを正門から堂々と連れ込んだら、衛兵に射殺される。
裏道を使った。
人通りの少ない路地を選んで、壁沿いに進む。鹿は大人しくついてくる。問題は角だ。路地の幅より角の方が広い。曲がるたびに壁に引っかかる。ダンジョンの通路でもやったこの作業を、街中でもう一回やっている。
角を掴んで押し込む。鹿が鳴く。うるさい。静かにしてくれ、頼むから。
セリアは三歩先を歩いていた。一度も振り返らない。鹿のことなんて知らない、と言わんばかりの背中だ。あんたも手伝え。
裏路地の角を曲がった瞬間、向こうから住人が歩いてきた。目が合った。視線が私の顔から——鹿に移動した。
悲鳴。
「ま、魔物——!」
違う。違うんです。おとなしいんです。——説明する暇もなく、住人は走り去った。鹿はきょとんとしている。
セリアが足を止めた。こちらを振り返りはしない。ただ、悲鳴の消えた路地の先へ視線を走らせた。
「……急いで」
鹿の世話はしないくせに、危機管理は怠らない。衛兵を呼ばれる前に動け、か。——分かってる。
住宅街に入る手前で、足を止めた。
「ここまでで大丈夫。助かった。——報告、任せていい? こいつ連れてギルドには行けない」
セリアは鹿を一瞥して、小さく頷くと、踵を返した。完了報告は、あの人が出してくれる。鹿のことは——書かないだろう。聞かないでいてくれる人が、わざわざ書くわけがない。
その背中を見送って、私は鹿を連れて路地の奥へ向かった。
大丈夫。こいつには、ちゃんと行き先がある。緑に囲まれた、広い庭のある、静かな家。のびのびと余生を過ごせる、いいところだ。
——で。
ソロンの家に着いた時には、もう三回悲鳴を聞いていた。通報される前にたどり着けたのは奇跡だと思う。
「なぜわたしに押し付けるのだ」と第一声で言われた。ごもっとも。でも仕方ないじゃん、他に当てがないんだもん。
「庭を荒らされたらどうする」「餌は誰が用意するのだ」「そもそもわたしは鹿の世話などしたことがない」——文句が十分くらい続いた。長い。でも玄関は閉めない。ソロンは、断る気がある時はもっと早く扉を閉める。
「荒らしたり壊したりしたら、片付けは私がしますから」と食い下がると、ソロンが首を振った。
「要らん。お主に後始末はさせまい」
——え。そこは引き受けてくれるんだ。
結局、渋い顔のまま鹿の首を撫でていた。鹿も鹿で、初対面のソロンにすり寄っている。
……私はなんだかんだソロンが面倒見がいいことは知ってる。なんせ一番弟子だからな。——一番も何も、弟子は私だけだけど。伝説の賢者を、魔物のお守り役に任命完了だ。
鹿を預けてから、数日後。
別の依頼の帰り道だった。想定より奥まで足を延ばしたせいで日帰りが厳しくなって、街道沿いの森で野営を張ることにした。セリアが薪を組み、私が火をつける。
焚火が、爆ぜた。
ゆらゆらと揺れている炎を見ると、あの村の焚火を思い出す。
四人で火を囲んだ夜。ユーゴが夢を語って、フィーネが小さな氷の人形を作っては溶かしていた。
火の前では、人は少しだけ素直になる。暗がりの中で自分の表情が隠れるからか。相手の顔もぼやけるからか。
——あるいは、炎だけを見ていれば目を合わせなくていいからか。……焚火、嫌いじゃない。
火にかけた鍋から、湯気が立っていた。干し肉と根菜を放り込んだだけの雑なスープ。料理と呼べるかは怪しいけど、温かいものが腹に入るだけでありがたい。
セリアの前に器を置いた。セリアは黙って受け取り、一口だけ啜った。
——一口。そこから、進まない。
「……食べないの」
「……足りてる」
足りてるって、一口で。
エルフは代謝が人間と根本的に違う。少量の食事で長く活動できるらしい。おまけにかなりのショートスリーパー。数百年生きる体の燃費は、そうでないと合わないのかもしれない。
私は自分の分をさっさと平らげた。空腹が最高の調味料だ。
虫の声が遠くで鳴いていた。風が木の葉を揺らす音。食事が終わると、焚火と沈黙だけが残った。
ふと、空を見上げた。星が多い。異常に多い。街灯がないから当然なんだけど——何度見ても慣れない。
北斗七星がない。オリオン座もない。知ってる星座が、一つもない。……当たり前だ。ここは別の世界なんだから。でもこうして空を見上げて知らない星ばかりだと——遠いな、と思う。
セリアは火の向こう側に座っていた。
膝の上に置いた器はほとんど減っていない。その横に剣。炎を見ている。赤い瞳に、火の色が映り込んでいる。
セリアが、こちらを見た。
「……一つ、聞いていい」
セリアの声は低く、静かだった。視線はすぐに炎に戻っていた。
「何」
「あの鹿。あれと同じことを……あの魔族の子にも、したの」
——「魔族の子」。ミルシェのことだ。
あの鹿の時も、ミルシェの角の時も、私は「手術」と言った。それで繋げたんだろうな。
「……ああ。あの子は元々、殺意がなかった。暴れてた根っこを、閉じただけ。擬態が落ち着いたのは、そのついで」
それ以上は、言わなかった。トールのことも、森鼠のことも。聞かれたことだけ、答える。
セリアは、小さく頷いただけだった。
——これだけ組んできても、私はこの人自身のことを、ほとんど知らない。
今夜くらいは、いいだろう。まともに答えてくれる気がしないけど。
「一つ答えたから、一つ聞いていい?」
セリアの目が、ちらりとこちらを向いた。
「……何」
「セリアはなんで人間が嫌いなの」
薪が崩れた。小さな火の粉が舞い上がって、沈黙を埋めた。
セリアの表情は変わらなかった。でも——剣の柄を握る指先に、力が入った。
ずっと気になっていた。
最初はただの差別主義者だと思っていた。人間を見下す、高飛車なエルフ。
でも——最近はそう思えなくなった。背中を預けて戦って、無茶な願いにも手を貸して、何も聞かずに待ってくれて。人間の私にそういうことをする奴が、ただ嫌いなだけのはずがない。
何か、決定的なことがあったはずだ——ずっと、そう思っていた。
ぱちぱちと、火が小さく弾けている。それだけの時間が、過ぎていく。
「……答えたくないなら——」
「……集落を、焼かれた」
声が小さかった。炎の音に紛れそうなほど。
「……人間に」
「…………」
息を、のんだ。指先が、すっと冷えた。
「私も、そこにいた」
沈黙。薪の爆ぜる音だけが、やけに大きい。
「……剣を抜いた。でも——私には、覚悟が足りなかった」
覚悟……。
続きを、待った。セリアは、すぐには続けなかった。それから——ひとつずつ、置くように。
「人を、斬る覚悟が。——その迷いの間に、何もかも、灰になった」
エルフは人里を離れ、自分たちだけの集落で暮らす。いつか、そう聞いた。その集落が、燃えた。どれだけの命が消えて、どんな夜だったのか——想像しようとして、追いつかなかった。
喉の奥が、きゅっと締まった。
あれだけのことを、たったそれだけの言葉で。それを口にするまでに、この人がどれだけのものを飲み込んできたのか。
「いつ……誰に焼かれたの」
セリアは、答えなかった。
問いは、宙に浮いたまま、どこにも着かなかった。
「……私のことも、やっぱり嫌い?」
口が先に動いた。——人間が、この人から、帰る場所も、隣にいた誰かも、ぜんぶ奪った。その人間と同じ顔で、私は今、この人の隣にいる。
ひとくくりに憎まれても、おかしくはない。——でも、こうして組んできた私も、結局は「ただの人間」なのか。それを、確かめにいっている。
セリアは火を見ている。いつもの無表情。でも——目の奥が深い。底が見えない。
「……あなたのことは、一言では言えない」
言葉を探すような、短い間。
「……変わった人間だと、思う」
なんだそれ……。
でも——嫌い、の一言で済むなら、とっくにそう言ってる。それをしないってことは——少なくとも、単純な「嫌い」じゃない。そう、思うことにした。
セリアの人間嫌いも、ただ高飛車なだけじゃなかった。その奥に、あの夜が、ずっとあるんだろう。
人間が嫌いなのに、人間の街で、人間に囲まれる冒険者をしている。
行き場をなくしただけなら、もっと目立たず、人と関わらずに生きる道もあったはずだ。
——一つだけ、と言ったのは私だ。でも、もう一つだけ。
「セリアってさ、なんで冒険者やってるの」
セリアが——息を吸った。小さく。でも確かに。何かを口にするための、準備の呼吸。
「……探している人がいる」
「探してる?」
「……兄を」
兄。セリアに、兄がいる。初耳だ。
焼かれた、あの夜。その兄も、あの場所にいたのか。
でも、「なんで冒険者か」の答えは、それで出た。冒険者なら、各地を回れる。依頼があれば、普段は入れない場所にも踏み込める。人も噂も、自然に集まってくる。——誰かを探すなら、これ以上の立場はない。
火が弱くなっていた。薪の端が赤く明滅している。
遠くで梟の声がした。それ以外には、何も聞こえない。
——釣り合ってないと思った。
この人は、集落のことも、兄のことも話してくれた。自分の一番痛いところを、言葉にして。
なのに私は、力のことを「ある」と認めただけ。——自分が何者なのかは、伏せたまま。
「……前に、砂漠にいた理由のことを聞かれた時」
セリアの目が、こちらに向いた。
「全部は言えなかった」
ソロンの顔が頭をよぎった。
『お主の出自を明かすな』——破れば、間違いなく張り倒される。
でも、私の一番の急所は、もうこの人に知られている。あの玉がなければ、私が戦えないことも。
奪われたあの時、取り返してくれたのはセリアだ。誰にも言わず、利用もせず、何も求めず、ただ私の手に戻してくれた。
そんな人に、自分の傷だけを差し出させて、私は安全圏にいる。それは——筋が通らない。
「……信じなくていい。でも、セリアが話してくれたから」
深呼吸。一つ。
「実は。……私、この世界の人間じゃない。別の世界から来た」
セリアの表情が——止まった。
怒るか、呆れるか、信じないか。どれが来ても仕方ない。
でも——何も来なかった。セリアは黙って、待っている。続きを。
「私にも姉がいてさ。ある日、突然いなくなって……ずっと探して、見つからなくて。……怪しい本に行き当たって、呪文唱えて、気づいたら、こっち——あの砂漠に転移してた」
あの遺跡では言えなかった。
「気づいたら砂漠にいた。自分でも分からない」。それだけが精一杯だった。姉の存在は隠した。言う理由がなかったから。
でも——セリアが「兄を探している」と言った。探している人がいると。
私も同じだった。姉を探して、この世界に来た。だから返した。
「……あなたの魔法が、どの型で出しても蟲になる。——それは別の世界から来たから?」
セリアの声は、静かだった。驚きを飲み込んで、一つずつ繋いでいる。
「そう、だと思う。——理由は、自分でもわからない。何を出そうとしても、ぜんぶ蟲になる。直しようもなくて。……私が、ここに根のない人間だからかもしれない」
……なんて、柄にもないことを言った。
もっと身も蓋もなく言えば——私は、この世界に紛れ込んだ異物だ。
「…………」
セリアは、すぐには答えなかった。
薪が白く灰になりかけていた。
そして——肩から、すっと力が抜けた。
「……驚かない。前から、おかしいと思ってた」
呆れたような言い方なのに——なぜか、刺さらなかった。
別の世界から来たと打ち明けても、否定も、追及もされない。根のない人間でも、この人の隣には、いていいらしい。
セリアが立ち上がった。火の傍まで歩いて、薪を放り込んだ。炎が大きく膨らんだ。
少し離れた場所に腰を下ろし——こちらを見た。
「……ユズリハ」
「ん」
反射で返事をした。——それから、一拍遅れて。
……ん? 今、名前で呼ばれた?
初めてだった。
今まで「あなた」だった。それすら稀で、大抵は主語を省くか、目線で示すだけ。
ただの登録名。ギルドの書類に書いた、借り物の名前。——なのに、この人に呼ばれると、その四文字が、急に自分のものになったみたいだった。
ぽつりと、セリアが言った。
「その話……誰にも、言わない」
「……ありがとう。私もセリアのこと誰に言わない」
セリアが——ほんの一瞬、目を伏せた。それから、毛布を引き寄せ、背を向けた。会話は終わり、という背中。
いつもの突き放す短さじゃない。飲み込めないものを、そのまま置いた——そういう静けさだった。
火が、小さくなっていた。
兄を探すこの人は、まだ見つけていない。姉を見つけた私とは、そこが違う。
ずっと、お互い壁の手前で止まっていた。それが今夜、二人とも、ほんの半歩だけ、向こう側へ踏み出した気がした。
「ユズリハ」と呼ばれた響きが、まだ耳の奥に残っている。
目を閉じた。一人じゃない夜は、久しぶりだ。——今夜は、よく眠れる気がした。




