階段
「明日。朝」
それだけ言って、通りの角を曲がっていった。振り返りもしない。白金の髪が建物の影に消える。
……返事する前にいなくなるの、やめてほしいんだけど。
明日に依頼を受けるってことか。セリアと。……Aランクの依頼になるんだろうな。
頭では理解している。さっき自分で「分かった、行く」と言った。言ったけど——実感がない。数時間前まで腫れた顔で「助けてくれ」と頭を下げていた人間が、いきなりAランクの依頼に行くのか。……展開が早すぎて処理が追いつかない。
——ミルシェだ。先に報告しないと。あの子はまだギルドで、ガルドを見張ってるはずだ。もう、ガルドもろともセリアがシメたあとだけど。
ギルドに向かった。
——いた。
ギルドの中。通りに面した窓に張り付くようにして、フードを目深に被っている。外を——ガルドが来ないか、凝視している目が、妙に真剣だ。
……本気で張り込んでる。
「ミルシェ」
ミルシェが飛び上がった。フードがずれて栗色の髪がこぼれた。
「っ——! びっくりした! ユズリハちゃん、もう戻ってきたの?」
「もう終わった」
「……え?」
「全部取り返した。セリアが。玉も指輪も財布も」
ミルシェの目が丸くなった。口が半開きになっている。
こういう顔、珍しい。いつも余裕たっぷりなのに。
「……ちょっと待って。セリアンディエル様探して、お願いして、ガルドから全部取り返して、戻ってきたの?」
「そう」
ミルシェが口を閉じた。開いた。また閉じた。
「……私の、本気の張り込み♡」
「……ごめん」
「いいけど♡」
ミルシェがフードを脱いだ。張り込みの緊張が抜けて、いつもの空気に戻っていく。
「場所変えよ♡ ここ、耳が多いから♡」
通りの端のベンチに並んで座った。ミルシェが張り込み用に買っていたらしいパンを半分——大きい方を、当たり前みたいにこっちに渡してくれた。ありがたい。朝から何も食べていない。
パンを齧りながら、経緯を話した。セリアを見つけたこと。大型魔物を一撃で両断していたこと。痣を見て「殴られたの」とだけ言われたこと。矢継ぎ早の質問。通りの冒険者に一言聞いただけで、グレイホルン亭の場所が割れたこと。
「……『散歩』って言ったの?♡」
「うん。散歩って……。でもちゃんと取り返してくれた」
「さすがセリアンディエル様♡」
ミルシェが笑っている。楽しそうだ。人の修羅場を聞いて楽しめるのは、この子の長所なのか短所なのか。
グレイホルン亭の中の話もした。鈍い音がいくつも聞こえたこと。数分で全部回収して出てきたこと。髪に乱れすらなかったこと。
「……あの人、怖いね♡」
「怖い。本当に怖い」
——でも、と言葉を切った。ここからが本題だ。
「……で、ちょっと話がある」
パンの最後のひと切れを飲み込んだ。
「セリアから条件を出された。次の依頼、一緒に来てほしいって」
ミルシェの咀嚼が止まった。
それから——目が、すっと細くなった。
「……へえ♡」
含み笑い。完全に含み笑いだ。
「ソロ規制で依頼が受けられないから、二人必要だからって」
「それが理由ね♡」
「そう。制度上の理由」
「制度上♡」
なんで全部オウム返しにするんだ。
「つまりバディってこと?♡」
「バディじゃない。パーティ。……一時的な」
ミルシェがにやにやしている。
「セリアンディエル様がわざわざ条件にしてくるんだ♡ よっぽど——」
「だからソロ規制だって」
「はいはい♡ ソロ規制♡」
何も伝わっていない。
「……で、セリアと組むとなると、依頼はたぶんAランクになる」
ミルシェの笑みが、少しだけ落ち着いた。
高難易度クエスト。——制度の上では、Aランクの依頼を受けるならAランクが一人いればいい。それなら、頭数は二人とは限らない。三人だって、組めるはずだ。私と、セリアと、ミルシェ。
ミルシェだけ置いていく理由なんて、ない。セリアに頼んでみればいい。
そう思って、口を開いた。
「ミルシェも一緒に来られないか、セリアに——」
「ううん♡」
遮られた。即答だった。さっきの静けさが嘘みたいに、もう、いつもの軽い声に戻っている。
「セリアンディエル様と二人で、って話でしょ?♡ そこに私が交ざったら、お邪魔だもん♡」
……言い返せなかった。連れていきたいなんて、私の都合でしかない。ミルシェは、それを先に見抜いていた。
——でも。ミルシェの目の奥が、ほんの一瞬、ふっと遠くなった。
次の瞬間にはもう、いつもの笑顔だった。
「でも……」
「大丈夫♡ 私は私でやることあるから♡ フィルたちも戻ってくるかもしれないし♡」
「……ミルシェ」
「ユズリハちゃんはセリアンディエル様と頑張りなよ♡」
ミルシェの指先が、私の頬に伸びかけた。薄くなった痣の跡に。今朝と同じ——でも今度は拳にならずに、途中で止まって、下ろした。
ミルシェが立ち上がって、うんと伸びをした。
「Aランクの依頼なんて、私じゃ見られない景色だ♡」
笑っている。いつもの笑顔だ。
「……張り込みのパン代とかもろもろ、今度返す」
「いらないよ♡ そのかわり♡」
「何?」
「Aランクの依頼がどんなだったか、教えてね♡」
「……うん」
「あと、たまには私とも組んでね♡」
「……当然」
ミルシェがわずかに寄ってきた。肩が触れている。
いつものじゃれつきとは、少し違う。体重を預けるみたいに、静かに。
触れたところが、温かかった。私は、動かずにいた。
翌朝。
ミルシェが当たり前みたいについてきた。『私も依頼、探さなきゃだし♡』と。
二人でギルドに入った。カウンター前に——見覚えのある銀の短髪。鋭い目。革鎧。
フィルだ。
左腕にはまだ薄く包帯が巻かれている。でも、以前の重傷とは比べものにならない。ほぼ治りかけだ。
その半歩後ろに、小さな影。薄い緑の透き通った髪。蝶の羽のような耳飾り。——リコ。フィルに付き添うように、すぐ傍に立っている。
懐かしい、と思うより先に、足が前に出ていた。
協会の任務から、ガルドの件まで、ずっと気を張りっぱなしだった。それが、二人の顔を見ただけで、ふっとほどける。フィルの腕は治りかけで、リコも元気そうで。——それだけのことが、こんなに沁みるとは思わなかった。
「フィル、リコ——!」
フィルが振り返った。鋭い目がこちらを見て——私の顔で止まった。
「ユズリハ。久しぶりだな。——協会の任務はどうだった」
「……なんとか。生きて帰ってきた」
「そうか」
フィルの視線が、頬の痣に移った。
「——で、その顔は何だ」
腫れも痛みもセリアが消してくれたのに、色だけは残っている。言ってた通りだ——今朝、宿の鏡で確かめた。黄色くなりかけて、治りかけが一番みっともない。
「階段から落ちた」
「……階段」
追及は、してこなかった。聞いても仕方ない、と思ったんだろう。
「ユズリハさん、お久しぶりです。ご無事で良かったです」
リコが小さく頭を下げた。柔らかい笑顔。でも目の下に薄い隈がある。
「リコも久しぶり。……体調は?」
「私は大丈夫ですよ。フィル様の方がずっと大変でしたから」
リコがフィルの方を、ちらりと見た。まだ少し、心配そうに。
「フィルー! リコちゃーん♡」
ミルシェが横から飛び出して、リコに抱きついた。それから、フィルに向かって何か早口で喋っている。フィルが頷いた。
……騒がしくて、よく聞き取れなかった。
「久しぶり♡ 元気だった?♡ リコちゃん、ちょっと疲れてない?♡」
「わわ、ミルシェさん……! は、はい、平気ですよ……」
リコが小さく笑った。
ミルシェがにこにこ笑っている。
フィルが腕を組んだ。
「パーティの件だが——ユズリハはセリアンディエル様と組むらしいな」
ミルシェの方を見た。素知らぬ顔で笑っている。……さっき挨拶してる間に話したな。
「腕がまだ本調子じゃないが、俺もそろそろ依頼を再開する。……また俺と組んでくれないか、二人がよければ」
フィルがリコとミルシェに視線を向けた。二人とも頷いている。
と——ギルドの扉が開いた。
重い足音が、三つ。入ってきた男の姿を見て、カウンター周りがざわついた。
ガルドだった。
——全身、包帯まみれ。右腕を吊っている。顔の左半分に大きなガーゼ。歩くたびに体が左に傾ぐ。
後ろからついてくる手下が二人。一人目は顔中包帯で片目しか見えていない。二人目は松葉杖だ。
三人揃って、満身創痍。中で何があったかは、見ていない。でも——誰にやられたかは、知ってる。
……一晩で治療所走り回ったんだろうな。同情は、しない。
受付の女性が、カウンター越しに声をかけた。
「ガルドさん……どうされたんですか?」
ガルドが目を逸らした。
「……階段から落ちた」
間。
手下A——片目の包帯の隙間から虚ろな目を覗かせながら。
「……俺も階段から落ちました」
手下B——松葉杖に体重を預けながら。
「……俺もです」
受付が三人の顔を、交互に見た。
「……同じ階段から?」
「「「同じ階段からだ!!」」」
ギルドが静まった。
……どんな階段だよ。
フィルが隣で——私の顔と、ガルドの包帯を、交互に見た。
「……最近、階段から落ちるのが流行っているのか」
「……そうみたいだね」
ガルドたちがカウンターで依頼の手続きを始めた。その怪我でやるのかよ……。
——いや、働くしかないのか。私から奪った玉も金も、セリアに根こそぎ取り返された。売り飛ばして一儲けの当ては消えて、残ったのは三人分の治療費だけ。
しかも、手にしているのはFランクの依頼票——薬草採取だ。その満身創痍じゃ、危ない仕事は受けられない。Bランクの肩書きで、三人で駆け出しの小遣い稼ぎ。……ここまで落ちるか。
しばらくして——ギルドの入口が、また開いた。
空気が変わった。酒場のざわめきが、さざ波みたいに引いていく。カウンターのメリルが背筋を伸ばした。何人かの冒険者が手を止めて振り返った。
白金の髪。赤い瞳。長い耳。
セリアンディエルが、ギルドに入ってきた。
——来た。周囲の冒険者の視線が一斉に集まる。ギルドの真ん中に、道ができた。セリアは誰とも目を合わせず、その道を真っ直ぐ、私の方へ歩いてくる。
そして、私の横で足を止めた。
「おはよう」
「……おはよう」
ギルド中の視線が突き刺さっている。
セリアが掲示板に目を向けた。赤い紙——Aランクの依頼票を一枚抜いて、カウンターに持っていく。……やっぱり、Aか。
メリルが——別人になった。それまでの事務的な無表情が嘘みたいに、顔が輝いている。
ただ、メリルの椅子には、見慣れないクッションが一枚。座面の真ん中がご丁寧に、ドーナツみたいにくり抜かれている。同僚たちの気遣いは、まだ風化していないらしい。
「セリアンディエル様! お久しぶりです! すぐにお手配いたします! パーティの方は——」
メリルの目が私に移った。笑顔のまま、ほんの一瞬だけ目の温度が変わった。
「——ユズリハさん、ですか」
「Aが一名いれば問題ないでしょ」
セリアが短く言った。メリルが反射的に頷いた。
「は、はい! もちろんです!」
……セリアが言うと、一切の反論が消えるのすごいな。
ふと、セリアを見た。横顔が、いつもより少しだけ、やわらかい。
手続きを待つ間、ガルドの方に視線を移す。
カウンターの端で、石像みたいに固まっている。セリアから、目が離せないらしい。包帯の隙間の目が、はっきり怯えていた。
……一昨日の夜、私を殴り倒して身ぐるみ剥いだ男が、今は壁の染みみたいに縮こまっている。
その怯えた目が、ふいに私を捉えた。私と、セリアを、何度も見比べて——気づいたらしい。自分がカモにした相手が、今、誰の隣に立っているのかを。
血の気が、音を立てて引いていく。ガルドは書きかけの依頼票を放り出し、手下を引きずるようにして、転がって出口へ逃げていった。——なけなしの稼ぎになるはずだった、薬草採取の依頼を、置き去りにして。
セリアは、掲示板しか見ていない。あんな男、最初から眼中にない。
——因果応報。本当に、いい言葉だ。
手続きが終わった。明日の朝、東門集合。Aランク、東部森林区画の魔獣駆除依頼。
森ひとつ分の魔獣を狩るんだ。朝から入って、丸一日がかりになる。今から出たって、中途半端に日が暮れるだけ。だから、出るのは明日。
報酬の桁が——二つ違う。Cランクとは世界が違う。
ギルドの入口が開いた。
入ってきたのは女性の冒険者だった。赤い髪を高く結い上げている。——見覚えがある。前に、メリルに「セリアンディエル様は最近いらしてる?」と聞いていた女だ。ミルシェが「ちょっと怖い♡」と言っていた。
女の目が、ギルド内を走査した。——セリアを見つけた瞬間、目の色が変わった。熱を帯びる、というのがこんなに分かりやすい顔も珍しい。
それから——セリアの傍らの私に気づいた。カウンターには、二人で受けた依頼の控えが、まだ広げられている。
——目が、死んだ。女の足が止まった。何か言おうとして——言えずに、踵を返した。出口に向かう背中が、前に見た時より重い。
……最後に、しっかり私を見ていった。……これ、目の敵にされるやつじゃないだろうな。
「……また明日。朝」
セリアがそれだけ言って、ギルドを出ていった。
私とセリアを見比べて、フィルが苦笑していた。リコが小さく頷く。ミルシェは「いってらっしゃい♡」と手をひらひらさせて、二人と一緒に掲示板の方へ戻っていった。
……一人になって、ようやく息をついた。
明日から、Aランクの依頼だ。セリアと、二人で。
初めてのAランク。緊張は、する。——でも正直、その緊張より、あの人と二人きりでいることの方が、よっぽど落ち着かない。まあ、これだけの相手と組むんだ。仕方ない。
二人で組むなら、連携がものを言う。ただ——一群を一点に放つだけならいい。でも、あちこちから同時に来られて、蟲を群ごと分けてさばくとなると、私にはまだ無理だ。その不器用さを、この依頼でさらすことになる。
……ちゃんと、戦力になれるんだろうか。明日になれば、嫌でも分かる。




