借り物
うとうとして、目が覚あめた。
天井ばかり見ていた。考えなきゃいけないことが多すぎる。次の依頼、ミルシェとの噛み合わせ、二群同時制御。
ユーゴのことが、まだ頭の隅にこびりついている。
全部が一緒くたに渋滞している。それからは、もう眠れなかった。
……だめだ。
酒でも飲まないとやってられない。
地球にいた時はソシャゲとか動画とか、脳を麻痺させる手段はいくらでもあった。こっちにはそういうものが何もない。ストレスの捌け口が酒くらいしかないのだ。
……部屋には酒の一滴もない。樽で買って常備しておけばよかった。
ギルドの酒場まで歩いた。壁際の、隅のテーブル。誰とも顔を合わせなくて済む場所。
エールを一杯。二杯。三杯。味なんてどうでもいい。胃に流し込む。
酒場は賑わっている。冒険者たちの笑い声、グラスがぶつかる音。木のカウンターに染みた酒の匂い。前にも一人でここに来たことがある。ラークとミナに裏切られた直後だった。あの時は人が怖くて一人になった。今は——ただのやけ酒だ。結局一人で酒場にいる。
四杯目を頼もうとした時——
「よう、久しぶりじゃねえか」
聞き覚えのある声に、顔を上げた。
こいつは——ガルド。革鎧にBランクのプレート。以前、早飲み勝負で四連敗して逃げていった男。
隣には手下らしい男が二人。
「この前は悪かったな。飲み勝負で絡んじまって。詫びに一杯奢らせてくれよ」
どんだけ奢ってくれんだよ、この男。
——普段なら、革鎧の汚れ具合や手下の顔ぶれを見て、何かを判断していたはずだった。今は、視界に入っている情報が頭の中で像を結ばない。
手下二人がカウンターの向こう側に回って酒を注文している。ガルドが向かいに腰を下ろした。
ジョッキが二つ置かれた。前回と同じ構図。
エールを傾ける。一杯目、私の方が早い。
「……相変わらず早えな。もう一杯いくか?」
「はい」
二杯目。また私が先に空にした。ガルドのジョッキにはまだ三分の一残っている。
「はっ、やるねえ。やっぱ姉ちゃん強えわ」
ガルドが愛想笑いを浮かべている。
……ガルドと飲み始める前に、既に三杯入れている。空きっ腹に合計五杯。視界の端がぼやけ始めている。さすがに酔ってきた。
追加のジョッキに口をつけた。けど、流し込む前に手が止まる。
「もう終わりか? ——よっわ」
ガルドがニヤリと笑った。
私のジョッキには、まだ三分の一残っていた。
あの時、私がこいつに漏らした言葉だ。それが、そっくりそのまま返ってきた。喉の奥が、ひやりと縮んだ。
「三杯目で追いついたぜ、蟲使いの姉ちゃん。顔、赤くなってきてんぞ?」
クソ……ムカつくけど、言い返す舌が回らない。テーブルに置いた手が、自分のものじゃないみたいに重い。
「Bランクになったんだって? 魔法使いなんざ、さぞ稼いでるんだろうなぁ」
ガルドの声色が変わった。目が下卑た光を帯びる。
「協会の魔法使いってのは、ギルドじゃ見ねえようなもん持ってるって話だぜ?」
「……別に持ってない」
「ははっ、まあいいさ。飲め飲め」
次のジョッキが置かれた。
断ればよかった。立ち上がって、宿の部屋に戻ればよかった。
でも——今夜は、素面に戻りたくなかった。素面に戻ったら、また天井を見つめるだけの夜が待っている。
エールを煽った。喉が焼ける。胃の底が熱い。
ガルドが何か言っている。手下が笑っている。音が遠い。
——もう帰れよ、送ってやる。みたいなことを、ガルドが言っていた気がする。
気づいたら、酒場の外にいた。夜風が頬に当たる。冷たいはずなのに、酔いのせいで温度が分からない。足元が覚束ない。
宿はすぐそこだ。階段を上がるだけでいい。
……ガルドが「こっちだ」と肩を支えてくる。宿は反対側のはずだ。意識の隅で、小さな違和感が頭をもたげた。素面なら、そこで足を止めていた。でも酔った頭では、その違和感は形にならないまま溶けて、足はガルドに引かれるまま動いていた。
路地は暗かった。建物の隙間から覗く月明かりだけが、石畳を細く照らしている。酒場の喧噪が、くぐもって遠い。
背後で、複数の足音がした。
「——っ」
振り向く前に、腕を掴まれた。壁に押し付けられる。後頭部が石壁にぶつかって、視界に白い火花が散った。
「ちゃんと送ってやっただろ、蟲使いの姉ちゃん」
ガルドの顔が、目の前にあった。
さっきまでの薄ら笑いが消えている。剥き出しの悪意。あの酒場で見せていた愛想笑いは全部芝居だったのだと、酔った頭でようやく理解した。
手下二人が左右から腕を押さえている。動けない。
「あの時はよぉ、随分とナメてくれたよなぁ? 騎士団がどうの、血がどうのってよぉ。——調べたぜ。お前、別にお尋ね者でもなんでもねえじゃねえか」
……まあ、そうだ。捕まったのは本当だけど、ただの身元不明者扱いだった。犯罪歴なんてない。
「俺はなぁ、あの後しばらく酒場で笑い者だったんだよ。『ガルドがCランクの小娘にビビって逃げた』ってなぁ。てめぇのせいでどんだけ恥かいたか分かるか?」
声が低い。震えている。——怒りだ。あの日からずっと、溜め込んできた。
「Bランクに上がったからって調子乗ってんじゃねえぞ、コラ」
腹に拳が入った。容赦なしかよ。
——人に殴られたの、人生で初めてだ。でも痛みは、酔いの膜越しに鈍くしか伝わってこない。一拍遅れて、腹の奥がじわりと熱くなった。
ただ息は止まった。胃の中のエールが逆流しかけて、喉の奥で必死に抑え込む。膝が折れる。手下に支えられなければ、そのまま崩れ落ちていた。
「てめぇみてえな生意気な女にはな——身の程ってもんを教えてやらねえとな」
もう一発。脇腹。
声にならない声が漏れた。ぐらり、と地面が傾いた気がした。何を考えようとしたのか、途中で分からなくなる。
……魔法。そうだ、魔法を出さないと。
でも、手が動かない。腕を押さえられている。ポケットに、指先すら届かない。
「おい、こいつのポケット漁れ。Bランクなら金持ってんだろ」
手下の一人が、私の上着に手を突っ込んだ。財布、予備の包帯——次々と抜き取られていく。自分の体が漁られているのに、どこか他人事みたいに遠い。もう一人が右手を掴んで、指から指輪を引き抜いた。ソロンにもらった、循環の指輪。——あ、と思った。声にはならなかった。手下が石畳の上にそれらを並べている。
その手が、今度は私の首元の紐を引いた。青白い石が引きずり出される。——魔導通信石。
「ガルドさん、これも」
「……置いとけ。協会の石だ。足がつく」
ガルドが手下の手を払った。石が、胸元に投げ戻される。
そして。
「ガルドさん、何か入ってます」
手下が取り出したのは——銀色の玉。
——それはまずい。
——やめろ。
「返せ……っ」
「うるせぇ」
頬を叩かれた。視界が明滅する。
ガルドが手下からそれを受け取った。月明かりの下で、銀色の表面が鈍く光っている。ガルドが無造作に、握った。
——その瞬間。ガルドの目が見開かれた。
「……なんだ、これ」
握った拳から、かすかに魔力の光が漏れている。ガルドが自分の手を見つめている。
「な、なんだ……魔力が、溢れてくる……? なんだこれ。なんだこれ! ミスリルか? いや、ミスリルでもこんな——」
ガルドの顔に、恐怖と歓喜が同時に浮かんだ。
胃の底が、すっと冷えた。
——よりにもよって、Bランクの前衛に握らせた。身体強化で日常的に魔力を通している人間は、握った瞬間に分かる。これは、ヤバい代物だと。
「返して……それは私の——」
「お前の? 証拠あんのか? こんな玉、どこにでもあるだろうが」
ガルドがアルミ玉をポケットにしまった。
——だめだ。それがないと。魔法も、ハッキングも、全部あの玉が——
腕を振りほどこうとした。酔いで力が入らない。膝が石畳を擦って、手下に押し戻される。
声しか、出せない。蟲も出せない。掴みかかることも、噛みつくこともできない。
「返せ……っ、返せよ……!」
「知らねえな」
ガルドが見下ろしている。勝者の顔だ。
「酔っぱらいの戯言なんざ、誰が信じるんだよ。この界隈じゃ俺の顔が利くんだ。よそ者の魔法使いが何喚いたって、無駄だぜ。——おい、行くぞ」
手下が腕を離した。支えを失って、石畳に崩れ落ちる。
三人の足音が遠ざかっていく。
路地の角を曲がる直前、ガルドが振り返った。あの日と同じ目だ。
あの時の——『恐怖とは別の何か』。あれは、これだったのか。今は隠す必要すらないとばかりに、嗤っていた。
あいつは、自分が何を持っていったのか分かっていない。——それがどこへ転がっていくのか、考える頭はもう残っていなかった。
足音が消えた。
路地に、一人残された。
石畳が冷たい。背中と、頬と、膝が石の温度を吸っている。立ち上がる気力がない。
——魔法を出してみた。素の魔力だけで。アルミ玉も、循環の指輪もない。何もない手で。
手のひらの上に——かすかな光がちらついて、消えた。
「……形にすらならない。何も、できない」
——魔力総量、並。出力、中の上。
それが、素の私のスペック。
「……ゴミだ」
Bランクの魔法使いが、酒に酔って路地裏でチンピラに身ぐるみ剥がされた。
戦闘で負けたんじゃない。強敵に実力で奪われたんじゃない。自分で酒場に行って、自分で飲み潰れて、のこのこ路地裏に出て、殴られて、転がされた。
——ガルドが声をかけてきた時、怪しむべきだった。普段の私なら、そうしていた。
——皮肉な話だ。あの夜あいつに勝ったのも、酒だった。前職で鍛えた、ただ喉に流し込むだけの技術。同じ酒で、今夜は自分から潰れた。
吐き気がするほど、情けない。
……敵は、作るべきじゃなかった。おぼろげに、そう思った。あの時は、こんな夜が来るなんて思いもしなかった。
……それでも、殴られる筋合いはなかった、と思いたかった。
ポケットに手を入れた。何もない。さっきまであった重みが、ない。
あのアルミ玉を握った時の、指に伝わる冷たさ。魔力が体を循環していく感覚。術式の光が目の前に広がる瞬間。
魔法を覚えて、術式を読めるようになって、Bランクに上がって。——その全部を、あの玉の上に積み上げてきた。土台ごと、崩れた。
膝を抱えた。酔いが覚めていく。覚めるほど、脇腹が痛む。頬が熱い。後頭部がズキズキする。胸の底は、鉛みたいに重い。
路地の向こうで、酒場の灯りが滲んでいる。笑い声が聞こえる。
その音が、やけに遠かった。
……石畳の冷たさが、座り込んだ体の芯まで這い上がってくる。
動かない頭の隅で、取られたものだけが、勝手に並んでいく。財布。指輪——ソロンの。アルミ玉。
その下に、『これからどうする』の行だけ、空っぽのまま残っていた。




