ただいま
村を発つ日の朝は、よく晴れていた。
風が冷たい。畑の向こうに朝靄が残っている。来た時と同じ景色だ。何も変わっていないように見える。
トールが見送りに来た。
頭に、ぐるりと布を巻いている。側頭部の角が、布の下で不自然に盛り上がっていた。赤い目は、俯けば見えない。
母親が隣にいた。トールの手を握ったまま、ほどく様子はなかった。
トールは——何も言わなかった。私を見て、口を開きかけて、閉じた。そしてもう一度開きかけて——
「……ユーゴを」
声が掠れている。
「俺の……体が。ユーゴを——」
言い切れなかった。トールが深く腰を折った。地面を見つめるほどに。
「すみません、でした……」
最初に出てきたのは、謝罪だった。
それに、何を返せばいいのか。
——でも、謝罪は私だけに向けられたものじゃない。荷台で布に包まれた、あの人にも、向けられている。
少し離れて立っていたキリヤが、私の方を向いた。
——任せる、と。
「……顔を上げて」
トールが顔を上げた。目が赤かった。涙の赤じゃない。最初から赤い目に、涙が重なっている。
「……あなたの体は、完全には戻せなかった。ごめん」
トールは唇を噛んで、また俯いた。返事はなかった。
母親が、一歩前に出た。
トールの手を握ったまま。
「ユズリハ様」
深く、頭を下げた。
「——息子を、連れ戻してくれて。ありがとうございます」
声が震えていた。
体が魔族のままであること。村に居づらくなること。全部分かっているはずだ。それでも——息子が、生きて、隣にいる。
何かが胸の奥で軋んだ。
「……はい」
それだけ言って、背を向けた。
振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだった。
背中に村人たちの視線を感じた。安堵と、警戒と、感謝が混じった視線。どれが一番多いかは、分からない。その奥で、村長が一度、深く頭を下げた。何も、言わずに。
馬車に乗った。キリヤが御者台に上がり、客室には私とフィーネの二人。
ユーゴは、客室にはいない。布に包まれて、荷台に乗せられている。王都に帰したら、家族のもとで弔うのだと、キリヤが言った。私は、荷台の方を見ないようにしていた。
ユーゴの体には、キリヤの紫の光が掛かったままだった。腐敗を遅らせる術だと、それだけ短く言われた。
来た時は三人だった。一人分の空間が、空いている。ユーゴが座っていた場所。荷物を放り投げて、真っ先に飛び込んだ場所。
座席の奥に、ユーゴの水筒があった。村に着いた日に放り投げたまま、置き去りにされていたものだ。中の水は、まだ残っているはずだった。
馬車が動き出した。村が遠ざかっていく。
外に目をやると、村の外縁を薄い光が覆っていた。キリヤが張った結界。——あの村に残せたのは、それだけだ。
フィーネも窓の外を見ていた。何を考えているのか、聞かなかった。聞く必要もなかった。
車輪が石を踏む音。馬の鼻息。木々の間を抜ける風。行きはユーゴの声で埋まっていた空間が、今は馬車の軋みだけで満ちている。誰も喋らなかった。
一時間。二時間。
キリヤが御者台から声をかけた。
「少し休憩しよう」
馬車を止め、森の脇に降りた。水を飲み、軽い食事を取る。
来た時の休憩は賑やかだった。ユーゴが石柱で的を作り、フィーネが射撃精度を競った。私が「射線がずれてる」と口を出し、キリヤが木陰で微笑んで見ていた。
同じような森。同じような木陰。——でも、ユーゴの声だけが、抜けている。
食事の後、キリヤが私の隣に立った。
「ユズリハ君」
「はい」
「君の冒険者ランクについて、ギルドに推薦を出そうと思っている」
「……ランク?」
「Bランクへの昇格だ」
——は?
「ランクを上げたいと言っていたね」
言った。確かに——焚き火を囲んだあの夜、この男に、直接答えた。魔法協会の試験を受けたのは「冒険者ランクを上げるため」と。
覚えていたのか。
「今回の任務での実績は十分だ。魔族化した人間から殺意を取り除いた——あれは、Bランクの仕事として通る」
頭をよぎったのは、フィルの氷の槍。一撃で魔物を仕留めるあの姿。——Bランクの戦力って、ああいうのを言うんじゃないのか。
私がやったことはただ、自分の体を犠牲にして殺意を取っ払っただけだ。
「……正直、それができたところで私がBランクの戦力だとは思えないです」
「ユズリハ君。これは戦力の話じゃない。能力の話だ」
キリヤが、私と向き合った。
「殺意を取り除いた、それだけの話じゃない。失踪の条件を整理して、見張りの配置を組み直した。足跡を見て、トールの中で二つの力が争っていると読み当てた。——そして最後、ユーゴ君を失った直後にも、君はそれでも術式に手を入れた。あの状態で、あの精度で。戦うだけが、君の仕事じゃない」
声は届いている。意味も、追えている。なのに、自分のことだという感触だけが、抜け落ちている。誰か別の人間の手柄を読み上げられているような遠さで、私はそれを聞いていた。
「Bランクは、君の能力に肩書きを合わせるだけのことだ。次に同じことが起きた時——肩書きで、君の動きを縛らない方がいい」
——次に同じことが起きた時。
起きるのか。こんなことが、また。勘弁してくれ。
もうしばらく、魔法協会の任務は受けたくない。——というか、この人はなんで魔法協会になんか入ったんだ。
焚火の夜、「なぜ」を聞かれたのは私の方だった。けど——この人の「なぜ」を、私は知らない。
森で私を狙ったのも、エルフだった。セリアも、エルフだ。同じ種族が、味方と、敵に分かれている。そして——キリヤも、同じ。
「キリヤさんは……なんで、魔法協会に入ったんですか?」
キリヤは、少し間を置いた。
「魔の始祖を止められる場所が、ここしかなかった。——それだけだよ」
——「魔の始祖」、か。
トールを魔族化させたものの、その、ずっと先にいるもの。
それを止めるために、この人は、ここにいるんだ。
馬車が再び動き出した。
五日かけて来た道を、五日かけて戻る。気がつくと、アルミ玉を握っていた。
ハッキングの手順を反芻している。殺意の周囲の枝を一本ずつ切って、最後に核を消す。——頭が勝手に動いている。止められない。
放っておくと、ユーゴのことを考えてしまう。手順で——押し退けている。
帰り道は短く感じた。帰りたいのに——短い。
王都が見えてきた。城壁の輪郭。門の前の人混み。見慣れた景色のはずなのに、どこか他人行儀に見える。
門に近づくにつれて、人の声が増えていく。物売りの呼び声、荷馬車の車輪、子供の笑い声。辺境の村の静けさに慣れた耳には、全部がうるさい。
——この人たちは知らない。あの村で何が起きたか。
——誰も、私を待ってはいない。当たり前だ。任務に出て、戻ってきた。それだけのことだ。
東門で馬車を降りた。
フィーネが座席の奥からユーゴの水筒を取り出し、静かに自分の鞄に入れた。視線が、そこから離れなかった。声は、出なかった。——五日の間、あれに、一度も触れられなかった。手を伸ばせば、届く場所にあったのに。
「ここで解散としよう。二人とも、お疲れ様」
キリヤの声は淡々としていた。報告書と報酬の受け取りは協会で。詳細は後日、これで連絡する——と、魔導通信石を指さして、にこりと笑った。
キリヤが去った後、フィーネと二人になった。
「ユズリハさん」
「うん」
フィーネが、眼鏡を押し上げた。
少しだけ、間を置いて。
「今回の任務で……この仕事の報酬が高い、本当の理由、分かりました」
報酬の話をする時の、あの査定するような声じゃなかった。
——村に着いてから、井戸端で言っていた。条件のいい職種を選んだだけだ、と。
声の調子は、あの時と同じだった。
でも、あの時のフィーネは、報酬が高い理由を、知らなかった。
今は、知っている。仲間を失うことがある——そういう仕事だから、報酬が高い。
私も、知っている。
「また任務があれば、一緒に」
フィーネの声は平坦だった。いつもの冷静な声。
でも——「一緒に」のところで、ほんの少し、語尾が落ちなかった。
「……ああ。また」
それだけで十分だった。長い言葉は、いらない。
フィーネが軽く頭を下げて、去っていった。背筋が真っ直ぐだった。
一人になった。
部屋に帰って、眠ってしまいたかった。でも——一人きりの部屋で天井を見ている自分を思うと、それは無理だった。
ギルドに足を向けた。
フィルは戻ってきているだろうか。リコは隣にいるだろうか。セリアはいるだろうか。ミルシェがいつもみたいに、絡んでくるだろうか。
——扉を開けた。中は——静かだった。
カウンターの受付に、一人ずつ名前を挙げた。
「フィルヴァンさんはまだ療養中です。復帰の見通しは立っていません」
「セリアンディエル様は……最近、ギルドに来られていないですね」
「リコさんは……最近はあまり見かけませんね」
聞くたびに、いない理由が返ってくる。
ミルシェの名前は、出さなかった。出して、同じ答えが返ってきたら——と思うと、訊けなかった。
——出発前、フィルが言っていた。「パーティとしての活動は当面難しくなる」、と。
あの時は聞き流していた。
パーティが——崩れかけている。
掲示板を見た。Bランク以上のパーティ依頼が並んでいる。
——キリヤの声が蘇った。「肩書きで、君の動きを縛らない方がいい」。
掲示板を前にすると違う重さで刺さる。
フィルがいつも座っていた窓際の席。セリアが壁にもたれていた端の定位置。
全部、空いている。
——「死なずに帰ってきたら、褒めてあげる」って、言ってたじゃないか。
帰ってきたぞ、と。誰もいない壁に向かって、思った。
カウンターの隅で、ぼんやりしていると——
「おかえり♡」
声がした。
振り返ると、ミルシェが立っていた。
いつもの笑顔。いつもの甘ったるい声。
「……顔色悪いよ?」
ミルシェが、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 何かあった?」
「……色々あった」
「色々かぁ。聞く?」
「……今はいい」
「そっか。じゃあ、話したくなったら言ってね♡」
ミルシェが、隣に座った。腕に抱きつくでもなく。いつものおちゃらけトークを始めるでもなく。
ただ、そこにいた。肩が触れるか触れないかの距離で。
——ミルシェが黙っているのが、答えだった。よほど酷い顔をしているらしい。
ふいに、あの夕暮れを思い出した。村を発つ前、物陰で、フィーネが壁にもたれて声を殺していた。私は何も言わずに、隣に座っただけだった。
——「何も、してないけど」。「それが、ありがたかったんです」。
あの時は、よく分からないまま頷いた。
強張っていた肩から、力が抜けていく。——そういう、ことか。
「……ただいま」
口から出た言葉は、思ったよりも掠れていた。
ミルシェが笑った。いつもの、あの笑顔で。
「おかえり♡」
ミルシェの甘さは、変わらない。その明るさも、変わらない。
——ここに、変わらないものが、あった。
ミルシェが、何でもないように、さりげなく私の肩に頭を乗せた。軽い。重さを、ほとんど預けてこない。
「ねー、ユズリハちゃん」
「ん?」
「お土産は?♡」
「……ない」
「えー♡ 辺境の村でしょ? 珍しい薬草とか、可愛い石とか」
「戦闘してたんだけど」
ミルシェが私の肩に頭を擦りつけた。
「お土産はいらないけど、ユズリハちゃんが帰ってきたのが一番のお土産だからそれでいいよ♡」
「……いらないって言った口で一番の土産とか、どっちなんだよ」
「えー♡ ユズリハちゃんがいれば、どっちでもいいでしょ♡」
その声が——今は、温かかった。
完全に戻ってきたわけじゃない。でも——「ただいま」と言える相手は、ここにいた。




