副作用
村までの道を、キリヤの背中で揺られた。
立てなかったのだ。ハッキングの後、膝が言うことを聞かなかった。キリヤが私を背負いながら、空いた片手の紫の光で、ユーゴを布で包むようにふわりと運んでいた。フィーネがトールの隣に付き添い、トールは俯いたまま、自分の足で歩いた。
トールの腕には、紫の薄い鎖が一本だけ繋がったままだった。万一の再発に備えた、最低限の繋がりだ。
キリヤの背中は広くて、安定していた。視線がいつもより高い。この年になって誰かに背負われることになるなんて。
村が見えた時、降ろしてもらった。なんとか自分の足で歩いた。——意地だ。
キリヤが、トールに繋がっていた鎖を、すっと解いた。
村人たちが集まってきた。トールの側頭部に生えた角。うっすら残る赤い目。皮膚に浮かぶ紋様。焦げて千切れた服。
——トールが、村の人からどう見えるかは言うまでもない。
「トール……? トールなの……?」
母親が駆け寄った。
トールは俯いたまま、「母さん」とだけ言った。母親が——一瞬、息を呑んだ。角に。紋様に。赤い目に。
それから、ぎゅっと、トールを抱きしめた。一度すくんだ手が、それでも、離れなかった。
周りの村人の反応は——分かれた。
トールの家族は、泣いて受け入れた。トールと仲の良かった何人かの村人も、恐る恐るだが近づいた。
だが——壁の向こう側に立ったまま、近づかない人間もいた。
少なくない数。角を見て、目を逸らす。紋様を見て、後ずさる。
「あれ、本当にトールなのか……?」
「魔族だろう。見た目を見ろ」
「近づくな。子供を連れて行け」
聞こえるように言う者もいた。
——でも、声を上げた村人を、隣の人が「やめろ」と短く制していた。
狭い村だ。トールを知っている人間ばかりのはずだ。目を逸らす者と、逸らさない者と、逸らしかけて、逸らせない者が、混ざっていた。
トールの耳にも、聞こえていただろう。俯いた頭が、さらに下がった。そして、母親の腕をそっと外した。離れようとしている。
母親が、また抱きしめた。今度は、離さなかった。トールの口が動いた。声にならなかった。でも——唇の形は読めた。
——ごめん。
私は目を逸らした。見ていられなかった。足元がふらついた。壁に手をついて、体を支えた。
「この子に、何があったのか」
村長の声が低かった。
「森の中で、何者かに術式を刻まれた。体を——魔族に書き換えられたのです」
キリヤが、静かに答えた。
「……人間が、魔族に……?」
村長が、息を呑んだ。
キリヤが、視線をこちらに投げてきた。
壁から手を離して、村長に向き合った。
「魔族の持つ人間への殺意の部分を消しました。だから……もう人を襲うことはないと思います」
村長が、苦い顔をした。
「……魔法使い殿の力に感謝する。だが、本当に人を襲わないと言い切れるか? 村人を説得するのは、容易ではない」
——言い切れない。殺意は消した。でも、体は魔族のまま。一週間後、一ヶ月後に何が起きるか分からない。言葉が、出なかった。
沈黙の前に、キリヤが、一歩進み出た。
「村長。今回の件、責任はすべて魔法協会にあります。万一トール君に再発の兆候があれば、僕が必ず駆けつけます。——それでお預かりいただけませんか」
穏やかな、しかし揺るがない声。
村長が、しばらくキリヤを見て——重く頷いた。
キリヤが、布に包まれたものを、そっと地面に横たえた。ユーゴだ。
村長が歩み寄り、片膝をついて、手を合わせた。村人が、ひとり、またひとりと倣う。さっきトールから後ずさっていた者も、列に加わっていた。
「協会の人が、村のために——」誰かの、低い声。
誰も知らない。この布の中の人を殺めたのが、たった今そこで母親に抱きしめられた少年だということを。キリヤは、村長にこのことを言わなかった。フィーネも黙っていた。
——言えば、どうなるか。さっきの後ずさりを見れば、分かる。
手を合わせる列のすぐ脇で、トールの肩が、小さく震えていた。
別れ際に、ダリオの行方も訊いた。村長は首を横に振り、「おそらく、もう」と、言葉を濁した。
村長宅を出てから、足が、まっすぐ宿に向かわなかった。井戸の水を浴びて、ユーゴの血を洗い流した。指の間まで、念入りに。口をすすいでも、鉄の味が薄く残っている。——これは自分の血だ。水を浴びても、体の芯の冷えは取れなかった。
日が傾いた頃、宿に戻った。部屋に入ると、先に戻っていたキリヤが、窓際に立っていた。
部屋の空気が重かった。西日が窓から差し込んで、キリヤの影を長く引いている。
椅子に座った。座らないと、立っていられなかった。
キリヤが窓際から振り返って——微笑んだ。だが、目つきがいつもと違った。
「……見事だったよ、ユズリハ君」
その言葉が、腹の底に重く落ちた。
——見事? 瞼の裏に、さっきの光景が浮かんだ。角を見て後ずさる村人。母親の腕を、そっと外そうとしたトール。声にならなかった、あの「ごめん」。
生かした。殺意だけ消して——でも、あの体に閉じ込めたまま、村に返した。ユーゴが死に、トールは魔族の体で残された。
……何を、褒められているんだ。
「……何が見事なんですか。ユーゴは死んだ」
「ああ。彼は優秀だった。……死は痛ましい。僕は護衛として、失格だ」
キリヤの声には、悲しみがあった。
その重さに、すぐには返す言葉が見つからなかった。
飲み込んだ。聞かなければならないことが、まだある。
「トールに何が起こったのか改めて教えてください。——人間が魔族になるなんて、聞いたことがありませんでした」
キリヤが、わずかに目を伏せた。
「まず前提を。魔物は、交配で増える。それと——動物に術式が付与された時にも。魔族も同じだ。一に交配、二に——何に術式が付与されて、魔族になる?」
答えは、一つしかない。
「……人間」
「そういうことだ」
キリヤが、静かに頷いた。
「人間に術式を付与し、魔族と化す。トール君に起きたのは、それだ」
——腑に落ちない。けれど、筋は通る。
頭は得心した。なのに、椅子に預けた背中の芯が、また冷えていく。
キリヤが、続けた。
「魔族は交配で増える。それで説明がつく以上、誰も別の起源を疑わない。加えて——こうした事例は辺境で散発的に起きるから、王都までは伝わらない」
だから、人間の魔族化は、誰にも気づかれずに繰り返されていた——ということか。
あの洞穴の腐臭が、鼻の奥に蘇る。
あの黒い液体は、トールの服にも肌にも染みついていた。出たのは、トールの体からだ。
血でも魔物の体液でもない、とフィーネは言っていた。——人間から出た、血でも魔物のものでもない、何か。
「あの黒い液体は——魔族化の過程で、排出された人間の体組織か何かですか」
「ああ。あの場で調べた限りでは、そうだろう」
奥歯を噛みしめる。
喋ると、息が続かない。声の途中で、視界が一瞬かたむく。——それでも、訊くのをやめなかった。知らないままでいる方が、怖い。
「じゃあ、若い男ばかり狙われたのは——」
「魔族化は、体に大きな負荷をかける。あれだけの組織を排出して、なお生き残る——それに耐える肉体が要るんだ。若いのは、そのためだろう」
——選別の条件は、それで筋が通る。
じゃあ、選んだ後はどうやって連れ出したのか。
「操るには事前の接触が必要ですよね。あのエルフのフードの男、トールが『以前村に来ていた』と言ってました。一度接触して、操る下地を作る。——でも、そこから先が分かりません。どうやって、遠距離からトールの体を操作したのか」
「いい問いだ。——トール君は、他に何か言っていなかったかい」
トールが意識を取り戻した時の、途切れ途切れの声。鎖の中で——。
『……夢にも、出てきて……』
——夢。
「夢を、媒介にした……?」
「そう読んでいる。寝ている間に干渉して、自分の足で森まで歩かせる。夜に失踪するのはそのため。そして森の入り口まで歩かせた後は、暴れても村まで届かない洞窟付近に転移、そして術式を付与する。——そういう流れだろう」
——ユーゴも『若い男』の条件には、当てはまっていた。なのに、狙われなかった。その名前を出すとき、喉の奥が一度、つかえた。それでも、訊いた。
「ユーゴが狙われなかったのは、なぜですか」
「魔力を技として扱える者は、夢の干渉を無意識に弾く。それに——狙いは、もとから村人だけに絞られていた」
「……連れ去られた村の人たちは、いまどこに」
「正直、分からない。ただ——魔族は『族』だ。言葉で連携する生き物だから、なり立ての個体も、本能的に同族のところへ向かう。森の奥か、その先か。どこかに、集まっているんだろう」
ダリオも……。ダリオは魔族化し、今頃殺しに加担しているかもしれない。
——彼の妹は、まだ兄を待っている。「兄は魔族になった」を、あの年齢の子が、受け止められるのか。考えると、胃の底が重くなった。
——ふと、ミルシェの顔がよぎった。
族で動く魔族。殺意がなくて、自ら離れたあの子。
「根っこが違う」って、そういうことだったのかな。
「……村が襲われていないのが解せません。殺意があるなら、真っ先に村人を狙うはずじゃないですか」
「皆殺しにすれば、魔族化の素材が尽きる。——この村は、術者にとって『苗床』なんだろう」
そこまで読めていたのなら——
「最初から知っていたんですか。この村で起きていることが、魔族化だと」
「……可能性は高いと思っていた」
「なぜ言わなかったんですか」
キリヤが、私を見た。
「対峙するのは、術者本人か——あるいは、魔族化された人間。僕の中では、後者の可能性も置いていた。仮に後者だった場合——今回はトール君だったね。元人間の魔族を、君たちが殺せるかどうか。その覚悟が、見えていなかった」
——ああ。
焚き火を囲んだあの夜——「人間を殺したことがあるかい?」と、聞かれた。あれは、それを測っていたのか。
「あの夜の君たちの反応で、答えは出た。君たちはまだ、その覚悟を持っていない。覚悟のない者に事前に告げれば——揺れる。判断が鈍る。連携が乱れる。場合によっては、任務を放棄しろと言い出していたかもしれない」
——否定できなかった。
ユーゴを筆頭に、それぞれが、それぞれに、揺れていただろう。
「……だから、伝えなかった」
キリヤが、目を伏せた。
キリヤが正しかったのか、間違っていたのか。分からない。
分かっているのは、ユーゴが死んだという結果だけだ。
キリヤが、一歩近づいた。
「君の力は、殺す以外の選択肢を生む」
紫水晶の瞳が、私を見つめた。
穏やかな副支部長の目ではなかった。もっと——切実な何かを宿した目。
「そして——魔の始祖の術式に、干渉できる。それがどれほど希少なことか、分かるかい?」
干渉できたからなんだと言うのだ。
その「希少」とやらで、ユーゴが戻ってくるわけでもないのに。
「……分かりません」
「いずれ分かる。いや——分かってもらわなければ困る」
最後の言葉が、妙に重かった。
「……そんなに、すごいことなんですか」
「魔の始祖に対抗できる戦力になる。——君の力に希望を見出している人間は、僕だけじゃないよ、ユズリハ君」
キリヤはそれだけ言って、視線を窓の外に移した。それ以上は、踏み込ませなかった。
——希望、か。
肩に、重しを一つ、足された気がした。
術式のハッキングなんて、ただの好奇心で始めた。ミルシェの術式が魔物のものと同じだと気づいて、ソロンに相談して、覗き込んでみたら——できてしまった。それだけのことだ。
なのに、いつの間にか「対抗できる戦力」と数えられて、「希望」とまで呼ばれている。勝手に。
「協会には、今回の件を報告する。辺境で魔族化が起きている——と。これは支部単位の案件じゃない。本部が動く話になる」
——本部が動く。つまり、ここでの調査は終わりということ。
「術者の魔力は封じた。それと、応急で張った結界を、村全体を覆う本式に張り直しておく。魔族や魔物だけじゃない。あのエルフの干渉も弾く。同じ手口を、二度使わせない」
「……できるんですか、そんなこと」
「副支部長として、これくらいは」
「……それなら、最初から張れたはずです」
「何を弾くか決まらなければ、結界は組めない。魔族化と分かって初めて、あのエルフの干渉を弾く形に張れる。——それに、調査中に張れば、術者は気配を察して二度と現れない。僕たちの務めは、事件を防ぐことだけじゃない。……犯人に、たどり着くことだ」
椅子の背に、体を預けたまま、相槌すら重かった。
——調査のために、村を無防備にした。犯人を泳がせるために。理屈に、穴はない。穴がないことが、いちばん応える。
でも、結界を張るという判断は——今は、正しい。トールが魔族化したということは、この村が術者の標的になっている可能性がある。
村人はそれを知らない。知らないまま、日常に戻る。
夕暮れ。宿の裏手を歩いていると、物陰にフィーネがいた。
壁にもたれて座り込んでいる。
——泣いていた。
声を殺して。肩を震わせて。眼鏡を外して、手で顔を覆って。
見てしまった。見てはいけないものを見た気がして、足が止まった。
フィーネが気配に気づいた。顔を上げる。目が赤い。
互いに、何も言わなかった。
三秒。五秒。十秒。
私はフィーネの隣に座った。何も言わずに。
フィーネも何も言わなかった。ただ、隣に人がいることを受け入れた。
やがて日が落ちた。星が出た。
フィーネが、眼鏡をかけ直した。
「……ありがとうございます」
「何も、してないけど」
「それが、ありがたかったんです」
フィーネが立ち上がった。
いつもの表情に——完全には戻っていなかったが、背筋は伸びていた。
「ユーゴの遺品を整理しなければ。家族に届ける手配を、キリヤさんに依頼します」
「……そうだね」
フィーネが去った後、私は一人で座っていた。
ユーゴ。
——もう、いない。
言葉にしても、頭の中で像を結ばない。「ユズリハさん」って呼ぶあの声が、もう過去形になっている。実感が、湧いていない。
あんたは最後まで、トールしか見てなかったよな。「思い出せ」って叫んで、「殺さないで」って頼んで——自分のことなんか、一度も口にしなかった。
言ってあげれば良かった。あんたの「殺さないで」が、私を立ち上がらせたんだよ。膝が震えて、立てるはずなかったのに。——あれを果たしに行くんだって、それだけで、足が出た。
あんたが、呼び戻したんだ。あんたが、守ったんだよ。トールを。ちゃんと、守る側に、立てたんだよ。なのに、あんたは——自分が殴られたことしか知らないまま、逝ったんだろ。
——そもそも、なんで、あそこまでやったんだろう。
私はただ、帰りたいだけだ。命を投げ出す予定なんて、なかった。
なのに、手が動いた。ユーゴの死を、無駄にしたくなくて。
……帰りたいだけの人間が、帰れなくなる橋を渡った理由は、自分でも、分からない。
ソロンの顔が浮かんだ。——なぜ、いまソロンの顔なのか。
いつか、彼が語ってくれた。
『あっけなく死んだよ。人の命など、壊れる時は一瞬だ』。
あの時は、頭で聞いていただけだった。今、皮膚で分かった。人の命は、こんなにあっけないんだ。
ソロンは、続けた。未来ある若者を、目の前で失ったと。あの喪失感には、もう二度と耐えられる気がしないと。あの時のソロンの声は、淡々としていた。でも膝の上で、拳が固く握られていた。
——先生も、こうだったんですか。心のなかで、問いかけた。
仲間を目の前で失うって、こんなに息が浅くなって、手の震えが止まらなくて、何も呑み込めないことなんですか。
返事をくれる人は、ここにはいない。それでも、もう一度——
——先生も、こんな気持ちだったんですか。
喉の奥が、ぐっと詰まった。
膝の上で、両手が固まった。指先まで、力が入らない。
それでも——涙は、まだ出なかった。




