届かない
拘束されたトールの前に、立った。
鎖の中で、トールが暴れている。赤い目が私を捉え、「殺す」と吐き出す。殺意の塊。
——でも、その奥に、トール本人が、まだいる。
手が、震えていた。
ユーゴの血が、まだ残っている。指の間に、生々しく。握り返してきた、あの指の力も——まだ手の中にある。
頭の奥が、膜越しに鈍く鳴っている。今が、いつなのか、分からない。さっきからずっと——時間が流れているのか、止まっているのか、判別がつかない。
頭の中で、声が散らかっている。「殺さないで」。「ごめんね」。「けじめ」。整理できない。
——感情を、切り離せ。箱に入れる。蓋をする。
ユーゴの死を引きずったまま手を出せば、コードを誤読する。一手間違えれば——トールが死ぬ。最悪、私も。
でも、手の震えだけは、止まらない。
——集中しろ。
いまは、目の前のコードだけ見ろ。
アルミ玉を強く握った。——術式が、見える。赤い脈動。殺意プログラムが、トールの全身に根を張って、コードの全貌が視界を埋め尽くす。——でかい。
構造を読む。殺意プログラムの中枢。そこから伸びる枝。枝からさらに枝。すべてがトールの生命機能に食い込んでいる。
単純に本体を消したら、生命機能ごと止まる。それでは殺すのと同じだ。
ミルシェの時とは、比べものにならない。あの時にあったのは、空回りする呼び出し処理だけ——本体がなかったから、出口を塞ぐだけで終わった。
今回は——殺意の本体がある。規模も、桁が違う。
でも、原理は同じはずだ。森鼠で一本、ミルシェで三箇所——出力先を断てば、殺意は流れない。中枢には触れず、末端の呼び出し口を、一つずつ外す。
あとは、ここで通用するかだ。
まず一つ見極める。中枢から最も遠い、最初の呼び出し口。
トールにさらに近づいた。キリヤによる七重の鎖が魔力の漏出を完全に押さえ込んでいて、さっきのような圧はない。
手を、術式に伸ばす。指先で——そっと、触れた。外そうとする。
——外せた。
いける——この調子なら——そう思った、その瞬間。
術式が、自分で動いた。外したはずの呼び出し口が、見ている前で、また繋ぎ直されていく。元通りだ。
どういうこと……。
「自己修復機能まであるのかよ……!」
声が出た。消されることを想定して、自動復元機能を組み込んでいるのか?
いや——待て。さっき、フィーネの氷槍がトールを貫いた時——傷が、即座に塞がっていた。胸も、太ももも、血一滴流さずに。
あれと、同じ機構か。——魔族化されたばかりだから、か。術式が、まだ人間の体に馴染まず、内側から暴走している。皮膚も術式も、同じ理屈で繋ぎ直されている。
焦るな。
焦ったら負けだ。焦った人間がどんなミスをするか、身に染みて知っている。
深呼吸。
もう一度、構造を読む。
森鼠の時は、出口さえ塞げば足りた。
でも、こいつは違う。塞いだ瞬間、自己修復が穴を繋ぎ直す。応急処置じゃ追いつかない。
どうすればいいか考えろ。コードを見極めろ。
——見えた。
自己修復ロジックは、核——殺意本体から発動している。ということは——核さえ消せば、自己修復も止まる。流れる殺意も、すべて。
——核を消すしかない。どうやって……?
核は生命機能と深く絡みついている。どこまでが殺意で、どこからが生命機能か——慎重に読まないと、間違える。
しかも核の周りは、無数の枝に覆われている。細い根が幾重にも巻きついた、固い繭みたいに。このままじゃ、手が届かない。
手順は、ミルシェの時と同じ。殺意の線を、末端から一本ずつ消していく。生命に繋がっている線には、絶対に触れない。
違うのは、目的——「塞ぐ」じゃなく、「届くようにする」だ。消した分だけ、核に手が届くようになる。
末端の枝は、細い針金くらいだった。核は——その針金が寄り集まって固まった、芯だ。最後に、剥き出しになったそれも——同じ要領で、削り落とす。線より太いだけ。
深く、息を吸った。手を、コードに伸ばす。トールの体が痙攣した。鎖が軋む。
術式が抵抗する。侵入者を排除しようとする防御反応。
腕が——熱い。魔力が逆流している。指先から、肘から、肩まで——焼けるような痛み。
頭の奥で、警告のような鈍い音が鳴り始めた。
心臓が、速い。速すぎる。
歯を食いしばった。
中枢から、一本目。生命機能との境界をなぞる。殺意の線だけを、そっと——外す。
次。二本目。境界を読む。外す。
三本目——抵抗が、強い。指先を押し返してくる。それでも、外す。
四本目。殺意の線だと思って、指をかけた——その瞬間、トールの呼吸が、ひゅっと、途切れた。
とっさに、指を離す。——読み違えた。これは、命に繋がっている線だ。見た目では、殺意の線と区別がつかない。境界は、私が、なぞるしかない。一本、外すたびに——トールの命を、賭けている。
息を、整える。もう一度、なぞり直す。今度こそ、殺意の線だけを。外す。
一本消して、影響を見て。次を消して、影響を見て。
時間がかかる。額から汗が流れる。視界がぼやける。
魔力が削られていく。体の芯が、底から冷えていく。
歯がカチカチと鳴っている。寒い。
視界の端に、フィーネが立っていた。
手を半分、上げかけて、止まっている。
眼鏡の奥の目が——揺れていた。大丈夫、と伝えたかった。声は、出なかった。
何本目だ。分からない。数えるのをやめた。
指先の感覚が、消え始めている。コードに触れているのは分かる。でも、触れている自分の指の温度が、もう分からない。
息が、浅い。吸っても、入ってこない。
一瞬、意識が揺らいだ。集中しろ。……鼓動が、鈍くなっていく。
——『最悪、お主が死ぬ』。ソロンの声が、遠くで蘇った。……これが、その「最悪」に、近づいている感覚なのか。
手を止めたくなる。止めれば、楽になる。——でも、止めたら、ユーゴが何のために死んだか分からなくなる。
……次の枝へ。
トールの体の痙攣が、少しずつ収まっていく。——届いている。
——最後の一本まで来た。中枢の、核。殺意プログラムの根幹。
これを消せば——
でも、線が太い。これまで切ってきた枝とは、桁が違う。
手を伸ばした。アルミ玉を握る手が、強張る。核に近づいた途端、術式の反発が桁違いに重い。指先が、弾き返される。
削る。少しずつ。当てた瞬間、また弾かれる。指を当て直す。また、弾かれる。
反発が、腕を駆け上がってくる。肘が、肩が、内側から焼ける。脳の奥で、警告音が鳴り続けている。
削っているのか、削られているのか——もう、判別がつかない。
それでも、当てる。削る。滑る。当てる。
根気だけが、頼りだった。
そして——。
……消した。
膝が折れた。
地面に手をついた。視界が、白く濁る。耳鳴り。
——ミルシェの時の比じゃない。体の中身を全部絞り出したような消耗。指先の感覚がない。
心臓の音が、遅い。鈍い。視界の端が、黒く滲み始めた。
体が、ぐらりと傾いた。——やばい。これは、戻ってこられない側の感覚だ。
気配。フィーネが、踏み出した。
——来ないで。片手だけ上げて、制した。腕が、鉛みたいに重い。
気配が、半歩手前で止まる。
キリヤは——動かない。鎖を保持したまま、ただ、見ている。
その時——術式の残骸の向こうに、まだ動いているコードが見えた。
——殺意プログラムが視界を埋めていた間は、見えていなかった部分。除去された分、奥が露わになった。
別の系統だ。さっきまでの殺意プログラムとは、構造そのものが違う——もっと複雑な、絡み合った形態。魔族化された体そのものを支えているコードだ。
あれを消せば、トールは元に戻れるのか——いや。
……生命機能と、分かちがたく編み込まれている。どこまでが術式で、どこからがトール本人なのか——境界が、ない。
消耗しきった今の体では、この奥までは——保たない。
……それでも、コードは、読める。
指は——まだ、動く。
——あと、少しだ。あと少しで、「完了」する。
中途半端は、嫌だ。やりかけて、投げ出すのが——一番、許せない。
頭の奥で、何かが、押し上がってくる。理屈じゃない。「終わらせなきゃ」という、衝動だけが、燃えている。
——理性は「無理」と言っている。それを、押しのけて、手が動いた。
核のあった場所のさらに奥——別系統の表面に、指先が触れた瞬間。
視界が、白く弾けた。胸の奥で、何かが跳ねる。喉の奥に、鉄の味。
咳。手の甲で口元を覆うと——指先に、赤いものが、付いた。
——血だ。
——あと、少し、なのに。
腕が、言うことを聞かない。それでも、当てる。当てる。滑る。
また、当てる。
「——ユズリハさん!」
フィーネが踏み込んだ。さっきの半歩手前を、越えて。肩を、掴まれる。物理的に、引き剥がされそうになる。
——だめ、まだ、終わってない。それでも、フィーネの手を、振り解いた。気力だけで。
動くのに——自分の指の重さを、もう支えられない。
——『撤退すべき時に、意地を張るな』。
フィルの声が、耳の奥で鳴った。
吊った左腕で、淡々と、私を見ていた、あの目。
——『俺がこうなったのは、その判断を一手遅らせたからだ』。
……ああ。
ここで潜れば、私は——上がってこられない。一手遅らせれば——終わる。それを、私の体が先に知っているから、フィルの声を引っ張り出してきたのか。
——でも。
コードは、まだ、見える。指は、まだ動く。あと、一回——
止まれ、と、自分に命じる。
止まらない。
——フィルも、こう思ったのか。「あと一回」「もう少し」と。
あの人は、左腕を吊ることで、止まった。私は——? 心臓か、脳か。代償は、もう取り返せない。
……それでも、手は動こうとしている。
——止まれ。
——止まれ。
——ごめん、トール。完全には、戻せない。
コードから、指を、剥がす。粘ついた糸を引くように、指先が残ろうとする。意志で、力で、一本ずつ、引き剥がした。
最後の一本が、離れた瞬間——術式が、視界から消えた。
——ユーゴは、間に合わなかった。
トールは、半分。
どっちにも——届かなかった。
呼吸を、しているはずなのに。吸った空気が、どこにも届かない。
視界の黒は、端に貼りついたまま、剥がれない。耳鳴りも、喉の奥の鉄の味も、引かない。
体の芯から抜けたものは——止めても、すぐには、返ってこない。
肩に、手が、かかった。さっき振り解いた手だ。傾きかけた背中を、横から、ただ、支えてくれている。
フィーネ自身も、半分、崩れた姿勢だった。それでも、私が倒れないように。
——ごめん。胸の中だけで、言った。
「ユズリハ君。無理は、もういい」
キリヤの声が、低く降りてきた。鎖を保持したまま、視線だけがこちらを向いている。咎める色はない。確認の声だった。
頷くのが、精一杯だった。
顔を上げる余力がない。
ただ——静かだった。さっきまで鎖の中から聞こえていた「殺す」が、止まっている。
それでも——顔を上げた。
トールの体から、力が抜けている。
赤い目が——薄れている。完全には消えない。うっすらと赤みが残っている。
角も——消えない。小さな角が、側頭部に残ったまま。体は、魔族のまま。
でも。
殺意は——消えた。
「……ぅ……」
トールの口から、声が漏れた。
「殺す」ではない。意味のない、でも——意識のある声。
「……ここ……どこ……」
目が開いた。赤みの残る瞳。でも、その奥に——知性の光がある。
トールの意識が、戻っている。
私はキリヤを見た。
キリヤは——トールを見ていた。鎖は、まだ解かれていない。視線も、トールから外さない。
トールが、自分の体を見回した。鎖。紋様。角。
断片的な記憶を辿るような、戸惑った目。頭を抱えようとして、鎖に阻まれて、手が止まった。
「なに……これ……俺、なんで……」
トールの声が震えていた。
周囲を見回す。折れた木。えぐれた地面。血痕。
視線が、自分の手に落ちた。指先に、血が乾いていた。
「……ユーゴは」
トールが聞いた。
私を見て。フィーネを見て。
「ユーゴは……どこ……」
私は——答えられなかった。フィーネも目を伏せた。
トールの視線が、倒れた人影を捉えた。
唇が動いた。声になっていない。トールの肩が、波打った。鎖の中で、何度かもがいた。
——暴れる動きではない。鎖の中で、ただ、震えていた。
キリヤが、その動きをしばらく見ていた。
穏やかな顔のまま、動かない。やがて、片手を上げた。
紫の鎖が、ゆっくりと——七重から、糸のように細い一本に。
トールの片腕に絡みついたまま——万一の再発に備えた、最低限の繋がりだけが残された。
トールが、よろめきながら立ち上がった。
焦げて千切れた服が、肩からはらりと垂れ下がっている。
ユーゴのもとに、よろめきながら歩いていく。
「ユーゴ……?」
ユーゴの前にしゃがみ込んだ。動かない体。開いたままの目。
「嘘だ。なんで。なんで——」
トールの声が裏返った。
「俺が……俺がやったのか……?」
誰も答えなかった。
トールの手が、ユーゴの肩を掴んだ。揺すった。
「起きろよ……起きてくれよ……」
返事はなかった。
キリヤが、静かに歩み寄った。
膝をついて、ユーゴの開いたままの目を——そっと閉じた。
霞んだまま、私は空を見上げた。
朝の光が、木々の隙間から差し込んでいる。鳥が鳴いている。穏やかな朝だ。
穏やかな朝に——少年が一人、死んでいる。
アルミ玉を握っていた手を、開いた。掌に、玉の形が、白く残っている。
トールは、ユーゴから目を離さない。鎖の中で、肩を揺すり続けている。
その時——キリヤが、ふと顔を森の奥へ向けた。穏やかな笑みのまま。
遅れて、私も気付く。——気配。
「——見つけた。やはり近くで見ていたんだね」
キリヤの声が、低くなった。空いた片手を、森の奥へ向ける。紫の光が糸のように伸び——その先に、手応え。
引きずり出されたのは、マントを深く被った人影だった。フードからこぼれた長い銀の髪が、後ろで一つに束ねられている。マントが揺れ、胸元の黒い石の首飾りが——内側から、一瞬、火のように光った。フードの陰の、金色の瞳が、こちらを射る。
キリヤの唇が、短く一節を刻んだ。紫の光が、研ぎ澄まされた一本の杭になり、人影の中心へ打ち込まれる。貫いた光が、内側で、何かに組み直されていく。
「ぐあああっ」
フードの男が、悶えるように声を上げた。
キリヤが、トールに視線を投げる。
「トール君。——少しの間、解く。逃げないでくれ」
迷いのない声。トールの腕の薄い鎖が、ふっと消えた。キリヤの両手が自由になり、森へ向き直る——その、一瞬だった。
空気が、ぐにゃりと歪んだ。フードの男の輪郭が、内側へ折り畳まれて——掻き消えた。
「……逃げられたか。抜け目ない」
軽い口調。でも、紫水晶の瞳の奥は——硬い。
森が、また静かになる。ユーゴは、まだそこに横たわっている。キリヤが閉じた、その目のまま。
頭の芯に、また膜が下りる。森から男が引きずり出されて、消えた——それすら、遠くで起きた誰かの出来事みたいに、像を結ばない。それでも、訊かなければならない気がして、口だけが動いた。
「キリヤさん。今のは——」
絞り出した声は、自分のものとは思えないほど、掠れていた。
「……以前、森でユズリハ君に何かを放ったのは、おそらく彼だ。——エルフの魔力だった。魔の始祖側の者だろうね」
息を、呑んだ。
——あの時か。背中側に、気配も音もなく飛んできた、あれ。あれが、エルフだったのか。キリヤと——同じ。
キリヤが、紫の鎖をもう一度トールの腕に薄く絡め直し、トールに視線を向けた。
「トール君。——今の人物に、見覚えはあるかい」
トールの唇が、震える。
「……前、村に来てました。それで……夢にも出てきて……」
言葉が、途切れる。
「今回の黒幕は、恐らく彼だろうね。——あの楔で、彼の魔力は縛れた。しばらくは、大規模な術式を扱えない」
キリヤが、片手を前にかざした。紫の光が、地面を撫でるように森へ広がっていく。
「念のため応急の結界を、村までの道に張ろう。完全ではないけれど——しばらくは持つ。一旦、撤収しよう」
立ち上がる力もない私と、ユーゴの止血で魔力を絞り切ったフィーネは、何も返せなかった。
でも、誰もすぐには動けなかった。
森に音がない。鳥も虫も、まだ戻ってきていない。
——あの男は、何者だったのか。
金色の瞳。最後に捉えていたのは——私だった。
——村に、私たちは、何を持って帰るんだろう。




