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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
魔法協会任務編

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54/67

届かない

 拘束されたトールの前に、立った。

 鎖の中で、トールが暴れている。赤い目が私を捉え、「殺す」と吐き出す。殺意の塊。

 ——でも、その奥に、トール本人が、まだいる。



 手が、震えていた。

 ユーゴの血が、まだ残っている。指の間に、生々しく。握り返してきた、あの指の力も——まだ手の中にある。

 頭の奥が、膜越しに鈍く鳴っている。今が、いつなのか、分からない。さっきからずっと——時間が流れているのか、止まっているのか、判別がつかない。

 頭の中で、声が散らかっている。「殺さないで」。「ごめんね」。「けじめ」。整理できない。

 ——感情を、切り離せ。箱に入れる。蓋をする。

 ユーゴの死を引きずったまま手を出せば、コードを誤読する。一手間違えれば——トールが死ぬ。最悪、私も。

 でも、手の震えだけは、止まらない。



 ——集中しろ。

 いまは、目の前のコードだけ見ろ。

 アルミ玉を強く握った。——術式が、見える。赤い脈動。殺意プログラムが、トールの全身に根を張って、コードの全貌が視界を埋め尽くす。——でかい。



 構造を読む。殺意プログラムの中枢。そこから伸びる枝。枝からさらに枝。すべてがトールの生命機能に食い込んでいる。

 単純に本体を消したら、生命機能ごと止まる。それでは殺すのと同じだ。

 ミルシェの時とは、比べものにならない。あの時にあったのは、空回りする呼び出し処理だけ——本体がなかったから、出口を塞ぐだけで終わった。

 今回は——殺意の本体がある。規模も、桁が違う。

 でも、原理は同じはずだ。森鼠で一本、ミルシェで三箇所——出力先を断てば、殺意は流れない。中枢には触れず、末端の呼び出し口を、一つずつ外す。

 あとは、ここで通用するかだ。



 まず一つ見極める。中枢から最も遠い、最初の呼び出し口。

 トールにさらに近づいた。キリヤによる七重の鎖が魔力の漏出を完全に押さえ込んでいて、さっきのような圧はない。

 手を、術式に伸ばす。指先で——そっと、触れた。外そうとする。



 ——外せた。



 いける——この調子なら——そう思った、その瞬間。

 術式が、自分で動いた。外したはずの呼び出し口が、見ている前で、また繋ぎ直されていく。元通りだ。

 どういうこと……。



「自己修復機能まであるのかよ……!」



 声が出た。消されることを想定して、自動復元機能を組み込んでいるのか?

 いや——待て。さっき、フィーネの氷槍がトールを貫いた時——傷が、即座に塞がっていた。胸も、太ももも、血一滴流さずに。

 あれと、同じ機構か。——魔族化されたばかりだから、か。術式が、まだ人間の体に馴染まず、内側から暴走している。皮膚も術式も、同じ理屈で繋ぎ直されている。



 焦るな。

 焦ったら負けだ。焦った人間がどんなミスをするか、身に染みて知っている。



 深呼吸。

 もう一度、構造を読む。



 森鼠の時は、出口さえ塞げば足りた。

 でも、こいつは違う。塞いだ瞬間、自己修復が穴を繋ぎ直す。応急処置じゃ追いつかない。

 どうすればいいか考えろ。コードを見極めろ。



 ——見えた。

 自己修復ロジックは、核——殺意本体から発動している。ということは——核さえ消せば、自己修復も止まる。流れる殺意も、すべて。

 ——核を消すしかない。どうやって……?

 核は生命機能と深く絡みついている。どこまでが殺意で、どこからが生命機能か——慎重に読まないと、間違える。

 しかも核の周りは、無数の枝に覆われている。細い根が幾重にも巻きついた、固い繭みたいに。このままじゃ、手が届かない。

 手順は、ミルシェの時と同じ。殺意の線を、末端から一本ずつ消していく。生命に繋がっている線には、絶対に触れない。

 違うのは、目的——「塞ぐ」じゃなく、「届くようにする」だ。消した分だけ、核に手が届くようになる。

 末端の枝は、細い針金くらいだった。核は——その針金が寄り集まって固まった、芯だ。最後に、剥き出しになったそれも——同じ要領で、削り落とす。線より太いだけ。

 


 深く、息を吸った。手を、コードに伸ばす。トールの体が痙攣した。鎖が軋む。

 術式が抵抗する。侵入者を排除しようとする防御反応。

 腕が——熱い。魔力が逆流している。指先から、肘から、肩まで——焼けるような痛み。

 頭の奥で、警告のような鈍い音が鳴り始めた。

 心臓が、速い。速すぎる。



 歯を食いしばった。



 中枢から、一本目。生命機能との境界をなぞる。殺意の線だけを、そっと——外す。

 次。二本目。境界を読む。外す。

 三本目——抵抗が、強い。指先を押し返してくる。それでも、外す。

 四本目。殺意の線だと思って、指をかけた——その瞬間、トールの呼吸が、ひゅっと、途切れた。

 とっさに、指を離す。——読み違えた。これは、命に繋がっている線だ。見た目では、殺意の線と区別がつかない。境界は、私が、なぞるしかない。一本、外すたびに——トールの命を、賭けている。

 息を、整える。もう一度、なぞり直す。今度こそ、殺意の線だけを。外す。



 一本消して、影響を見て。次を消して、影響を見て。



 時間がかかる。額から汗が流れる。視界がぼやける。

 魔力が削られていく。体の芯が、底から冷えていく。

 歯がカチカチと鳴っている。寒い。



 視界の端に、フィーネが立っていた。

 手を半分、上げかけて、止まっている。

 眼鏡の奥の目が——揺れていた。大丈夫、と伝えたかった。声は、出なかった。



 何本目だ。分からない。数えるのをやめた。

 指先の感覚が、消え始めている。コードに触れているのは分かる。でも、触れている自分の指の温度が、もう分からない。

 息が、浅い。吸っても、入ってこない。

 一瞬、意識が揺らいだ。集中しろ。……鼓動が、鈍くなっていく。

 ——『最悪、お主が死ぬ』。ソロンの声が、遠くで蘇った。……これが、その「最悪」に、近づいている感覚なのか。

 手を止めたくなる。止めれば、楽になる。——でも、止めたら、ユーゴが何のために死んだか分からなくなる。

 ……次の枝へ。



 トールの体の痙攣が、少しずつ収まっていく。——届いている。



 ——最後の一本まで来た。中枢の、核。殺意プログラムの根幹。

 これを消せば——



 でも、線が太い。これまで切ってきた枝とは、桁が違う。

 手を伸ばした。アルミ玉を握る手が、強張る。核に近づいた途端、術式の反発が桁違いに重い。指先が、弾き返される。

 削る。少しずつ。当てた瞬間、また弾かれる。指を当て直す。また、弾かれる。

 反発が、腕を駆け上がってくる。肘が、肩が、内側から焼ける。脳の奥で、警告音が鳴り続けている。

 削っているのか、削られているのか——もう、判別がつかない。

 それでも、当てる。削る。滑る。当てる。

 根気だけが、頼りだった。

 そして——。



 ……消した。



 膝が折れた。

 地面に手をついた。視界が、白く濁る。耳鳴り。

 ——ミルシェの時の比じゃない。体の中身を全部絞り出したような消耗。指先の感覚がない。

 心臓の音が、遅い。鈍い。視界の端が、黒く滲み始めた。

 体が、ぐらりと傾いた。——やばい。これは、戻ってこられない側の感覚だ。



 気配。フィーネが、踏み出した。

 ——来ないで。片手だけ上げて、制した。腕が、鉛みたいに重い。

 気配が、半歩手前で止まる。

 キリヤは——動かない。鎖を保持したまま、ただ、見ている。



 その時——術式の残骸の向こうに、まだ動いているコードが見えた。

 ——殺意プログラムが視界を埋めていた間は、見えていなかった部分。除去された分、奥が露わになった。

 別の系統だ。さっきまでの殺意プログラムとは、構造そのものが違う——もっと複雑な、絡み合った形態。魔族化された体そのものを支えているコードだ。

 あれを消せば、トールは元に戻れるのか——いや。



 ……生命機能と、分かちがたく編み込まれている。どこまでが術式で、どこからがトール本人なのか——境界が、ない。

 消耗しきった今の体では、この奥までは——保たない。



 ……それでも、コードは、読める。

 指は——まだ、動く。

 ——あと、少しだ。あと少しで、「完了」する。

 中途半端は、嫌だ。やりかけて、投げ出すのが——一番、許せない。

 頭の奥で、何かが、押し上がってくる。理屈じゃない。「終わらせなきゃ」という、衝動だけが、燃えている。

 ——理性は「無理」と言っている。それを、押しのけて、手が動いた。



 核のあった場所のさらに奥——別系統の表面に、指先が触れた瞬間。

 視界が、白く弾けた。胸の奥で、何かが跳ねる。喉の奥に、鉄の味。

 咳。手の甲で口元を覆うと——指先に、赤いものが、付いた。

 ——血だ。



 ——あと、少し、なのに。

 腕が、言うことを聞かない。それでも、当てる。当てる。滑る。

 また、当てる。



「——ユズリハさん!」



 フィーネが踏み込んだ。さっきの半歩手前を、越えて。肩を、掴まれる。物理的に、引き剥がされそうになる。

 ——だめ、まだ、終わってない。それでも、フィーネの手を、振り解いた。気力だけで。

 動くのに——自分の指の重さを、もう支えられない。



 ——『撤退すべき時に、意地を張るな』。



 フィルの声が、耳の奥で鳴った。

 吊った左腕で、淡々と、私を見ていた、あの目。

 ——『俺がこうなったのは、その判断を一手遅らせたからだ』。



 ……ああ。

 ここで潜れば、私は——上がってこられない。一手遅らせれば——終わる。それを、私の体が先に知っているから、フィルの声を引っ張り出してきたのか。



 ——でも。

 コードは、まだ、見える。指は、まだ動く。あと、一回——

 止まれ、と、自分に命じる。

 止まらない。

 ——フィルも、こう思ったのか。「あと一回」「もう少し」と。

 あの人は、左腕を吊ることで、止まった。私は——? 心臓か、脳か。代償は、もう取り返せない。



 ……それでも、手は動こうとしている。

 ——止まれ。

 ——止まれ。



 ——ごめん、トール。完全には、戻せない。



 コードから、指を、剥がす。粘ついた糸を引くように、指先が残ろうとする。意志で、力で、一本ずつ、引き剥がした。

 最後の一本が、離れた瞬間——術式が、視界から消えた。



 ——ユーゴは、間に合わなかった。

 トールは、半分。

 どっちにも——届かなかった。



 呼吸を、しているはずなのに。吸った空気が、どこにも届かない。

 視界の黒は、端に貼りついたまま、剥がれない。耳鳴りも、喉の奥の鉄の味も、引かない。

 体の芯から抜けたものは——止めても、すぐには、返ってこない。



 肩に、手が、かかった。さっき振り解いた手だ。傾きかけた背中を、横から、ただ、支えてくれている。

 フィーネ自身も、半分、崩れた姿勢だった。それでも、私が倒れないように。

 ——ごめん。胸の中だけで、言った。



「ユズリハ君。無理は、もういい」



 キリヤの声が、低く降りてきた。鎖を保持したまま、視線だけがこちらを向いている。咎める色はない。確認の声だった。

 頷くのが、精一杯だった。



 顔を上げる余力がない。

 ただ——静かだった。さっきまで鎖の中から聞こえていた「殺す」が、止まっている。

 それでも——顔を上げた。



 トールの体から、力が抜けている。

 赤い目が——薄れている。完全には消えない。うっすらと赤みが残っている。

 角も——消えない。小さな角が、側頭部に残ったまま。体は、魔族のまま。



 でも。

 殺意は——消えた。



「……ぅ……」



 トールの口から、声が漏れた。

 「殺す」ではない。意味のない、でも——意識のある声。



「……ここ……どこ……」



 目が開いた。赤みの残る瞳。でも、その奥に——知性の光がある。

 トールの意識が、戻っている。



 私はキリヤを見た。

 キリヤは——トールを見ていた。鎖は、まだ解かれていない。視線も、トールから外さない。



 トールが、自分の体を見回した。鎖。紋様。角。

 断片的な記憶を辿るような、戸惑った目。頭を抱えようとして、鎖に阻まれて、手が止まった。



「なに……これ……俺、なんで……」



 トールの声が震えていた。

 周囲を見回す。折れた木。えぐれた地面。血痕。

 視線が、自分の手に落ちた。指先に、血が乾いていた。



「……ユーゴは」



 トールが聞いた。

 私を見て。フィーネを見て。



「ユーゴは……どこ……」



 私は——答えられなかった。フィーネも目を伏せた。

 トールの視線が、倒れた人影を捉えた。

 唇が動いた。声になっていない。トールの肩が、波打った。鎖の中で、何度かもがいた。

 ——暴れる動きではない。鎖の中で、ただ、震えていた。



 キリヤが、その動きをしばらく見ていた。

 穏やかな顔のまま、動かない。やがて、片手を上げた。

 紫の鎖が、ゆっくりと——七重から、糸のように細い一本に。

 トールの片腕に絡みついたまま——万一の再発に備えた、最低限の繋がりだけが残された。



 トールが、よろめきながら立ち上がった。

 焦げて千切れた服が、肩からはらりと垂れ下がっている。

 ユーゴのもとに、よろめきながら歩いていく。



「ユーゴ……?」



 ユーゴの前にしゃがみ込んだ。動かない体。開いたままの目。



「嘘だ。なんで。なんで——」



 トールの声が裏返った。



「俺が……俺がやったのか……?」



 誰も答えなかった。



 トールの手が、ユーゴの肩を掴んだ。揺すった。



「起きろよ……起きてくれよ……」



 返事はなかった。



 キリヤが、静かに歩み寄った。

 膝をついて、ユーゴの開いたままの目を——そっと閉じた。



 霞んだまま、私は空を見上げた。

 朝の光が、木々の隙間から差し込んでいる。鳥が鳴いている。穏やかな朝だ。

 穏やかな朝に——少年が一人、死んでいる。

 アルミ玉を握っていた手を、開いた。掌に、玉の形が、白く残っている。



 トールは、ユーゴから目を離さない。鎖の中で、肩を揺すり続けている。



 その時——キリヤが、ふと顔を森の奥へ向けた。穏やかな笑みのまま。

 遅れて、私も気付く。——気配。



「——見つけた。やはり近くで見ていたんだね」



 キリヤの声が、低くなった。空いた片手を、森の奥へ向ける。紫の光が糸のように伸び——その先に、手応え。



 引きずり出されたのは、マントを深く被った人影だった。フードからこぼれた長い銀の髪が、後ろで一つに束ねられている。マントが揺れ、胸元の黒い石の首飾りが——内側から、一瞬、火のように光った。フードの陰の、金色の瞳が、こちらを射る。



 キリヤの唇が、短く一節を刻んだ。紫の光が、研ぎ澄まされた一本の杭になり、人影の中心へ打ち込まれる。貫いた光が、内側で、何かに組み直されていく。



「ぐあああっ」



 フードの男が、悶えるように声を上げた。

 キリヤが、トールに視線を投げる。



「トール君。——少しの間、解く。逃げないでくれ」



 迷いのない声。トールの腕の薄い鎖が、ふっと消えた。キリヤの両手が自由になり、森へ向き直る——その、一瞬だった。

 空気が、ぐにゃりと歪んだ。フードの男の輪郭が、内側へ折り畳まれて——掻き消えた。



「……逃げられたか。抜け目ない」



 軽い口調。でも、紫水晶の瞳の奥は——硬い。

 森が、また静かになる。ユーゴは、まだそこに横たわっている。キリヤが閉じた、その目のまま。

 頭の芯に、また膜が下りる。森から男が引きずり出されて、消えた——それすら、遠くで起きた誰かの出来事みたいに、像を結ばない。それでも、訊かなければならない気がして、口だけが動いた。



「キリヤさん。今のは——」



 絞り出した声は、自分のものとは思えないほど、掠れていた。



「……以前、森でユズリハ君に何かを放ったのは、おそらく彼だ。——エルフの魔力だった。魔の始祖側の者だろうね」



 息を、呑んだ。

 ——あの時か。背中側に、気配も音もなく飛んできた、あれ。あれが、エルフだったのか。キリヤと——同じ。



 キリヤが、紫の鎖をもう一度トールの腕に薄く絡め直し、トールに視線を向けた。



「トール君。——今の人物に、見覚えはあるかい」



 トールの唇が、震える。



「……前、村に来てました。それで……夢にも出てきて……」



 言葉が、途切れる。



「今回の黒幕は、恐らく彼だろうね。——あの(くさび)で、彼の魔力は縛れた。しばらくは、大規模な術式を扱えない」



 キリヤが、片手を前にかざした。紫の光が、地面を撫でるように森へ広がっていく。



「念のため応急の結界を、村までの道に張ろう。完全ではないけれど——しばらくは持つ。一旦、撤収しよう」



 立ち上がる力もない私と、ユーゴの止血で魔力を絞り切ったフィーネは、何も返せなかった。

 でも、誰もすぐには動けなかった。

 森に音がない。鳥も虫も、まだ戻ってきていない。



 ——あの男は、何者だったのか。

 金色の瞳。最後に捉えていたのは——私だった。



 ——村に、私たちは、何を持って帰るんだろう。

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