殺さないで
キリヤが動いた。
速い——穏やかな副支部長の顔が、一瞬で消えていた。代わりに残ったのは、研ぎ澄まされた集中だけ。初めて見る顔だ。普段の穏やかさが——剥がれ落ちた、別物の顔。
片手を振ると、紫色の魔力の鎖がトールの四肢に絡みついた。
ただ縛るだけじゃなかった。鎖が——食い込んでいる。皮膚が裂け、肉が抉れる。それでも血は流れない。傷口の縁が黒く焦げている。アルミ玉越しに見ると、トールの魔族の術式が伸びようとしては、鎖の前で何度も止められていた。
トールが身を捩る。鎖が軋む。だが——切れない。圧倒的な魔力差。
鎖は、五重。拘束、痛覚維持、修復阻害、術式抑制——ここまでは、見える。
——これが、副支部長の本気か。
トールの喉から、悲鳴が漏れた。
吐き気がした。視線を逸らしかけて——直前に止めた。
「よく、見ていなさい」と言われたのを、思い出した。
——なぜ、見ろと言ったんだ。これから——殺すつもりなのか。それを、私に見せようとしているのか。命じる声でも、諭す声でもなかった。
ぐっと奥歯を噛みしめながら、視線を戻す。
キリヤの表情は——変わらない。息も乱れていない。
トールが鎖の中で暴れている。「殺す」「殺す」——同じ言葉だけを繰り返している。鎖が、ぎりぎりと軋む。
その魔力出力を、キリヤの鎖がすべて吸収していた。一切緩まない。
効果の絡み方が、緻密すぎる。痛覚を残しながら拘束を維持する、均衡——。
目が、離せなくなっていた。
その時——
「ユーゴ!」
フィーネの叫びで、頭が跳ね上がった。
振り返ると、フィーネが既にユーゴの傍らにいた。氷の魔法で傷口を圧迫している。
——ユーゴ。駆け寄った。膝をついた。上体を起こす。
——胸が、陥没していた。トールの拳がめり込んだ場所。服の下から、血が広がっている。口の端からも、流れていた。呼吸が、浅い。空気が、何か変な音で漏れている。
ユーゴを支えた手が、温かいもので濡れた。——血だ。生々しく、温かい。こんな量の人の血を見たのは、初めてだった。前の世界でも、こっちに来てからも。多すぎる。指が、震えた。
頭の片隅で、まだキリヤの鎖の音が聞こえている。トールの悲鳴も。
「ユーゴ! しっかりしろ!」
フィーネの手が震えていた。
「……止血が、追いつきません」
フィーネの声が、かすれた。
——表面の傷を塞いでも、止まらない。体の内側で、何かが裂け続けている。
クソ——何かないのか。治癒魔法は使えない。ハッキングで傷は治せない。
キリヤは——鎖を握ったまま、動けない。あれを離せば、トールが暴れ出す。
考えろ。今まで全部、何とかしてきただろう。見えないなら見えるようにした。使えないなら使えるものを探した。
——何も出てこなかった。
ユーゴの、浅い呼吸の音だけが、近かった。
ふと——背後で、鎖の音が変わった。
軋みが、和らいだ。トールの悲鳴が、低くなる。拘束は完全なままで、削る圧だけが——緩んだ。
顔を上げる余裕はなかった。
ユーゴが、私の袖を掴んだ。弱い力。指先だけの、力。
血の気の引いた顔。それでも、目は——私を、まっすぐ捉えていた。
口が動く。何かを言おうとしている。
「ユーゴ、喋るな——」
それでも、ユーゴは絞り出すように——
「トールを……殺さないで……」
……何か答えなきゃ。でも、喉が動かなかった。
ユーゴの手の上に、自分の手を重ねた。ぎゅっと、握った。
ユーゴの指が、わずかに握り返した。
焚き火を囲んだ夜——「認定試験に合格した時、人生で一番嬉しかった」と、誰よりも嬉しそうな声で語っていた。出会った日も、何気なく一言かけただけで、子犬みたいに目を輝かせていた。
——その同じ顔が、いま、腕の中で苦しそうに歪んでいる。血の気が引いて、息が浅い。輝いていたあの目が、薄く濁って、焦点が合わない。
胸の奥が、軋んだ。息が、浅くなる。ユーゴの息と、同じだけ浅くなる。
何かを言わなきゃ、と頭の中が鳴っている。鳴っているのに、口は動かない。
「ユズリハさん……ごめん、ね……」
声が、ほとんど息だった。
……謝るな。あんたのせいじゃない。握る指に力を籠める。
「ユーゴ——」
手の力が——抜けた。
指の力を緩めると、握り返してくれていた指が、するりと滑り落ちた。
ユーゴの目が、空を見ていた。何も映していない目だった。
唇が、半端に開いたまま——もう、動かなかった。
「——ユーゴ」
返事はなかった。
肩を、そっと揺すった。動かない。さっきまで漏れていた、空気の変な音が——止まっている。
胸も、動いていない。手首に指を当てた。脈は——ない。
フィーネの手が止まった。氷が溶けて、血と混じって地面に広がった。
フィーネが俯いた。髪が垂れて、表情を隠していた。
——音が、遠かった。
風の音も、葉の擦れも——どこか膜越しに、ぼやけて聞こえる。
自分の呼吸だけが、妙に近い。時間が、流れているのか、止まっているのか——分からなかった。
——『命の買い取り価格』。
ソロンに、いつか教わった言葉。
冒険者の高い報酬は、いつか散る命への手付金——頭では、分かった。でも、その重さまでは、分かっていなかった。
その『散る命』が、いま、私の腕の中にある。
ユーゴの手を、そっと地面に置いた。指先が、まだ温かかった。
顔を、横に動かす。
鎖の中で、トールが、暴れるのをやめていた。荒い息が続いている。目から、涙が一筋——流れている。
その向こうに、キリヤがいた。
いつもの微笑みは、消えていた。表情が硬い。私たちを——じっと、見ていた。
「……ユーゴ君」
キリヤの声が、低くなった。一瞬、目を伏せて——それから、視線をトールに戻す。
「彼には、けじめをつけてもらう。君たちも、よく見なさい。これは——我々魔法協会員としての、責務だ」
キリヤが片手を上げた。紫の鎖が、わずかに動いた。
——『けじめ』。
その言葉の輪郭が、遅れて頭に降りてくる。
キリヤは——トールを、殺すつもりだ。今、ここで。
——『トールを……殺さないで……』
ユーゴの、最後の声が——耳の奥で蘇った。
「——待って!!」
咄嗟に、声が出ていた。
膝が震える。それでも、立ち上がる。
——もう、やるしかない。
キリヤの前に進み出た。
「拘束だけにしてください。——殺さないで」
キリヤが、トールから視線を上げて私を見た。
「——なぜ?」
「彼の……殺意を、無力化できるかもしれない」
キリヤの目が、わずかに細められた。
「以前、私は魔物の殺意を、切り離したことがあります」
——「魔物」と置いた。ミルシェは魔族だ。でも、あの子のことを、キリヤに渡す気はなかった。
「それに——さっき、ユーゴが『思い出せ』と叫んだ時、トールは一瞬止まりました。『やめ』と、自分に向かって呟いた。あの中に、トールはまだいます」
「——魔族に、同じことができるのかい?」
——分からない。魔族の体。殺意の本体がある。出力が違う。森鼠で一本、ミルシェで三箇所——トールは?
『最悪、お主が死ぬ』。ソロンの声が、また蘇る。
失敗の代償は、私の命。
飲み込んだ。
「やらせてください」
キリヤが、しばらく私を見ていた。何も読み取らせない目で。
やがて、低い声が降ってきた。
「彼は、人を殺した。その事実は変わらない。ここで殺意を取り除いたとして——何になる」
穏やかな顔のまま、刃のような問いだった。
「……ユーゴの、遺言なんです。トールを、殺さないでって」
言葉が、勝手に出てきた。
——でも、それだけじゃない。
さっき、私はトールを殺そうとした。羽虫を放って、皮膚を齧らせた。それなのに、絶叫を聞いた瞬間、手が勝手に羽虫を散らした。覚悟だと思っていたものは、覚悟じゃなかった。私だって、本当は——殺したくなかったんだ。
——「人を殺した」、だって? 胃の底から、何かが押し上がってくる。
あの子は、好きで魔族になったわけじゃない。好きでユーゴを殴ったわけじゃない。誰かに勝手に書き換えられて、操られて、自分の体まで奪われて——それで「人を殺した」と、裁かれるのか。
——ふざけるな。拳が、勝手に握られていた。
「それに——ユーゴを殺したのは、トールじゃない! あの子は、理不尽に操られて、魔族化されて、支配されているだけじゃないですか」
息が、足りない。それでも、続けた。
「私は……殺さずに、止めたい」
キリヤの紫水晶のような瞳が——わずかに、揺れた。
ほんの一瞬で、すぐに元に戻った。
でも、確かに——動いた。
やがて、キリヤがもう一度、片手を上げた。紫の鎖が、太く絡まり直す。
トールの拘束が、五重から——七重に増えた。完全に固定する形に。
「君のやり方を、見せてもらおう。——鎖は、僕が持つ」
静かな声だった。さっきまでの刃のような鋭さは、もう、なかった。
拒絶でも、許可でもない。けれど、道が、開いた。
トールに向き合う。
鎖の中のトールが、涙の跡を残した赤い目、苦しそうな顔でこちらを見ている。
あの体の奥で、殺意の本体が、まだ脈打っているのが見えた。
——握り返してくれた指の感触を、忘れない。
ユーゴの最後の声を、果たしに行く。
アルミ玉を握り直して、一歩を踏み出した。
戻ってこられないかもしれない、その一歩を。




