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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
魔法協会任務編

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殺さないで

 キリヤが動いた。

 速い——穏やかな副支部長の顔が、一瞬で消えていた。代わりに残ったのは、研ぎ澄まされた集中だけ。初めて見る顔だ。普段の穏やかさが——剥がれ落ちた、別物の顔。

 片手を振ると、紫色の魔力の鎖がトールの四肢に絡みついた。

 ただ縛るだけじゃなかった。鎖が——食い込んでいる。皮膚が裂け、肉が抉れる。それでも血は流れない。傷口の縁が黒く焦げている。アルミ玉越しに見ると、トールの魔族の術式が伸びようとしては、鎖の前で何度も止められていた。

 トールが身を捩る。鎖が軋む。だが——切れない。圧倒的な魔力差。

 鎖は、五重。拘束、痛覚維持、修復阻害、術式抑制——ここまでは、見える。



 ——これが、副支部長の本気か。



 トールの喉から、悲鳴が漏れた。

 吐き気がした。視線を逸らしかけて——直前に止めた。

 「よく、見ていなさい」と言われたのを、思い出した。

 ——なぜ、見ろと言ったんだ。これから——殺すつもりなのか。それを、私に見せようとしているのか。命じる声でも、諭す声でもなかった。

 ぐっと奥歯を噛みしめながら、視線を戻す。



 キリヤの表情は——変わらない。息も乱れていない。

 トールが鎖の中で暴れている。「殺す」「殺す」——同じ言葉だけを繰り返している。鎖が、ぎりぎりと軋む。

 その魔力出力を、キリヤの鎖がすべて吸収していた。一切緩まない。



 効果の絡み方が、緻密すぎる。痛覚を残しながら拘束を維持する、均衡——。

 目が、離せなくなっていた。



 その時——



「ユーゴ!」



 フィーネの叫びで、頭が跳ね上がった。

 振り返ると、フィーネが既にユーゴの傍らにいた。氷の魔法で傷口を圧迫している。

 ——ユーゴ。駆け寄った。膝をついた。上体を起こす。

 ——胸が、陥没していた。トールの拳がめり込んだ場所。服の下から、血が広がっている。口の端からも、流れていた。呼吸が、浅い。空気が、何か変な音で漏れている。

 ユーゴを支えた手が、温かいもので濡れた。——血だ。生々しく、温かい。こんな量の人の血を見たのは、初めてだった。前の世界でも、こっちに来てからも。多すぎる。指が、震えた。

 頭の片隅で、まだキリヤの鎖の音が聞こえている。トールの悲鳴も。



「ユーゴ! しっかりしろ!」



 フィーネの手が震えていた。



「……止血が、追いつきません」



 フィーネの声が、かすれた。

 ——表面の傷を塞いでも、止まらない。体の内側で、何かが裂け続けている。

 クソ——何かないのか。治癒魔法は使えない。ハッキングで傷は治せない。

 キリヤは——鎖を握ったまま、動けない。あれを離せば、トールが暴れ出す。

 考えろ。今まで全部、何とかしてきただろう。見えないなら見えるようにした。使えないなら使えるものを探した。



 ——何も出てこなかった。

 ユーゴの、浅い呼吸の音だけが、近かった。



 ふと——背後で、鎖の音が変わった。

 軋みが、和らいだ。トールの悲鳴が、低くなる。拘束は完全なままで、削る圧だけが——緩んだ。

 顔を上げる余裕はなかった。



 ユーゴが、私の袖を掴んだ。弱い力。指先だけの、力。

 血の気の引いた顔。それでも、目は——私を、まっすぐ捉えていた。

 口が動く。何かを言おうとしている。



「ユーゴ、喋るな——」



 それでも、ユーゴは絞り出すように——



「トールを……殺さないで……」



 ……何か答えなきゃ。でも、喉が動かなかった。

 ユーゴの手の上に、自分の手を重ねた。ぎゅっと、握った。

 ユーゴの指が、わずかに握り返した。



 焚き火を囲んだ夜——「認定試験に合格した時、人生で一番嬉しかった」と、誰よりも嬉しそうな声で語っていた。出会った日も、何気なく一言かけただけで、子犬みたいに目を輝かせていた。

 ——その同じ顔が、いま、腕の中で苦しそうに歪んでいる。血の気が引いて、息が浅い。輝いていたあの目が、薄く濁って、焦点が合わない。

 胸の奥が、軋んだ。息が、浅くなる。ユーゴの息と、同じだけ浅くなる。

 何かを言わなきゃ、と頭の中が鳴っている。鳴っているのに、口は動かない。



「ユズリハさん……ごめん、ね……」



 声が、ほとんど息だった。

 ……謝るな。あんたのせいじゃない。握る指に力を籠める。



「ユーゴ——」



 手の力が——抜けた。

 指の力を緩めると、握り返してくれていた指が、するりと滑り落ちた。

 ユーゴの目が、空を見ていた。何も映していない目だった。

 唇が、半端に開いたまま——もう、動かなかった。



「——ユーゴ」



 返事はなかった。

 肩を、そっと揺すった。動かない。さっきまで漏れていた、空気の変な音が——止まっている。

 胸も、動いていない。手首に指を当てた。脈は——ない。

 フィーネの手が止まった。氷が溶けて、血と混じって地面に広がった。

 フィーネが俯いた。髪が垂れて、表情を隠していた。



 ——音が、遠かった。

 風の音も、葉の擦れも——どこか膜越しに、ぼやけて聞こえる。

 自分の呼吸だけが、妙に近い。時間が、流れているのか、止まっているのか——分からなかった。



 ——『命の買い取り価格』。

 ソロンに、いつか教わった言葉。

 冒険者の高い報酬は、いつか散る命への手付金——頭では、分かった。でも、その重さまでは、分かっていなかった。

 その『散る命』が、いま、私の腕の中にある。

 ユーゴの手を、そっと地面に置いた。指先が、まだ温かかった。



 顔を、横に動かす。

 鎖の中で、トールが、暴れるのをやめていた。荒い息が続いている。目から、涙が一筋——流れている。

 その向こうに、キリヤがいた。

 いつもの微笑みは、消えていた。表情が硬い。私たちを——じっと、見ていた。



「……ユーゴ君」



 キリヤの声が、低くなった。一瞬、目を伏せて——それから、視線をトールに戻す。



「彼には、けじめをつけてもらう。君たちも、よく見なさい。これは——我々魔法協会員としての、責務だ」



 キリヤが片手を上げた。紫の鎖が、わずかに動いた。

 ——『けじめ』。

 その言葉の輪郭が、遅れて頭に降りてくる。

 キリヤは——トールを、殺すつもりだ。今、ここで。



 ——『トールを……殺さないで……』

 ユーゴの、最後の声が——耳の奥で蘇った。



「——待って!!」



 咄嗟に、声が出ていた。

 膝が震える。それでも、立ち上がる。

 ——もう、やるしかない。



 キリヤの前に進み出た。



「拘束だけにしてください。——殺さないで」



 キリヤが、トールから視線を上げて私を見た。



「——なぜ?」


「彼の……殺意を、無力化できるかもしれない」



 キリヤの目が、わずかに細められた。



「以前、私は魔物の殺意を、切り離したことがあります」



 ——「魔物」と置いた。ミルシェは魔族だ。でも、あの子のことを、キリヤに渡す気はなかった。



「それに——さっき、ユーゴが『思い出せ』と叫んだ時、トールは一瞬止まりました。『やめ』と、自分に向かって呟いた。あの中に、トールはまだいます」


「——魔族に、同じことができるのかい?」



 ——分からない。魔族の体。殺意の本体がある。出力が違う。森鼠で一本、ミルシェで三箇所——トールは?

 『最悪、お主が死ぬ』。ソロンの声が、また蘇る。

 失敗の代償は、私の命。

 飲み込んだ。



「やらせてください」



 キリヤが、しばらく私を見ていた。何も読み取らせない目で。

 やがて、低い声が降ってきた。



「彼は、人を殺した。その事実は変わらない。ここで殺意を取り除いたとして——何になる」



 穏やかな顔のまま、刃のような問いだった。



「……ユーゴの、遺言なんです。トールを、殺さないでって」



 言葉が、勝手に出てきた。

 ——でも、それだけじゃない。

 さっき、私はトールを殺そうとした。羽虫を放って、皮膚を齧らせた。それなのに、絶叫を聞いた瞬間、手が勝手に羽虫を散らした。覚悟だと思っていたものは、覚悟じゃなかった。私だって、本当は——殺したくなかったんだ。

 ——「人を殺した」、だって? 胃の底から、何かが押し上がってくる。

 あの子は、好きで魔族になったわけじゃない。好きでユーゴを殴ったわけじゃない。誰かに勝手に書き換えられて、操られて、自分の体まで奪われて——それで「人を殺した」と、裁かれるのか。

 ——ふざけるな。拳が、勝手に握られていた。



「それに——ユーゴを殺したのは、トールじゃない! あの子は、理不尽に操られて、魔族化されて、支配されているだけじゃないですか」



 息が、足りない。それでも、続けた。



「私は……殺さずに、止めたい」



 キリヤの紫水晶のような瞳が——わずかに、揺れた。

 ほんの一瞬で、すぐに元に戻った。

 でも、確かに——動いた。



 やがて、キリヤがもう一度、片手を上げた。紫の鎖が、太く絡まり直す。

 トールの拘束が、五重から——七重に増えた。完全に固定する形に。



「君のやり方を、見せてもらおう。——鎖は、僕が持つ」



 静かな声だった。さっきまでの刃のような鋭さは、もう、なかった。

 拒絶でも、許可でもない。けれど、道が、開いた。



 トールに向き合う。

 鎖の中のトールが、涙の跡を残した赤い目、苦しそうな顔でこちらを見ている。

 あの体の奥で、殺意の本体が、まだ脈打っているのが見えた。



 ——握り返してくれた指の感触を、忘れない。

 ユーゴの最後の声を、果たしに行く。

 アルミ玉を握り直して、一歩を踏み出した。



 戻ってこられないかもしれない、その一歩を。

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