変わり果てた友
吐き気がした。
殺意そのものが、圧として伝わってくる。見ているだけで、体が拒絶する。
「人間を殺せ」——そういう命令が、コード全体に染み渡っている。
殺意プログラムは、人間の体に後から無理やり刻まれていた。元の構造を押し潰すように。
——やはりトールは人間だ。人間なのに、魔族の術式を刻み込まれている。
そしてその術式が、彼の容姿――角、目の色、紋様に影響している。
膝が震えていた。
アルミ玉を持つ手に、力を入れ直した。
殺意のコードが周囲を呑み込みながら広がっていく。少しずつ、だが確実に、トールの中の「人間」が削られていく。
でも——押し返している。まだ。
「キリヤさん」
フィーネの声が、震えていた。
「あれは……何なんですか」
キリヤが、ようやく口を開いた。
「……魔族だ。それも、なり立ての」
「魔族って。……人間が、魔族になるんですか?」
ユーゴの声がかすれた。
「あの子は、魔族化した。——詳しい話は後だ」
キリヤがそれだけ言って、口を閉じた。
ユーゴの顔から血の気が引いていった。
「トールは戻れる……んですか。人間に」
ユーゴが、すがるような目でキリヤを見た。
「……いいかい、ユーゴ君。彼を人間だとは、もう思わないことだ。僕たちは、魔法協会員として彼と戦う」
キリヤが、静かに告げた。
ユーゴが、目を見開いた。
「それって……殺せってことですか?」
ユーゴの声が、震えていた。
キリヤは答えなかった。穏やかな目のまま、トールを見ている。
「『やめろ』って自分に言ってた。ユーゴの名前も覚えてた。——トール自身が、まだ中にいて、抗ってるように見えます」
——「見える」じゃない。アルミ玉越しに、確信している。
でも、今ここで言葉にすれば、私の手の内まで晒すことになる。
キリヤが——わずかに眉を動かした。
フィーネが氷槍を構えたまま、じっとトールを見ていた。
「キリヤさん。——魔族化した人間が、人間に戻った前例は、ありますか」
フィーネが言った。氷槍を構えたまま、視線はトールに向けている。
「……僕の知る限りは、ない」
キリヤが、静かに答えた。ユーゴが、息を呑む。フィーネが眼鏡を押し上げた。
「……痙攣するたびに、角が少し伸びている。これが暴走状態の正体でしょうか。苦しんでいるように見えますが——今のうちに仕留めた方が、早い——ということですか」
——眼鏡の縁に触れたフィーネの指は、震えていない。
「そうだ」
キリヤが、短く答えた。
「待ってください! 俺は……殺せません」
ユーゴが、絞り出すように言った。拳を握ったまま、それでも引かない。
——私もだ。殺したくない。
ふと、ミルシェの顔が浮かんだ。あの時は、空回りしていた呼び出し口を三箇所、順に塞いだ。それで足りた——ミルシェには、本体がなかったから。
——同じことを、トールにすれば――。殺意の本体はある。でも、呼び出し口を全部塞げれば——命令は、呼び出されなくなる。空を切る。トールは魔族化された体のまま、それでも殺意のない、人間に近い何かに——戻れるかもしれない。
——でも、代償が計算できない。トールの術式は、ミルシェの時より遥かに重い。激しく脈打っている。それに触れて、無事で済むのか。ソロン先生の声が蘇る。「最悪、お主が死ぬ」。
成功する保証も、ない。ミルシェは無抵抗だった。赤い目でまっすぐ私を見て、信じきって、術式を預けてくれた。だから手の感覚で境界をなぞれた。
トールはそうとも限らない。呼び出し口の数も読めない。一つ間違えれば、生命維持の線に触れる。
失敗すれば——トールも、私も。
頭の中で、最悪の像が次々と組み上がっていく。
しかも今は、戦闘中だ。触れられる距離じゃない。術式も詳細に見えない。
その時——トールの体が、痙攣した。
目の赤みが、一瞬で濃くなった。
紋様が体中に広がる。角が、わずかに伸びた。
さっきまで抵抗していたトールの意識が——飲み込まれていく。
トールの口が開いた。
「……殺す」
トールの声だった。でも、トールの言葉ではない。
体から衝撃波が放たれ、地面が揺れた。
「ユーゴ君、石柱で壁を!」
キリヤの声が飛んだ。
ユーゴが反射的に石柱を展開し、四人の前に防御壁を張った。
トールが——いや、もはやトールではない何かが——こちらに向かって突進してきた。
動きが滅茶苦茶だ。技術がない。本能だけで暴れている。腕の振り方も足の運びも、人間の動きではない。体の使い方を分かっていない。
でも、一撃が重い。石柱にぶつかり、亀裂が走る。森で見た、木の幹に空いた拳大の穴。岩の亀裂、めくれ上がった土。あれを空けた力が、いま叩きつけられている。ぶつかるたびに、亀裂が広がる。
フィーネが氷槍を放った。——脚。胸ではない、頭でもない。
氷槍が太ももを貫いた。トールが、一瞬よろめく。
でも、すぐに動き出した。傷口を意に介さない。フィーネが次の氷槍を構えた。今度は肩。
——最初から急所を外している。
「ユズリハ君。——君ならどう対処する」
キリヤの声が、後ろから飛んできた。
指示でもなく、共闘の合図でもない。問いかけ。
——この状況で、それを聞くのか。石柱の亀裂が、広がっていく。考える時間はない、それでも答えなければ。
キリヤは、殺せと言う。フィーネは氷槍を構え直している。ユーゴは石柱の中で、拳を握ったまま動けないでいる。
私は——殺したくない。
頭の中で、手持ちを並べる。「殺さずに、止められる」やつ——。
バグ・スウォーム——千発単位で削り殺す蟲。撃てば、トールが削られて死ぬ。論外。
フロスト・バグ——群で凍らせる。部分的に凍らせることも可能だが、あのパワーを前にしては突破される可能性もある。魔族化した体を止めるには深く凍らせるしかない。深く凍らせれば、組織が壊死する。結局、殺す。
バグ・オイル——足元を奪う。転倒させることはできる。だが背後から頭を打てば、打ちどころ次第で、死ぬ。
バグ・ノイズ——音で集中を乱す。本能で暴れる相手には、乱す「集中」がない。おそらく効かない。
——どれも、引っかからない。
ユーゴの手が震えていた。
握っていた拳が、ふっと開かれた。震えも、止まった。
トールが石柱越しにユーゴを見た。赤い目の中に——一瞬だけ、何かが揺れた。
目の赤みが、わずかに薄れかける。振り上げかけていた腕が、宙で止まる。
でも、それもすぐに赤に呑まれていく。
石柱が、ふっと解けた。崩れたんじゃない——ユーゴが、自分から維持を止めたのだ。
ユーゴの横顔が、見えた。迷いも、震えも、もうそこには無かった。
——焚き火の夜と同じ顔だった。「これで、誰かを守れる側に立てる」と語った、あの顔。
その奥に、窓の前で「俺が見張ってたのに」と絞り出した、あの夜の顔が、重なって見えた。
ユーゴが、トールに向かって一歩を踏み出した。
「ユーゴ君、戻りなさい」
キリヤの声が、低く飛んだ。命令の声。
でも、ユーゴは歩みを止めない。
「ユーゴ!」
フィーネが叫んだ。私の口からも、声が出た。
ユーゴは、振り返らなかった。
「トール! 俺だ! ユーゴだよ!」
声が、まっすぐだった。
「思い出せ! お前、石を五ミリ動かしたじゃないか! あの時、すげえ嬉しそうに笑ったろ!」
トールが——一瞬、止まった。
赤い目が揺れた。両手が、自分の側頭部に伸びかけた。「やめ……」と呟こうとして——
「……ユー、ゴ……?」
かすれた声だった。トールの声だった。
——届いた。あの中に、トールはまだいる。
ユーゴが、息を呑む。それでも、足を止めなかった。さらに一歩、踏み込む。
「そうだ! 俺だよ! お前、『自分で守れるようになりたい』って言ったろ! 親父さん、待ってんだぞ! 畑、誰が守るんだよ!」
声が、震えていた。それでも、まっすぐだった。
トールの口が、何か言いかけて——半端に開いたまま、止まった。
赤い目が、奥から再び濃くなる。側頭部に伸びていた手が、落ちた。
「……殺す」
その言葉と一緒に、トールが拳を振った。
ユーゴの胸に——拳が、めり込んだ。
鈍い音がした。
「ユーゴ!!」
誰の声か、分からない。自分かもしれない。
ユーゴの体が、宙を舞う。
地面に叩きつけられて、動かなくなる。
ユーゴ……。
頭の中が、白くなった。一瞬、何も浮かばなかった。
ユーゴが、地面に倒れている。動かない。一撃の破壊力は想像できる。
息をしているのかも——ここからじゃ、分からない。トールがまだそこにいる。駆け寄れない。
フィーネが氷槍を構えた。今度は——胸を狙っている。
氷槍が放たれ、トールの胸を貫いた。
息を呑んだ。
トールが、自分の胸に手を伸ばす。柄を掴み、引き抜いた。血が、流れない。傷口の縁が、ぐにゃりと盛り上がり、塞がっていく。太ももの貫通痕も、いつの間にか消えている。
——回復している。魔族化した体が、傷を勝手に閉じている。
——氷槍では、止まらない。
奥歯を噛んだ。手が、震えていた。
——『相手が、人語を解する者だったらどうだ?』
ソロンの声。初めて、自分が人を殺せるかを問われた日。
——『躊躇うな。容赦すれば、お主が死ぬ』
ソロン相手に、躊躇いながら魔法を撃った日。
——『覚悟よ』『本気で殺す気がない。……だから読める』
セリアの声。模擬戦の終わり。
——『君たちは、人間を殺したことはあるかい?』
キリヤの声。焚き火の夜、答えなかった問い。
——ずっと、目を背けてきた。
みんな、私に同じことを問うてきた。「人を殺せるか」と。
そのたびに、信じてきた。そんな場面、来ないと。人を殺す日なんて、きっと、来ないと。
——いま、目の前にいる。元人間で、いま、魔族の何か。
魔物なら、迷いなく撃てた。けれど——トールは、元人だ。「人」と「魔族」の見境が、消えている。
——でも、ユーゴが、倒れている。次は、私たちだ。
あの夜、「守りたい側に立ちたい」と笑った顔。石柱を解いて、踏み込んだ背中。「思い出せ」と叫んだ、あの声。
——あれを、無駄にしない。
これ以上、誰も、奪わせない。アルミ玉を握り直した。拳に、力を込める。
——殺す。ユーゴのために。フィーネのために。——いま、ここで、殺し切る。
さっき「論外」と切ったやつだ。それでも——殺し切れるのは、これしかない。
「羽虫の群れ」
手のひらから、羽虫が湧き出した。
今は、出力を絞らない。羽虫の群が、トールの体に殺到する。皮膚を齧る音。焼ける音。腕が、爛れていく。
——殺す。殺し切る。奥歯を噛んだまま、維持する。
その時——
絶叫が、空気を裂いた。トールの、人間の声だった。
「あぁぁぁぁッ——!」
心臓が、跳ねた。動悸がする。命が、削れていく。
——やめて、やめて。手が、勝手に動いた。羽虫が、空中で霧散する。
息が、整わない。指先が、痺れていた。
その時——背後から、空気が動いた。
紫の光が、私の横をすり抜けて、トールへ伸びていく。
キリヤが、私の横を通り過ぎた。
穏やかな顔のまま、トールに向かって歩いていく。
「——よく、見ていなさい」




