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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
魔法協会任務編

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52/65

変わり果てた友

 吐き気がした。

 殺意そのものが、圧として伝わってくる。見ているだけで、体が拒絶する。

 「人間を殺せ」——そういう命令が、コード全体に染み渡っている。



 殺意プログラムは、人間の体に後から無理やり刻まれていた。元の構造を押し潰すように。

 ——やはりトールは人間だ。人間なのに、魔族の術式を刻み込まれている。

 そしてその術式が、彼の容姿――角、目の色、紋様に影響している。



 膝が震えていた。

 アルミ玉を持つ手に、力を入れ直した。

 殺意のコードが周囲を呑み込みながら広がっていく。少しずつ、だが確実に、トールの中の「人間」が削られていく。

 でも——押し返している。まだ。



「キリヤさん」



 フィーネの声が、震えていた。



「あれは……何なんですか」



 キリヤが、ようやく口を開いた。



「……魔族だ。それも、なり立ての」


「魔族って。……人間が、魔族になるんですか?」



 ユーゴの声がかすれた。



「あの子は、魔族化した。——詳しい話は後だ」



 キリヤがそれだけ言って、口を閉じた。

 ユーゴの顔から血の気が引いていった。



「トールは戻れる……んですか。人間に」



 ユーゴが、すがるような目でキリヤを見た。



「……いいかい、ユーゴ君。彼を人間だとは、もう思わないことだ。僕たちは、魔法協会員として彼と戦う」



 キリヤが、静かに告げた。

 ユーゴが、目を見開いた。



「それって……殺せってことですか?」



 ユーゴの声が、震えていた。

 キリヤは答えなかった。穏やかな目のまま、トールを見ている。



「『やめろ』って自分に言ってた。ユーゴの名前も覚えてた。——トール自身が、まだ中にいて、抗ってるように見えます」



 ——「見える」じゃない。アルミ玉越しに、確信している。

 でも、今ここで言葉にすれば、私の手の内まで晒すことになる。

 キリヤが——わずかに眉を動かした。



 フィーネが氷槍を構えたまま、じっとトールを見ていた。



「キリヤさん。——魔族化した人間が、人間に戻った前例は、ありますか」



 フィーネが言った。氷槍を構えたまま、視線はトールに向けている。



「……僕の知る限りは、ない」



 キリヤが、静かに答えた。ユーゴが、息を呑む。フィーネが眼鏡を押し上げた。



「……痙攣するたびに、角が少し伸びている。これが暴走状態の正体でしょうか。苦しんでいるように見えますが——今のうちに仕留めた方が、早い——ということですか」



 ——眼鏡の縁に触れたフィーネの指は、震えていない。



「そうだ」



 キリヤが、短く答えた。



「待ってください! 俺は……殺せません」



 ユーゴが、絞り出すように言った。拳を握ったまま、それでも引かない。

 ——私もだ。殺したくない。

 ふと、ミルシェの顔が浮かんだ。あの時は、空回りしていた呼び出し口を三箇所、順に塞いだ。それで足りた——ミルシェには、本体がなかったから。

 ——同じことを、トールにすれば――。殺意の本体はある。でも、呼び出し口を全部塞げれば——命令は、呼び出されなくなる。空を切る。トールは魔族化された体のまま、それでも殺意のない、人間に近い何かに——戻れるかもしれない。

 ——でも、代償が計算できない。トールの術式は、ミルシェの時より遥かに重い。激しく脈打っている。それに触れて、無事で済むのか。ソロン先生の声が蘇る。「最悪、お主が死ぬ」。

 成功する保証も、ない。ミルシェは無抵抗だった。赤い目でまっすぐ私を見て、信じきって、術式を預けてくれた。だから手の感覚で境界をなぞれた。

 トールはそうとも限らない。呼び出し口の数も読めない。一つ間違えれば、生命維持の線に触れる。



 失敗すれば——トールも、私も。

 頭の中で、最悪の像が次々と組み上がっていく。

 しかも今は、戦闘中だ。触れられる距離じゃない。術式も詳細に見えない。



 その時——トールの体が、痙攣した。

 目の赤みが、一瞬で濃くなった。

 紋様が体中に広がる。角が、わずかに伸びた。

 さっきまで抵抗していたトールの意識が——飲み込まれていく。



 トールの口が開いた。



「……殺す」



 トールの声だった。でも、トールの言葉ではない。

 体から衝撃波が放たれ、地面が揺れた。



「ユーゴ君、石柱で壁を!」



 キリヤの声が飛んだ。

 ユーゴが反射的に石柱を展開し、四人の前に防御壁を張った。

 トールが——いや、もはやトールではない何かが——こちらに向かって突進してきた。

 動きが滅茶苦茶だ。技術がない。本能だけで暴れている。腕の振り方も足の運びも、人間の動きではない。体の使い方を分かっていない。

 でも、一撃が重い。石柱にぶつかり、亀裂が走る。森で見た、木の幹に空いた拳大の穴。岩の亀裂、めくれ上がった土。あれを空けた力が、いま叩きつけられている。ぶつかるたびに、亀裂が広がる。



 フィーネが氷槍を放った。——脚。胸ではない、頭でもない。

 氷槍が太ももを貫いた。トールが、一瞬よろめく。

 でも、すぐに動き出した。傷口を意に介さない。フィーネが次の氷槍を構えた。今度は肩。

 ——最初から急所を外している。



「ユズリハ君。——君ならどう対処する」



 キリヤの声が、後ろから飛んできた。

 指示でもなく、共闘の合図でもない。問いかけ。

 ——この状況で、それを聞くのか。石柱の亀裂が、広がっていく。考える時間はない、それでも答えなければ。

 キリヤは、殺せと言う。フィーネは氷槍を構え直している。ユーゴは石柱の中で、拳を握ったまま動けないでいる。

 私は——殺したくない。

 頭の中で、手持ちを並べる。「殺さずに、止められる」やつ——。

 バグ・スウォーム——千発単位で削り殺す蟲。撃てば、トールが削られて死ぬ。論外。

 フロスト・バグ——群で凍らせる。部分的に凍らせることも可能だが、あのパワーを前にしては突破される可能性もある。魔族化した体を止めるには深く凍らせるしかない。深く凍らせれば、組織が壊死する。結局、殺す。

 バグ・オイル——足元を奪う。転倒させることはできる。だが背後から頭を打てば、打ちどころ次第で、死ぬ。

 バグ・ノイズ——音で集中を乱す。本能で暴れる相手には、乱す「集中」がない。おそらく効かない。

 ——どれも、引っかからない。



 ユーゴの手が震えていた。

 握っていた拳が、ふっと開かれた。震えも、止まった。

 トールが石柱越しにユーゴを見た。赤い目の中に——一瞬だけ、何かが揺れた。

 目の赤みが、わずかに薄れかける。振り上げかけていた腕が、宙で止まる。

 でも、それもすぐに赤に呑まれていく。

 石柱が、ふっと解けた。崩れたんじゃない——ユーゴが、自分から維持を止めたのだ。



 ユーゴの横顔が、見えた。迷いも、震えも、もうそこには無かった。

 ——焚き火の夜と同じ顔だった。「これで、誰かを守れる側に立てる」と語った、あの顔。

 その奥に、窓の前で「俺が見張ってたのに」と絞り出した、あの夜の顔が、重なって見えた。

 ユーゴが、トールに向かって一歩を踏み出した。



「ユーゴ君、戻りなさい」



 キリヤの声が、低く飛んだ。命令の声。

 でも、ユーゴは歩みを止めない。



「ユーゴ!」



 フィーネが叫んだ。私の口からも、声が出た。

 ユーゴは、振り返らなかった。



「トール! 俺だ! ユーゴだよ!」



 声が、まっすぐだった。



「思い出せ! お前、石を五ミリ動かしたじゃないか! あの時、すげえ嬉しそうに笑ったろ!」



 トールが——一瞬、止まった。

 赤い目が揺れた。両手が、自分の側頭部に伸びかけた。「やめ……」と呟こうとして——



「……ユー、ゴ……?」



 かすれた声だった。トールの声だった。

 ——届いた。あの中に、トールはまだいる。

 ユーゴが、息を呑む。それでも、足を止めなかった。さらに一歩、踏み込む。



「そうだ! 俺だよ! お前、『自分で守れるようになりたい』って言ったろ! 親父さん、待ってんだぞ! 畑、誰が守るんだよ!」



 声が、震えていた。それでも、まっすぐだった。

 トールの口が、何か言いかけて——半端に開いたまま、止まった。

 赤い目が、奥から再び濃くなる。側頭部に伸びていた手が、落ちた。



「……殺す」



 その言葉と一緒に、トールが拳を振った。

 ユーゴの胸に——拳が、めり込んだ。

 鈍い音がした。



「ユーゴ!!」



 誰の声か、分からない。自分かもしれない。

 ユーゴの体が、宙を舞う。

 地面に叩きつけられて、動かなくなる。



 ユーゴ……。

 頭の中が、白くなった。一瞬、何も浮かばなかった。

 ユーゴが、地面に倒れている。動かない。一撃の破壊力は想像できる。

 息をしているのかも——ここからじゃ、分からない。トールがまだそこにいる。駆け寄れない。

 フィーネが氷槍を構えた。今度は——胸を狙っている。



 氷槍が放たれ、トールの胸を貫いた。

 息を呑んだ。

 トールが、自分の胸に手を伸ばす。柄を掴み、引き抜いた。血が、流れない。傷口の縁が、ぐにゃりと盛り上がり、塞がっていく。太ももの貫通痕も、いつの間にか消えている。

 ——回復している。魔族化した体が、傷を勝手に閉じている。



 ——氷槍では、止まらない。

 奥歯を噛んだ。手が、震えていた。



 ——『相手が、人語を解する者だったらどうだ?』

 ソロンの声。初めて、自分が人を殺せるかを問われた日。

 ——『躊躇うな。容赦すれば、お主が死ぬ』

 ソロン相手に、躊躇いながら魔法を撃った日。

 ——『覚悟よ』『本気で殺す気がない。……だから読める』

 セリアの声。模擬戦の終わり。

 ——『君たちは、人間を殺したことはあるかい?』

 キリヤの声。焚き火の夜、答えなかった問い。



 ——ずっと、目を背けてきた。

 みんな、私に同じことを問うてきた。「人を殺せるか」と。

 そのたびに、信じてきた。そんな場面、来ないと。人を殺す日なんて、きっと、来ないと。

 ——いま、目の前にいる。元人間で、いま、魔族の何か。

 魔物なら、迷いなく撃てた。けれど——トールは、元人だ。「人」と「魔族」の見境が、消えている。

 ——でも、ユーゴが、倒れている。次は、私たちだ。

 あの夜、「守りたい側に立ちたい」と笑った顔。石柱を解いて、踏み込んだ背中。「思い出せ」と叫んだ、あの声。

 ——あれを、無駄にしない。

 これ以上、誰も、奪わせない。アルミ玉を握り直した。拳に、力を込める。

 ——殺す。ユーゴのために。フィーネのために。——いま、ここで、殺し切る。

 さっき「論外」と切ったやつだ。それでも——殺し切れるのは、これしかない。



羽虫の群れ(バグ・スウォーム)



 手のひらから、羽虫が湧き出した。

 今は、出力を絞らない。羽虫の群が、トールの体に殺到する。皮膚を齧る音。焼ける音。腕が、爛れていく。

 ——殺す。殺し切る。奥歯を噛んだまま、維持する。



 その時——

 絶叫が、空気を裂いた。トールの、人間の声だった。



「あぁぁぁぁッ——!」



 心臓が、跳ねた。動悸がする。命が、削れていく。

 ——やめて、やめて。手が、勝手に動いた。羽虫が、空中で霧散する。

 息が、整わない。指先が、痺れていた。



 その時——背後から、空気が動いた。

 紫の光が、私の横をすり抜けて、トールへ伸びていく。

 キリヤが、私の横を通り過ぎた。

 穏やかな顔のまま、トールに向かって歩いていく。



「——よく、見ていなさい」

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