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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
魔法協会任務編

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足跡

 夜明けと同時に動いた。

 結局、眠れなかった。瞼を閉じても、開いた窓と揺れるカーテンが繰り返し浮かぶ。トールが自分で閂を外して、出ていった瞬間。何度なぞっても、止め方が出てこない。どうすれば良かったんだ……。窓の外がうっすら白んだ頃、諦めて身体を起こした。



 ユーゴは一睡もしていない顔をしていた。目の下に影がある。だが足取りに迷いはない。誰より早く準備を済ませ、水筒と応急手当の布を詰めた鞄を肩にかけて、宿の入口で待っていた。フィーネは冷静だが、いつもより眼鏡を直す回数が多い。

 ユーゴとフィーネと、村長の家に向かった。キリヤは早朝からそこにいた。

 キリヤだけが、普段通りだった。眠ったかどうかも、表情からは読み取れない。



「あの洞穴を起点にする。ダリオ君の痕跡があった場所だ。トール君も同じ経路を辿った可能性が高い。——フィーネ君、地図を」



 キリヤが穏やかに、だが迷いなく指示を出した。

 ——昨夜、「痕跡は暗闇では追えない」と言っていた。朝なら追えるという読みが、頭にあったのかもしれない。

 フィーネが地図を広げた。



「洞穴から先、北東方向に森が深くなります」


「洞穴の周辺を調べよう。あの時なかった新しい痕跡があれば、そこから辿れる」



 キリヤが全員を見回した。



「僕が先頭を歩く。何かあった場合は僕が対処する。気づいたことがあったら、その都度共有してほしい」



 村長の家を出ると、通りに村人が数人立っていた。視線が刺さる。期待と不安が混じった目。ダリオもまだ見つかっていない。私たちが着いた日に村人が一瞬だけ取り戻していた安堵は、もうどこにもない。

 トールの母親が駆け寄ってきた。



「お願いします……あの子を……」



 声が震えていた。

 何も言えなかった。頷いた。それが精一杯だった。

 四人で、森の奥へ向かった。



 歩きながら、頭の中を同じ思考が回っている。

 候補を五人に絞った。一軒ずつに張り付いた。入り口も交互に見た。——できることは全部やった。それでも、気づいたら、トールは家からいなくなっていた。

 骨組みは合っていた。それでも、防げなかった。読めても防げないなら、分析に何の意味がある。



 ——見つける。見つけて、連れ戻す。

 自分にそう言い聞かせた。でも頭の片隅で、あの洞穴がちらつく。ダリオの衣服だけが残されて、体はなかった。見つかった時——トールはどうなっているのか。

 その想像を、意識の外に押し出した。考えるな。今は歩け。



 洞穴に着いた。あの時と同じ入口。同じ匂い。

 だが——洞穴の周辺が、変わっていた。あの時はなかった痕跡がある。

 倒れた木。えぐれた地面。地面にこびりついた黒い液体の飛沫——洞穴の中にあった、蟲を溶かしたあの液体と同じだ。

 新しいやつ……。

 足を止めて、周囲を見た。

 木の折れ方に規則性がない。引きずった跡ではなく、ぶつかった跡のように見える。何かが制御を失って暴れ回ったような——行き先が定まらない動き。



「キリヤさん。この跡、一方向に向かってない。何かを振り回している動き方です」



 キリヤが頷いた。

 地面の飛沫を辿った。黒い液体が、森の奥に向かって断続的に散っている。



「飛沫がこの方向に続いてます」



 フィーネが地図を確認した。



「方角、合います」



 キリヤが、黒い液体の前でしゃがみ込んだ。片手をかざす。洞穴でもやっていた、あの仕草。

 数秒、手を止めて——立ち上がった。



「痕跡を辿ろう。全員、周囲に注意して」



 キリヤが先に歩き出した。



「トール! いるなら返事してくれ!」



 ユーゴの声が森に吸い込まれた。返事はない。



「トール!」



 また叫ぶ。返事はない。

 森の奥に進むにつれて、空気が変わった。

 鳥がいない。虫の声もしない。洞穴を調べた時にも感じた沈黙だが、ここではもっと深い。森から、音が引いている。

 ——森の生き物の方が、よっぽど分かってる。私たちだけが、逆方向に歩いている。



 三十分ほど歩いたところで——



「ユズリハさん、これっ!」



 ユーゴの声が前から飛んだ。屈み込んで、地面を指差している。

 駆け寄った。黒い飛沫が消えている。倒木もない。地面も荒れていない。

 代わりに——足跡があった。まっすぐに。倒木を避けて、歩いている。

 しゃがんで確認した。歩幅が一定。一人分。暴走の跡が、ぴたりと止んでいる。



「キリヤさん。暴走が止まって……意思のある移動に変わってます」


「辿ってみよう」



 フィーネが地図を広げた。



「地形に沿って、歩きやすい経路を選んでいます」



 足跡を辿った。二百メートルほど続いて——



 途切れた。



 足跡が消え、代わりに——木の幹に拳大の穴が空いている。岩が割れている。地面に亀裂が走っている。凄まじい力が働いたのだと分かる。

 しゃがんで確認する。洞穴周辺の暴走は、ぶつかった跡だった。ここは違う。殴って、踏み抜いている。さっきより強い。



「トールー!」



 ユーゴがまた叫んだ。声がかすれてきている。それでもやめない。

 フィーネが地図と周囲の地形を照らし合わせている。ユーゴが周囲を見回している。

 キリヤが、地面に手をかざした。少し間を置いて、立ち上がった。



「残留魔力が混じっている。そちらに薄く続いている。……こちらだろう」



 キリヤが、片手を上げて先を指した。

 歩いてみると、五十メートル先に倒木があった。黒い液体がこびりついている。——キリヤの読み通りだ。

 ——たった一度、地面に触れただけ。それで方角を絞り込めるのか。

 どういう精度だ。



 ——足跡が、また現れた。

 暴走の跡が止み、まっすぐな足跡が続いている。その先で、また暴走。木が折れ、地面がえぐれている。



 暴走→移動→暴走→移動→暴走。

 交互だ。パターンがある。一定間隔で切り替わるなら、偶然じゃない。

 この足跡がトールだと仮定して――操っている誰かと、抗っている本人。体の中で、二つの力が争っている?

 足が、自然に止まっていた。



「キリヤさん」



 キリヤが振り返った。



「……痕跡が、変です。一つの体の中で、二つの力が争ってる——ように見える。トールが、まだ抗ってる——」


「——トール!!」



 私の口から出たその名前に反応するように、ユーゴが叫んだ。もう声が割れている。嗄れた声で、それでもやめない。

 キリヤが、目を細めた。



「……鋭い読みだね」



 それ以上は言わずに、また前を向いた。

 キリヤは先頭を歩きながら、時折振り返って全員を見る。



「ユズリハ君」



 キリヤが、歩きながら声をかけた。



「君は、今、何を考えている?」



 歩きながら、こちらを見ない。穏やかな声。

 ——何を、と聞かれて、整理して答える余裕がなかった。

 怖い。怒っている。焦っている。——一つにまとまらない。



「……分かりません」


「そうか」



 キリヤが、それ以上は聞かなかった。



 森がさらに深くなった。

 匂いが変わった。土と腐葉土の匂いに、鉄のような——血の匂いが混じっている。喉の奥が反射的に縮む。

 地面の草が枯れていた。踏んだ草が、音もなく崩れる。根まで死んでいる。空気が、重い。音が消えている。風すら止まっている。



 ——前方で、何かが折れた。鈍く重い破壊音。一度きり、それから、また沈黙。

 フィーネが氷槍を構えた。ユーゴが石柱を展開しかける。

 無言の緊張。全員が足を止めた。



 キリヤが静かに一歩を踏み出した。



 森が急に開けた場所に出た。

 木々が何本も倒れている。地面がえぐれ、土がめくれ上がっている。黒い液体が広範囲に飛び散り、触れた草が枯れている。



 そして——

 開けた場所の中央に、人影がいた。



 トールだった。



 ——。

 思考が止まった。トールだ。でも、トールじゃない。何かが決定的に違う。

 目の前のこれが何なのか、すぐには言葉にならなかった。



 両手で自分の側頭部を掴んでいる。何かを引き剥がそうとするように。爪が食い込んで、血が滲んでいる。

 側頭部に、小さな突起がある。角——? なぜ。目が——赤い。鮮烈な、血のような赤。皮膚に、うっすらと紋様が浮かんでいる。

 破れた服に、あの黒い液体が大量に染みていた。皮膚にも、広範囲にこびり付いている。

 ——洞穴から散っていた液体は、トールの体から出たものか。



 角。赤い目。紋様。

 ——知っている。ラークとミナの死体。ミルシェの目。



 魔族……。



 もしかしてトールは——最初から擬態した魔族だった? いや、合わない。そもそも様子がおかしい。

 今朝、駆け寄ってきたトールの母親の心配そうな顔が浮かぶ。

 息子を捜してくれと頭を下げる、人間の母親だった。あの演技まで擬態に組み込まれているとは思えない。トールは——人間のはずだろ。

 


 ちらりと、キリヤを見た。キリヤは、トールから目を離さず、立っている。



 低い声が聞こえた。



「やめろ……やめろ……」



 自分に言い聞かせているようだった。トールの体が痙攣した。角がわずかに伸び、紋様が広がる——そして収まる。また痙攣する。また伸びる。また収まる。

 ——痕跡通りだ。あの足跡は、移動じゃなく抵抗だったのか。痙攣と踏みとどまりの繰り返し。ずっと——一人で。夜通し。洞穴から、今まで。



 ——ふざけるな。誰がこんなこと……。

 奥歯が、勝手に噛み締まっていた。



「トール……!?」



 ユーゴが叫んだ。

 駆け出そうとしたのを、フィーネが腕を掴んで止めた。



「待って。あれは——」


「分かってます! でもあれはトールです!」


「だから待って!」



 フィーネが声を荒げた。普段の丁寧な言葉遣いが、剥がれている。

 ユーゴが、止められたままその場で呼吸を荒げてトールを見つめている。

 トールの目が、一瞬だけ動いた。ユーゴの方を向いた。



「ユー……ゴ……?」



 かすれた声。

 ユーゴの体が震えた。フィーネの手を、振りほどきかける。



「トー」


「ユーゴ君、動くな」



 キリヤの声が、初めて低くなった。ユーゴの足元から、薄い紫の光が走る。地面が淡く光って、ユーゴの両足を結界が掴んだ。



「動けば、君が壊される」



 ユーゴが、唇を噛んで止まった。

 ——ユーゴの名前を覚えている。トールの意識が、まだあるということ。

 トールは今、どんな状況なのか。それはこの目で確かめる。

 ポケットのアルミ玉を握った。



 ——見えた。



 トールの体の内側に、術式が渦巻いているのが見えた。

 息が、止まった。アルミ玉越しに、コードの全体が見える。構造は——ミルシェと同じだ。

 でも、その中に——黒い、巨大な塊が脈打っている。

 しかも、その塊は暴れていた。周囲のコードを呑み込もうと膨らみ、別の細い構造がそれを押し戻す。膨らんで、押し戻されて、また膨らんで——森で見た暴走と抵抗のパターンが、コードの層で起きているのが読み取れた。

 トールの体の中で、本当の戦争が起きていた。



 黒い、巨大な塊——ミルシェにはなかったもの。それは殺意だ。



 ミルシェの中では空だった呼び出しの、その先。

 初めて見る。魔族の殺意プログラム——。

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