足跡
夜明けと同時に動いた。
結局、眠れなかった。瞼を閉じても、開いた窓と揺れるカーテンが繰り返し浮かぶ。トールが自分で閂を外して、出ていった瞬間。何度なぞっても、止め方が出てこない。どうすれば良かったんだ……。窓の外がうっすら白んだ頃、諦めて身体を起こした。
ユーゴは一睡もしていない顔をしていた。目の下に影がある。だが足取りに迷いはない。誰より早く準備を済ませ、水筒と応急手当の布を詰めた鞄を肩にかけて、宿の入口で待っていた。フィーネは冷静だが、いつもより眼鏡を直す回数が多い。
ユーゴとフィーネと、村長の家に向かった。キリヤは早朝からそこにいた。
キリヤだけが、普段通りだった。眠ったかどうかも、表情からは読み取れない。
「あの洞穴を起点にする。ダリオ君の痕跡があった場所だ。トール君も同じ経路を辿った可能性が高い。——フィーネ君、地図を」
キリヤが穏やかに、だが迷いなく指示を出した。
——昨夜、「痕跡は暗闇では追えない」と言っていた。朝なら追えるという読みが、頭にあったのかもしれない。
フィーネが地図を広げた。
「洞穴から先、北東方向に森が深くなります」
「洞穴の周辺を調べよう。あの時なかった新しい痕跡があれば、そこから辿れる」
キリヤが全員を見回した。
「僕が先頭を歩く。何かあった場合は僕が対処する。気づいたことがあったら、その都度共有してほしい」
村長の家を出ると、通りに村人が数人立っていた。視線が刺さる。期待と不安が混じった目。ダリオもまだ見つかっていない。私たちが着いた日に村人が一瞬だけ取り戻していた安堵は、もうどこにもない。
トールの母親が駆け寄ってきた。
「お願いします……あの子を……」
声が震えていた。
何も言えなかった。頷いた。それが精一杯だった。
四人で、森の奥へ向かった。
歩きながら、頭の中を同じ思考が回っている。
候補を五人に絞った。一軒ずつに張り付いた。入り口も交互に見た。——できることは全部やった。それでも、気づいたら、トールは家からいなくなっていた。
骨組みは合っていた。それでも、防げなかった。読めても防げないなら、分析に何の意味がある。
——見つける。見つけて、連れ戻す。
自分にそう言い聞かせた。でも頭の片隅で、あの洞穴がちらつく。ダリオの衣服だけが残されて、体はなかった。見つかった時——トールはどうなっているのか。
その想像を、意識の外に押し出した。考えるな。今は歩け。
洞穴に着いた。あの時と同じ入口。同じ匂い。
だが——洞穴の周辺が、変わっていた。あの時はなかった痕跡がある。
倒れた木。えぐれた地面。地面にこびりついた黒い液体の飛沫——洞穴の中にあった、蟲を溶かしたあの液体と同じだ。
新しいやつ……。
足を止めて、周囲を見た。
木の折れ方に規則性がない。引きずった跡ではなく、ぶつかった跡のように見える。何かが制御を失って暴れ回ったような——行き先が定まらない動き。
「キリヤさん。この跡、一方向に向かってない。何かを振り回している動き方です」
キリヤが頷いた。
地面の飛沫を辿った。黒い液体が、森の奥に向かって断続的に散っている。
「飛沫がこの方向に続いてます」
フィーネが地図を確認した。
「方角、合います」
キリヤが、黒い液体の前でしゃがみ込んだ。片手をかざす。洞穴でもやっていた、あの仕草。
数秒、手を止めて——立ち上がった。
「痕跡を辿ろう。全員、周囲に注意して」
キリヤが先に歩き出した。
「トール! いるなら返事してくれ!」
ユーゴの声が森に吸い込まれた。返事はない。
「トール!」
また叫ぶ。返事はない。
森の奥に進むにつれて、空気が変わった。
鳥がいない。虫の声もしない。洞穴を調べた時にも感じた沈黙だが、ここではもっと深い。森から、音が引いている。
——森の生き物の方が、よっぽど分かってる。私たちだけが、逆方向に歩いている。
三十分ほど歩いたところで——
「ユズリハさん、これっ!」
ユーゴの声が前から飛んだ。屈み込んで、地面を指差している。
駆け寄った。黒い飛沫が消えている。倒木もない。地面も荒れていない。
代わりに——足跡があった。まっすぐに。倒木を避けて、歩いている。
しゃがんで確認した。歩幅が一定。一人分。暴走の跡が、ぴたりと止んでいる。
「キリヤさん。暴走が止まって……意思のある移動に変わってます」
「辿ってみよう」
フィーネが地図を広げた。
「地形に沿って、歩きやすい経路を選んでいます」
足跡を辿った。二百メートルほど続いて——
途切れた。
足跡が消え、代わりに——木の幹に拳大の穴が空いている。岩が割れている。地面に亀裂が走っている。凄まじい力が働いたのだと分かる。
しゃがんで確認する。洞穴周辺の暴走は、ぶつかった跡だった。ここは違う。殴って、踏み抜いている。さっきより強い。
「トールー!」
ユーゴがまた叫んだ。声がかすれてきている。それでもやめない。
フィーネが地図と周囲の地形を照らし合わせている。ユーゴが周囲を見回している。
キリヤが、地面に手をかざした。少し間を置いて、立ち上がった。
「残留魔力が混じっている。そちらに薄く続いている。……こちらだろう」
キリヤが、片手を上げて先を指した。
歩いてみると、五十メートル先に倒木があった。黒い液体がこびりついている。——キリヤの読み通りだ。
——たった一度、地面に触れただけ。それで方角を絞り込めるのか。
どういう精度だ。
——足跡が、また現れた。
暴走の跡が止み、まっすぐな足跡が続いている。その先で、また暴走。木が折れ、地面がえぐれている。
暴走→移動→暴走→移動→暴走。
交互だ。パターンがある。一定間隔で切り替わるなら、偶然じゃない。
この足跡がトールだと仮定して――操っている誰かと、抗っている本人。体の中で、二つの力が争っている?
足が、自然に止まっていた。
「キリヤさん」
キリヤが振り返った。
「……痕跡が、変です。一つの体の中で、二つの力が争ってる——ように見える。トールが、まだ抗ってる——」
「——トール!!」
私の口から出たその名前に反応するように、ユーゴが叫んだ。もう声が割れている。嗄れた声で、それでもやめない。
キリヤが、目を細めた。
「……鋭い読みだね」
それ以上は言わずに、また前を向いた。
キリヤは先頭を歩きながら、時折振り返って全員を見る。
「ユズリハ君」
キリヤが、歩きながら声をかけた。
「君は、今、何を考えている?」
歩きながら、こちらを見ない。穏やかな声。
——何を、と聞かれて、整理して答える余裕がなかった。
怖い。怒っている。焦っている。——一つにまとまらない。
「……分かりません」
「そうか」
キリヤが、それ以上は聞かなかった。
森がさらに深くなった。
匂いが変わった。土と腐葉土の匂いに、鉄のような——血の匂いが混じっている。喉の奥が反射的に縮む。
地面の草が枯れていた。踏んだ草が、音もなく崩れる。根まで死んでいる。空気が、重い。音が消えている。風すら止まっている。
——前方で、何かが折れた。鈍く重い破壊音。一度きり、それから、また沈黙。
フィーネが氷槍を構えた。ユーゴが石柱を展開しかける。
無言の緊張。全員が足を止めた。
キリヤが静かに一歩を踏み出した。
森が急に開けた場所に出た。
木々が何本も倒れている。地面がえぐれ、土がめくれ上がっている。黒い液体が広範囲に飛び散り、触れた草が枯れている。
そして——
開けた場所の中央に、人影がいた。
トールだった。
——。
思考が止まった。トールだ。でも、トールじゃない。何かが決定的に違う。
目の前のこれが何なのか、すぐには言葉にならなかった。
両手で自分の側頭部を掴んでいる。何かを引き剥がそうとするように。爪が食い込んで、血が滲んでいる。
側頭部に、小さな突起がある。角——? なぜ。目が——赤い。鮮烈な、血のような赤。皮膚に、うっすらと紋様が浮かんでいる。
破れた服に、あの黒い液体が大量に染みていた。皮膚にも、広範囲にこびり付いている。
——洞穴から散っていた液体は、トールの体から出たものか。
角。赤い目。紋様。
——知っている。ラークとミナの死体。ミルシェの目。
魔族……。
もしかしてトールは——最初から擬態した魔族だった? いや、合わない。そもそも様子がおかしい。
今朝、駆け寄ってきたトールの母親の心配そうな顔が浮かぶ。
息子を捜してくれと頭を下げる、人間の母親だった。あの演技まで擬態に組み込まれているとは思えない。トールは——人間のはずだろ。
ちらりと、キリヤを見た。キリヤは、トールから目を離さず、立っている。
低い声が聞こえた。
「やめろ……やめろ……」
自分に言い聞かせているようだった。トールの体が痙攣した。角がわずかに伸び、紋様が広がる——そして収まる。また痙攣する。また伸びる。また収まる。
——痕跡通りだ。あの足跡は、移動じゃなく抵抗だったのか。痙攣と踏みとどまりの繰り返し。ずっと——一人で。夜通し。洞穴から、今まで。
——ふざけるな。誰がこんなこと……。
奥歯が、勝手に噛み締まっていた。
「トール……!?」
ユーゴが叫んだ。
駆け出そうとしたのを、フィーネが腕を掴んで止めた。
「待って。あれは——」
「分かってます! でもあれはトールです!」
「だから待って!」
フィーネが声を荒げた。普段の丁寧な言葉遣いが、剥がれている。
ユーゴが、止められたままその場で呼吸を荒げてトールを見つめている。
トールの目が、一瞬だけ動いた。ユーゴの方を向いた。
「ユー……ゴ……?」
かすれた声。
ユーゴの体が震えた。フィーネの手を、振りほどきかける。
「トー」
「ユーゴ君、動くな」
キリヤの声が、初めて低くなった。ユーゴの足元から、薄い紫の光が走る。地面が淡く光って、ユーゴの両足を結界が掴んだ。
「動けば、君が壊される」
ユーゴが、唇を噛んで止まった。
——ユーゴの名前を覚えている。トールの意識が、まだあるということ。
トールは今、どんな状況なのか。それはこの目で確かめる。
ポケットのアルミ玉を握った。
——見えた。
トールの体の内側に、術式が渦巻いているのが見えた。
息が、止まった。アルミ玉越しに、コードの全体が見える。構造は——ミルシェと同じだ。
でも、その中に——黒い、巨大な塊が脈打っている。
しかも、その塊は暴れていた。周囲のコードを呑み込もうと膨らみ、別の細い構造がそれを押し戻す。膨らんで、押し戻されて、また膨らんで——森で見た暴走と抵抗のパターンが、コードの層で起きているのが読み取れた。
トールの体の中で、本当の戦争が起きていた。
黒い、巨大な塊——ミルシェにはなかったもの。それは殺意だ。
ミルシェの中では空だった呼び出しの、その先。
初めて見る。魔族の殺意プログラム——。




