人さらい
三日目の朝。
広場で、ユーゴがトールに魔法を教えていた。夜通しの見張りを四人交代で回した後、明け方のシフトだった私とユーゴが、そのまま起きている。フィーネは宿で仮眠中。キリヤは早朝から村長の家で打ち合わせをしている。
「いいか、まずは地面に意識を集中して——」
「こう?」
トールが両手を地面に押しつけた。顔が赤い。力みすぎだ。
だが小石が——一個だけ浮いた。五ミリほど。
「おお!! 動いた!!」
「え、今……?」
「動いた動いた! 才能あるって!」
正直、微妙だ。それでもユーゴは本気で喜んでいた。
ただ——五ミリとはいえ、動いた。この世界で魔力を持つ人間は少ない。大半がゼロだ。
トールはゼロじゃなかった。ユーゴが声をかけなければ、本人も気づかなかっただろう。
「ユーゴ先生、次は何すればいい!?」
「先生はやめろって! 照れるだろ!」
「でも先生じゃん!」
ユーゴが照れながらも嬉しそうに笑い、トールもつられて笑った。
——その時、空気が変わった。
村長が広場にやってきた。目が泳いでいる。
「魔導士殿……」
嫌な予感がした。
「もしかして——また、ですか」
村長が、黙って頷いた。
——嘘だろ。
——トールには聞かせない方がいい。ユーゴと目で合図して、村長について行く。広場で心配そうに見送るトールの顔が、視界の端に映った。
村長の家に通された。テーブルの上に、粗末な地図が広げられていた。キリヤが地図の脇に立っている。早朝の打ち合わせから、そのままこの状況に対応している形らしい。
村長が指で示した場所は、村のすぐ外だった。
「昨夜、若い男が一人。畑の見回りに出て、戻ってこない。足跡は途中まであるが、森の入り口で、ぷつりと途絶えている」
——夜は出るなと言ったのに。
私たちは村の入り口で夜通し焚き火を焚いて、交代で見張った。でも畑は村の外縁に点在している。四人で村全体をカバーするのは最初から無理だった。
また若い男か……。前の三人と違うのは——私たちがいるのに消えた、それだけだ。
——一人、消えた。跡形もなく。その事実をただ飲み込む。
「消えたのは——トールの幼馴染だ」
村長の声が震えていた。
——まさか……ダリオか? 父親が病気で、トールが一人で畑を回している。ダリオはずっと手伝っていた。「夜は出るな」と言われても、出る理由はあった。
妹がいる、と言っていた。
喉の奥が、きゅっと締まる。
隣のユーゴを見た。さっきまでの笑顔が、消えていた。
ユーゴが立ち上がった。何も言わず、部屋を飛び出していく。
広場に戻ると、ユーゴはもうトールのそばにいた。
トールの顔色が悪い。目が赤い。
「ユズリハさん」
ユーゴが駆け寄ってきた。
拳を握りしめている。声が、揺れていた。
「やっぱダリオでした。見つけましょう。まだどこかにいるかもしれない」
——その気持ちは、分かる。
姉がいなくなった時、私も同じだった。まだどこかにいる。きっと見つかる。
諦めきれなかった。そして姉は、生きていた。
だから——否定したくない。「見つける」と言ってやりたい。でも——先に消えた三人は、今も戻ってきていない状況だ。
「……ユーゴ」
「お願いします。トールが、あんな顔してるんですよ」
振り返ると、トールが広場の隅で座り込んでいた。
膝を抱えて、地面を見つめている。
——信じたくない。でも、分かっている。その目が、そう言っていた。
「……そうだね。探してみよう」
見つかるとは限らない。それでも——座っているわけにはいかない。
キリヤが、村長の家から出てきた。
「調査を行おう。僕が主導する」
村長が頷いて、若い使いを宿に走らせた。フィーネを起こしに行くのだろう。
トールが駆け寄ってきた。
「俺も行きます! ダリオは俺の——」
「ダメだ」
ユーゴが、トールの前に立った。
「お前は村にいろ。絶対に出るな」
「ユーゴ君の言う通りだ」
キリヤが、静かに付け加えた。
「気持ちは分かる。でも、僕たちは魔法協会員として、この任務に命をかけているんだ。君を連れて行くわけにはいかない」
「でも——」
「トール」
ユーゴの声が低くなった。さっきまでの柔らかさが消えていた。
「ここから先は危険だ。お前まで消えたら、誰がお前の親父さん守るんだ」
トールが、唇を噛んで俯いた。
——私たちは見込まれてここに来た。任務は果たさないと。
宿のほうから、フィーネが眼鏡を直しながら歩いてきた。寝起きとは思えない涼しい顔で、隣に並ぶ。状況は使いの者から聞いたらしい。
キリヤの先導で、森に入った。
足跡は村長の言う通り、森の入り口から百メートルほどで途切れていた。
——待て。自分の目で確かめる。
しゃがみ込んで、足跡を追った。一人分。サイズと方向は、村長の話と矛盾しない。歩幅が一定で、走った跡も引きずられた跡もない。最後の一歩まで、普通に歩いている。
——犯人の足跡か、ダリオのものか。連れ去られたなら二人分あるはず。抱え込まれて運ばれたなら、足跡が深く沈むはず——でも、深さは普通。一人分の重みしか乗っていない。
ダリオの足跡だ。——自分の意思で、ここまで来たのか? 誘い出された? 操られた?
——でも、足跡はここで途切れている。続きはない。飛行は素人に無理。誰かがここで合流して、運んだとしか考えられない。なのに犯人の足跡もない。気配を消したか、転移したか——魔法を使える誰かの介入だ。素人ではない。——昨日森から見ていた、あれか。仮に同一個体なら、人さらいの実行犯と昨日の襲撃者が、一本の線で繋がる。——もちろん、別個体の可能性も置いておくが。
「ここだね」
キリヤが足跡の途切れた地点にしゃがみ込んだ。
地面に手をかざし、何かを確かめるように目を閉じた。数秒の沈黙の後、静かに立ち上がる。
——何をしているんだ。残留魔力の検知か。
立ち上がる動作に、迷いがない。——何か掴んだ顔だ。
「奥を調べよう」
四人で、森の奥へ進んだ。木々が鬱蒼と茂り、日差しが遮られる。空気が湿っている。
ユーゴが先頭を歩き、フィーネが後方を警戒し、私が中央。キリヤは少し離れた位置で、周囲に目を配っていた。
会話はなかった。落ち着かない。周囲に魔物の気配はない。ないのに——何かがおかしい。
鳥がいない。獣の気配もない。森が、沈黙している。奥に進むほど、空気が重くなった。
三十分ほど歩いたところで、ユーゴが足を止めた。
「……ここ」
地面に、引きずったような跡があった。
人間の足跡ではない。何かが地面を這ったような、不規則な痕跡。そして——地面に染みついた、黒ずんだ液体。血、ではない。もっと粘度が高くて、色が暗い。
——何だ、これ。近づくと、甘ったるい腐臭がした。胃の底が持ち上がる。
フィーネが屈み込んで観察した。眼鏡の奥の目が細くなる。
「血液ではありません。成分が違う。……魔物の体液とも異なります」
ユーゴが声を尖らせた。
「じゃあ何なんだ」
「分かりません。見たことがない」
痕跡を辿ると、森の奥に洞穴があった。入り口は狭い。人一人が屈んで入れる程度。
中からは——何も聞こえない。
指先が冷えた。殺意を持った何かが、この暗闇の奥にいるかもしれない。
握った拳に、力が入りすぎていた。
「ユズリハ君、君の魔法をこの中に放ってみてくれるかい」
キリヤが、洞穴を見たまま静かに言った。
——なるほど。私の蟲は魔力体。中で破壊されれば、こちらとの繋がりが切れる。攻撃魔法を偵察に流用できると読まれているわけか。
「分かりました。数を絞ったバグ・スウォームを偵察に流します。中で襲われれば、繋がりが切れる。それで分かる」
指先から数十匹、洞穴に向けて飛ばした。暗闇の中に散っていく。
——繋がりは切れない。中に動くものはいない。
「大丈夫そうっすね!」
ユーゴが入ろうとしたのを、フィーネが腕を掴んで止めた。
「待って。念のため氷槍も先行させます」
フィーネが氷槍を一本、洞穴に向けて射出した。
氷の槍が暗闇に滑り込み——何にも当たらず、奥の壁に突き刺さった。
「行きましょう」
四人で洞穴に入った。暗い。指先から蛍の蟲を灯した。淡い光が洞穴の壁を照らす。
中は意外と広い。奥行きが十メートルほど。地面に、何かが散らばっていた。
衣服の切れ端。爪で引っ掻いたような壁面の傷跡——人の手が届く高さに集中している。けもののものではない。人がやったのか。だが、人ならなぜ壁を引っ掻く。そして——地面に染みついた、さっきと同じ黒い液体。壁まで飛び散っている。
蟲を一匹、指先から飛ばした。黒い液体の表面に触れさせる。——瞬間、蟲が消えた。溶けたのではない。魔力ごと、掻き消された。指先に繋がっていた感覚が、ぷつりと途切れる。何だ、これ。私の蟲を一瞬で無効化した。乾きかけた残留物が、だ。
——主力武器が、残りカスに触れただけで消し飛ぶ。笑えない。
背筋が冷えた。
キリヤが黒い体液の前にしゃがみ込んだ。手をかざすと、指先に薄い紫の光が灯った。足跡が途切れた場所でもやっていた、あの仕草だ。
——また同じ仕草。
数秒。光が消えた。キリヤは静かに立ち上がった。
「……キリヤさん。何か分かりましたか」
「残留魔力の痕跡を調べたんだけどね。……ここで何かが行われたのは確かだ。それが何かは——今、僕の口から軽々に言うことじゃない」
いつもの穏やかな声。——「軽々に言うことじゃない」、か。
察しはついている、ということだ。それを、なぜ今、明かさない。
ユーゴが、布切れを拾い上げた。
「……ダリオの服だ」
声が震えていた。
「何があったんですか。何が——」
ユーゴがキリヤを見た。答えを求める目だった。
キリヤは穏やかな顔のまま、何も言わなかった。
ユーゴの視線が、私に流れる。——持っていない。その答えは、私も。何も言えなかった。
沈黙を破ったのは、フィーネだった。
「ここには遺体がありませんよね。衣服だけが残されて、正体不明の液体が付着している。……殺すためではなく、連れ去ることが目的で、ここは中継地点だった可能性があります」
——連れ去る。殺すのではなく。
初日の夜に立てた仮説——若い男が選ばれるなら、そこに理由がある。
洞穴の中を、もう一度見渡した。衣服の切れ端。黒い液体。壁の傷跡。——これ以上の手がかりは、ここにはない。
ユーゴはダリオの服を握りしめたまま、動かなかった。フィーネが小さく息をついて立ち上がり、キリヤが先に踵を返す。
洞穴を出た。外の光が、妙に眩しい。
「……今日のところは、村に戻ろう」
キリヤが言った。
「戻る? ダリオはまだ見つかっていないんですよ!」
ユーゴが声を上げた。
「痕跡はここで途絶えている。これ以上ここにいても、新しい手がかりは出ない。捜索は明日、改めて続けよう。日が傾く前に戻ろう。今夜への備えもいる」
——そうだ。失踪はいつも夜中だ。陽が落ちる前に村に戻って、夜の見張りを組み直さないと。
「でも——」
「ユーゴ君」
キリヤが、静かに言った。
穏やかだが、有無を言わせない声だった。
「狙われているのは若い男だ。——トール君も、その条件に当てはまる」
ユーゴが、唇を噛んだ。拳が震えている。
「……分かりました」
帰り道、ユーゴは一言も喋らなかった。
あの人懐っこい笑顔が、どこにもなかった。ダリオの服を握りしめた手も、ほどけないままだった。
歩くたび、隣の沈黙が肩に乗ってくる。
村に戻ると、トールが走ってきた。
「何か分かりましたか」
ユーゴが、トールの目を見た。
何秒か、黙っていた。
「……まだだ。でも、絶対見つける」
トールが頷いた。
ユーゴがトールの肩を掴んだ。強く。
「見つける」——私が飲み込んだ言葉を、ユーゴは迷わず口にした。
胸の奥が、軋んだ。痛みを押し込んで、頭を切り替える。
四人の失踪。同じパターン。正体不明の液体。何が起きたのか、遺体がない以上、分からない。
そして——あの紫の光。一つひとつの行動を切り取れば、副支部長としての職務だと納得できてしまう。
——でも、なぜ洞窟で行われたであろうことを伏せるのか、それだけが分からない。
確証がないからか。それとも、私たちに知らせるリスクがあるのか。
また、夜が来る。




