教わってないの
あれから三日が経った。
この三日、依頼を受けずに済んだのは、不幸中の幸いだ。ミルシェも体の変化に慣れる時間が必要だった。
——フィルも、まだ戻らない。
「二週間ほど」と言って出ていったのに、とっくにその期日を越えている。任務が長引いているだけならいい。……いや、対魔族任務で「長引く」のは、それ自体が不穏だ。嫌な想像を、振り払った。
ミルシェが「おごる」と言い張るので、ギルド近くの食堂で軽い夕食。
三日ぶりの外出だ。宿から食堂まで、たかだか数分の距離なのに足が重い。体はだいぶ回復したけど、まだ骨の奥にうっすら倦怠感が残っている。五日連続で魔力制御を詰め込んだ後に、三日前あれをやったんだ。魔族の術式は、想像以上に密度が高い。配管が焼けると、戻るのに時間がかかる。
隣のミルシェは、逆だった。石畳の段差を軽々と跳ね上がり、振り返って「ユズリハちゃん、遅ーい♡」と笑う。前はこんなに歩くの速かったか。……いや、違う。これが本来の体なんだろう。ずっと重りを背負って動いていたのが、今、素のまま動いているだけ。
……この数日、私が倒れた原因を作った側が、私より元気なのは、納得いかない。
食堂は盛況だった。依頼帰りの冒険者たちで席の大半が埋まっている。焼いた肉と安い酒と汗の匂い。奥のテーブルでは冒険者の一団が声を張り上げて乾杯している。三日間、宿の天井だけ眺めていた身には、この喧騒がちょっと眩しい。
……冒険者になってからは毎日外を歩くのが当たり前になっていた。元の世界じゃ、休日は一歩も家から出ないのが普通だったのに。引きこもりインドア派の自覚はあったはずなんだけど、あの頃のリズムが、今はもう遠い。
席に着こうとした時、聞き覚えのある声がした。
「あ、ユズリハさん、ミルシェさん……集合って明日じゃなかったでしたっけ?」
リコだった。奥のテーブルで一人、薬草の仕分けをしている。耳についた大きな飾りが、ランプの光でちらちら揺れていた。
「うん、ご飯食べに来ただけ」
「そうなんですね」
「リコちゃんリコちゃん♡ 見て見て♡」
ミルシェが満面の笑みで、わざわざ前髪を掻き上げて額を見せた。
……おい、成果発表会じゃないんだぞ。
リコの動きが、止まった。
「あれ……ミルシェさん、角……なくなってませんか?」
「手術した」
私は真顔で答えた。——咄嗟に出た。他に言い訳が思いつかなかった。
「え……手術、ですか? 大丈夫なんですか?」
「うん、もう落ち着いた」
「でも、ティフリングの角って、手術で取れるものなんですか……?」
——突っ込まれた。そりゃそうだ。
……何か言え、何か。
「……ほら、鹿の角も生え代わりで取れるじゃん? あれと似た原理」
……鹿とティフリングが同じ原理なわけない。我ながら苦しい。
「そうなんですね……! 勉強になります」
リコが自分の耳飾りをつまんで、くいっと引っ張った。ぽろっと取れた。
それを不思議そうに見つめている。
……何を確認してるんだ。あなたのは最初から取れるだろ。
——でも、助かった。
「じゃあ、明日、予定通りで」
「はい、お待ちしてます」
リコは納得したような、してないような顔のまま、薬草の仕分けに戻っていった。深追いしないのがこの子のいいところだ。
注文したのは、日替わりのシチューとパン。ミルシェは同じものに加えてデザートまで頼んでいた。おごると言い張った本人が一番食べている。
スプーンを持った。——右手が、微かに震えている。
力を入れて止めようとしたが、指が言うことを聞かない。三日前に魔力の奔流を中継し続けた腕だ。
左手に持ち替えた。こっちはまだマシだ。
シチューを一口。——熱い。塩気が、空っぽの胃に沁みる。三日間、宿でパンを齧るだけだった体には温かい汁物がありがたい。
「ユズリハちゃん、左利きだっけ?」
「えと……今日だけ」
「一日限定でそんなことできるんだ……」
ミルシェは、それ以上何も言わなかった。
……触れない選択をされるのが、逆にやりづらい。気遣われるほどの話じゃない。一晩寝ればマシになる。
ミルシェはずっと上機嫌だった。
食事中も、何度も自分の頭を触っては嬉しそうにしている。
……三日前、路地で両親のことを飲み込んでいた横顔が、一瞬だけ頭をよぎった。でも今、目の前で笑っている顔にその影はない。
「ほら、角ないでしょ♡」
「それ五回目。何のお披露目会だよ」
「だって嬉しいんだもん♡ あとね、朝起きるのも楽なの♡ 目が開くってこういうことなんだって、初めて知った♡」
言いながら、ミルシェが隣のテーブルの冒険者に向かって身を乗り出した。
「ねぇねぇ♡ 見てこれ、角が――」
「はいストップ」
ミルシェの額を軽く押して、元の席に戻す。
「えー♡ 見せたいのに♡」
「知らない人に頭頂部見せて回るな。バレるぞ」
「だって♡」
「だっても何もない」
視界の端で、ミルシェが今度は反対側のテーブルへ身を乗り出そうとした。
襟首をつまんで引き戻す。
……犬の散歩か。リードが必要だ。
まあ、擬態が完全に安定しているから、多少はしゃいでもすぐバレはしないだろう。「ティフリングだから」でごまかしていたあの角が、今は跡形もない。
周りのテーブルでは、冒険者たちがそれぞれの話に花を咲かせている。今日の依頼がどうだった、北の辺境で最近、魔物の動きが妙に活発らしい、魔法協会の連中まで駆り出されてるとか。そういう、いつもの喧騒。
その中で、ミルシェは周りの目なんて全く気にしていない。シチューを掬いながら笑っている。
……ああ、そうか。他の客がいる場所で、角を気にせずに食事できること自体が、この子にとっては初めてなのかもしれない。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、ミルシェがスプーンを止めてこちらを見ていた。
頬杖をついて、少し目を細めている。ランプの灯りが瞳の奥に映り込んで、ちらちら揺れていた。
「……何」
「ん〜♡ なんでもない♡」
何だそれ。
少し気になったが、ミルシェの「なんでもない」は大抵なんでもないので、放っておいた。
会計の時、ミルシェが胸を張って財布を取り出した。店主にジャラッと銀貨を並べて、にっこり笑う。
店主が、無言で首を横に振った。——足りない。
ミルシェの笑顔が、ぴしりと固まった。……デザートまで頼んだ時点で、こうなる予感はしてた。
財布をひっくり返す。銅貨が数枚、カウンターに転がり落ちた。店主が、もう一度、首を横に振る。
——店主の顔が、一ミリも動かない。
ミルシェが、こちらを見た。上目遣い。
「……♡」
「その顔ずるいからやめて」
結局、デザート分は私が出した。おごりとは。
食堂を出て、帰り道。久しぶりにちゃんとした飯を食べた。あとはしっかり寝れば、体も戻るだろう。
大通りから裏通りに折れると、喧騒が遠くなった。聞こえるのは自分たちの足音と、どこかの窓から漏れる食器の音くらいだ。
石畳に長い影が伸びている。路地の奥まで夕日が差し込んで、古びたレンガの壁がオレンジ色に染まっていた。
ミルシェは鼻歌まじりで、やたらご機嫌だ。
「今日のシチュー美味しかったね♡」
「うん」
「また行こ♡ 次はもっといいとこ連れてってあげる♡」
「財布の中身と相談してからにしなよ」
「大丈夫♡ 次の依頼で稼ぐから♡」
楽観的というか、先のことを考えていないというか。でも、そのテンションが今は悪くない。
――不意に、腕に温かいものが絡みついた。
ミルシェが腕を組んでいる。
向かいから、フードを目深に被った人影が歩いてきた。
すぐ分かった。すれ違うだけで届く、やたらいい匂い。そしてその後ろを、一定の距離でぞろぞろとついてくる冒険者のファンの群れ。
セリアだ。ここ最近、顔を合わせていなかった。……大名行列かよ。
セリアの足が、一瞬止まった。フードの奥から、視線がこちらに向く。——私を、というより、私の腕に絡みついているミルシェを。
セリアの指先が、フードの縁に触れた。深く被り直すように。そのまま視線を逸らし、足早に通り過ぎていった。後ろの行列も、何事かと顔を見合わせながら慌ててついていく。
……何のためのフードだよ。意味ないだろ。
隣のミルシェは、気づかずに鼻歌を続けている。
「ご機嫌だね」
「えへへ♡ 今日は朝からずっとご機嫌なの♡」
ふと、右足がもたついた。石畳の段差を踏み損ねた。大したことじゃない。ちょっとよろけただけだ。
でも、腕を組んでいたミルシェには伝わったらしい。支えるように、きゅっと力が入った。
ミルシェの鼻歌が、止まった。
「ねぇ、ユズリハちゃん」
「ん?」
「してもらったこと、どうやってお礼すればいいか分かんない」
「ご飯おごってもらったじゃん」
ただしデザートは除く。
「ご飯じゃ足りないよ」
ミルシェが足を止めた。
腕が絡んでいるせいで、私も自動的に止まる。
「私ね」
ミルシェが、こちらを見た。
いつもの顔じゃない。真っ直ぐな目。夕日が、睫毛の先だけを金色に染めていた。
「馬車で言ったの、覚えてる? 愛情の示し方、教わってないって」
「……うん」
「今も、よく分かんないの。愛って何なのか」
ミルシェが、一歩近づいた。腕を組んでいた手が、するりと滑って、私の指に絡んでいた。
「でも、ユズリハちゃんがしてくれたこと——たぶん、こういうのをそう呼ぶんだよね」
「大げさな……バグ取っただけだよ」
「大げさじゃないよ」
――離さない。指に、静かに力がこもっている。
振りほどくのも違う。握り返すのも違う。……正解が分からない。
なんか背筋がざわつく。
ふと、ミルシェの瞳が変わっていた。
うっすらと赤が滲んでいる。擬態を、わざと薄くしている。この距離でしか分からないほど微かに。
――せっかく安定したのに、なんでわざと緩めてるんだ。
「ミルシェ……?」
一歩、後ろに下がった。
背中が、壁にぶつかる。いつの間にか、路地の壁際まで来ていた。
ミルシェが、壁に手をついた。ことり、と小さな音。
息がかかるほど、近い。
……あれ。なんか追い込まれてないか、私。
背中に壁。目の前に魔族。逃げ道なし。……え、何。
「ユズリハちゃん、私のこと嫌い?」
少し首を傾げて、覗き込んでくる。上目遣い。
「嫌いだったら体の中いじらないでしょ」
「じゃあ、好き?」
何を今さら聞いてるんだ。当たり前だろ。
「好きだよ」
ミルシェが、ふっと笑った。いつもの笑みだ。
――と思ったのに、次の瞬間、その笑みが消えた。
「……ユズリハちゃん」
声が、小さくなった。
赤い瞳が、間近で揺れている。路地はもう薄暗い。なのに、その赤だけが、やけにはっきりと見えた。
「私、ユズリハちゃんのこと、好き」
……さっき、私も同じこと言った。同じ「好き」のはずなのに、全然違う声だった。
「この気持ちが何なのかは、分からない。教わってないから」
「…………」
「でも、ユズリハちゃんにだけ、こう思う。それだけは、はっきりしてる」
壁についたミルシェの指先が、かすかに震えていた。
「……うん」
どう返せばいいのか分からない。それしか、出てこなかった。
ミルシェが、ゆっくりと離れた。絡んでいた指が、するりとほどけた。壁についていた手が、そっと落ちた。
そして背を向けたかと思うと、くるりと振り返ってこちらを見た。
いたずらっぽい笑み。でも、温かい。
「私、ユズリハちゃんから教わるからね♡」
ウインクして、去っていく。私は壁に寄りかかったまま、その背中を見送った。
……教わる、か。私が教えられることなんて、何もないのに。
ミルシェの指が絡んでいた手が、まだ温かい。
宿に戻って、ベッドに座る。
靴を脱いで、ため息をついて、天井を見た。
ミルシェの顔が浮かぶ。「好きだよ」と答えた時の、あのふっと笑った顔。次の瞬間、小悪魔の顔が全部消えた、あの一瞬。壁についた指先の、かすかな震え。
……たぶん、術後の反動だ。生まれてからずっと愛情を知らずに来た子が、初めて他人に体を気にかけられた。行き場のない感情が、私に向かって噴き出してるだけ。本人も「これが何なのか分からない」と言ってた。なら、私が先に名前をつける筋合いじゃない。ミルシェがいつか自分で見つければいい話だ。
……最後の「好き」の声だけ、少し耳に残ったけど。
手のひらを握って、開いた。熱は、もう散っている。
……明日から、復帰だ。




