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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング  作者: 風丸
女子会パーティ

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44/49

体が、軽い

 翌朝、ギルドに向かった。

 朝一番、受付にミルシェへの伝言を頼んでから、酒場の隅で待つつもりだった。手が空いた時でいい、と添えて。



「ユズリハちゃん!」



 ——その必要はなかった。ギルドの扉を開けるなり、ミルシェが駆け寄ってきた。



「あ、ミルシェ。ちょうどよかった。二人で話せる?」


「……うん♡」



 いつもの路地裏。

 最近ここに来ることが多い。秘密の話をするのに便利な場所だ。



「ミルシェ、覚えてる? この前、ちょっと触った時」


「あ……うん。変なとこ触ったやつ♡」


「変なとこじゃなくて。……あの時、ミルシェの中の『術式』が、見えてたんだ」



 ミルシェの表情が、一瞬、固まった。



「……術式? ユズリハちゃんに、見えるの?」


「うん。文字みたいな、記号みたいな——光の線が、体中に張り巡らされてた。魔物にも、同じものがある」


「……どうして見えるの?」


「私にも、よく分からない。……ここ数日、魔物を使って詳しく調べてた。術式がどう動いてて、どこをどう触れば安全か」


「わぁ、すごい♡」


「その結果——あの時ミルシェの中を見た時から、ずっと気になってたことがあって」


「なになに……?」


「何箇所かで、同じ動きを繰り返してる部分があった。何かを呼んでるみたいなんだけど、応答がない。それでも止まらない。……もしかしたら呼んでるのが『殺意』じゃないかって、思ってた」


「……殺意?」


「魔族の体には、『人間を殺せ』っていう術式が埋め込まれてる。——この数日、実際に魔物で確かめた。魔物の体の中心、核にそれが刻まれてるのを、はっきり見た」



 ミルシェが、息を呑んだ。



「ミルシェの空振りは、たぶんそれを呼ぼうとして辿り着けないで、空を掴み続けてる。ミルシェには『殺せ』がない。器だけあって、中身が最初から空っぽ」



 ミルシェの目が、ゆっくりと見開かれた。

 何かを言いかけて、飲み込んだ。



「その空振りが、生まれた時からずっとミルシェの力を食い続けてると思う。止めれば、体の負担は減るはず。……仮説だけど。この数日、止めるやり方を魔物で練習してきた」



 ミルシェが、無意識に胸元に手を当てた。

 しばらく、何も言わなかった。



「……直せるの?」


「確証はない。でも構造は理解した。やる価値はあると思う」



 直したい。それ以外は、今はない。



「……失敗したら、どうなるの?」



 いつもの甘い声じゃなかった。

 ……正直に答えるしかない。



「触れること自体は、たぶん大丈夫。前にミルシェに触れた時、術式は私を弾かなかったから。……でも、触れた後にどこを外すかは、私の判断。読み違えたら、大事な部分を傷つける。練習はしたけど、保証はできない」



 ミルシェが唇を結んだ。沈黙が長かった。

 ミルシェの指が、無意識に前髪の奥に伸びた。完全には消えない角の根元を、確かめるように撫でる。いつもの癖だ。



「……ユズリハちゃん」


「ん?」


「私ね……他の魔族の子より、ずっと弱かったんだ」


「……弱い?」


「うん。走ればすぐ息が上がって、力比べしたら勝てなくて。お父さんもお母さんも、強かったのに、私だけ——全然だった」



 ——「ミルシェは十分強いでしょ。身体能力エグいし」。

 帰り道で私がそう言った時、この子は笑って「えへへ♡」と照れていた。あの時のえへへが、今、違って聞こえた。



 ミルシェが、自分の胸元に手を当てた。



「ずっと、だるいのが普通だった。朝起きるのも重くて、夜まで体を動かすのもきつくて。でも、生まれた時からそうだから、私の体はこういうものなんだって思ってた」



 声が、少しだけ震えていた。



「でも、さっきの話を聞いて——もしかしたら、それのせいだったのかもしれないって思ったんだ」



 ミルシェが顔を上げた。



「それにね、ユズリハちゃんにしか見えないんでしょ? 私の中のこれ」


「……うん」


「じゃあ、今逃したら、もう一生このままだよね」



 静かな声だった。

 ……やって失敗する可能性より、やらずに一生このまま、の方が重い。そういう顔だった。



「……やって」



 短い一言だった。声は、震えていなかった。



「お願い、ユズリハちゃん」



 ……正直、私は緊張している。

 前職で初めての本番リリース、あの夜を思い出す。テスト環境では動いた。手順書も作った。でも本番は別物だ。あの時と違うのは、障害が起きても『元に戻す』ボタンがないこと。

 システム障害なんて、再起動で直る話だ。最悪でも始末書を書いて頭を下げれば済む。誰も死なない。誰の人生も壊れない。でも今回は違う。

 ——医者が手術前に、患者に同意書を書かせる。「後遺症が残る可能性があります」「元には戻せません」。医者は同意書と訓練を土台にメスを握る。

 私にあるのは、さっきの「やって」の一言と、五日間の練習だけだ。

 ……私は医者じゃない。人の命を扱う訓練なんて、受けたことがない。



「……ユズリハちゃん、顔怖いよ♡」


「え」


「眉間のしわ、すごいことになってる♡」


「……」


「あと手、震えてるよ♡」


「……冷えてるだけ」


「今日あったかいのに♡」



 ……全部バレてる。

 ミルシェが、ふっと笑った。



「大丈夫だよ。ユズリハちゃんのこと信じてるから」


「……失敗したらどうする」


「その時はその時♡ でも、失敗しないでしょ?」



 根拠のない信頼。普通なら無責任に聞こえる。

 でも、今はその軽さに救われた。……ここから先は、迷っても意味がない。

 五日間、練習してきた。角ウサギで手を痺れさせ、森鼠の術式に弾かれ、何度もやり直した。あの五日は、今日のためにあった。

 ……引き受ける。

 ミルシェのこれからを、数分間、この指先一本に預かる。

 ——絶対に、壊さない。



「じゃあ、擬態解いて」


「うん……なんか恥ずかしい」



 ミルシェが目を閉じる。

 瞳が赤く染まり、肌に紋様が浮かび上がる。



「これでいい?」


「うん。じっとしてて」



 私はアルミ玉を握りしめた。

 掌の中で、金属が熱を帯びた。大気中の魔力が一気に引き寄せられ、アルミ玉を中継して体の中を駆け抜けていく。

 視界が切り替わる。ミルシェの体に、光の線が張り巡らされているのが見えた。

 ——やはり、魔物とは別物だ。

 前に一度見た時は、気になる一点に意識が吸い寄せられていた。あの空振り部分を追いかけるのに必死で、周りまで目が回らなかった。

 今日は違う。切り離す場所を決めるには、周囲の構造まで全部把握しないといけない。改めて全体を眺めて——軽く目眩がした。

 頭の先から指先まで、光の線が何層にも折り重なっている。太さも細さもまちまちで、一本を追うと別の数本と交差して、交点からまた新しい線が伸びていく。一本追うごとに、二本見失う。

 魔物はこうじゃなかった。中心の核に全部が集約されていて、太い線が数本、枝分かれする補助線が数十。数分も眺めれば全体が頭に入った。あれを見て「複雑」と思っていた自分が、今は笑える。

 ……落ち着け。全部を読もうとするから酔うんだ。必要なのは全体じゃない。あの空振り処理の位置と、切り離せる接合点。それだけ見つければいい。

 アルミ玉を握った左手に意識を集中し、光の線を辿っていく。



 そして——やはり、あった。

 空を掴んで、戻って、また伸ばす。同じ動きを、ずっと繰り返している部分。

 最初にミルシェの中を見た時、ほんの一瞬で目に留まった、あの動き。あの時は『何かを呼んでいる』と感じただけだった。今は、違う。

 形そのものは、魔物で見たのと同じだ。周りの構造がいくら複雑でも、バグそのもののパターンは変わらない。五日間で体に染みついた形が、ここにもある。

 全体の構造を読む。このバグが他のどの処理と繋がっているか。どこでなら外せるか。

 ミルシェの体が、小さく震えた。覗かれている感覚でもあるのだろうか。

 ……落ち着け。今やるべきは、この呼び出しを止めること。それだけだ。



 ……ここだ。

 前後の処理に影響を与えない、呼び出しだけを外せる一点。森鼠でやったのと同じ要領だ。

 深く息を吸った。指先に意識を集中させる。



 一箇所目。

 呼び出し処理の境界に沿って、指先を近づけていく——触れた。

 ——抵抗が、ない。魔物とは違う。押し返されない。

 ……やっぱり、ミルシェは弾かない。目の前のこの子は、私に自分の体を預けている。赤い目でまっすぐ、私を見ている。疑わず、信じきっている。

 ……この信頼を、絶対に裏切れない。失敗は、許されない。

 ごくり——唾を飲み込んだ。全身の神経を、指先一点に集中させる。

 抵抗がない分、境界の手応えは曖昧だ。魔物は「ここから先は駄目だ」と教えてくれていた。ミルシェは、何も言わない。全部、自分で見極めないといけない。

 流れに沿って。五日間で染み込ませたリズム。

 ——切り離した。空を掴んでいた手が一つ、消える。ミルシェの肩が、小さく跳ねた。



 二箇所目。

 一つ目より深い位置。周囲の線が密集していて、余計な場所に触れそうになる。

 慎重に、慎重に。指先の感覚だけを頼りに、境界をなぞっていく。

 ——足音。

 路地の向こうから、誰かが歩いてくる。ミルシェの体が強張った。角が——出たままだ。

 手を止められない。中途半端な位置で離せば、切りかけの傷口が残る。

 足音が近づく。壁一枚向こう。

 ……通り過ぎた。遠ざかっていく。

 ミルシェの肩から力が抜けたのが分かった。——今だ。

 境界に沿って、一気に切り離す。二つ目の手が消えた。

 ミルシェが小さく息を漏らした。



 三箇所目。

 これが、一番厄介だった。

 呼び出し処理のすぐ隣を、生命維持に関わる太い線が走っている。

 隙間は一ミリあるかどうか。触れれば——呼吸か心臓か、どちらかが一瞬で止まる。そういう線だ。

 ……そこまで読んで、指先が止まった。



「……大丈夫?」



 ミルシェの声だ。不安そうな、でも信じている声。



「……動かないで」



 自分の声が硬いのが分かった。

 二箇所の切り離しで、体がかなり削れていた。アルミ玉は魔力をいくらでも引き寄せてくれる。足りないのは魔力じゃない。それを通す私の体の方だ。指先の感覚が鈍い。

 ……それでも、やるしかない。

 呼吸を整える。吸って、触れて、吐いて、力を抜く。

 生命維持の線に触れないよう、呼び出し処理だけを、流れに沿って——指先が、滑った。

 太い線に触れかけた。反射的に手を引く。

 自分の心臓がバクバクと脈打っている。

 ……触れてない。大丈夫。あと一ミリずれていたら——考えるな。

 額の汗を拭いたかった。そんな余裕はない。

 もう一度。同じ場所に、もっとゆっくり手を伸ばす。

 流れに沿え。力で押すな。五日間で体に刻んだリズムを信じろ。

 呼び出し処理の境界を、一本の糸を引くように——。



「……削除」



 静かに呟いた。

 全てのノイズが止まり、周囲の術式が静かに流れ始めた。

 額に汗が滲んでいた。手が震えている。膝が笑いそうだった。

 簡単じゃなかった。全然、簡単じゃなかった。



「……ユズリハちゃん、大丈夫? 顔、死んでるよ♡」


「……生きてる」


「膝、がくがくしてるよ♡ 生まれたての小鹿みたい♡」


「……やかましい」



 ……誰のせいだと思ってんだよ。

 でもよく見ると、ミルシェの手も微かに震えていた。……からかってるんじゃない。この子も、怖かったんだ。



「あ……」



 ミルシェが、小さく声を漏らした。

 痛みの声じゃない。もっと……不思議そうな声。



「……なに、これ」



 両手を開いて、閉じて。肩を回して、首を傾けて。自分の体を確かめている。



「体が……軽い」


「え?」


「なんか……分かんないけど、体が軽い。ずっと力が入ってたのが、抜けた感じ……」



 ミルシェが、自分の手のひらを見つめた。



「私、ずっとこんなに力入ってたの……?」



 そして、ミルシェが目を閉じた。擬態が戻っていく。紋様が消え、瞳の色が変わる。



 ミルシェが自分の頭に手をやった。その手が、止まった。

 前髪の奥。いつも角の根元を撫でていた、その位置。

 ——指先が、何にも触れなかった。



「角も……消せる……!」



 ミルシェが私の手を取った。目が潤んでいる。

 擬態が安定しなかったのは呼び出し口がずっと空振りしていたせいだった。



「体がこんなに楽なの、初めて……」



 声が震えていた。

 改めて成功したことを心の中で噛み締める。良かった……。



 しばらく、ミルシェは自分の手のひらを眺めていた。

 やがて、ぽつりと呟いた。



「……そっか。お父さんもお母さんも、ああだったのは……命令だったんだ」



 静かな声だった。問いかけじゃなかった。

 ミルシェが、ふっと笑った。泣き笑いの、不思議な顔。



「だから……違ったんだ」



 ——「根っこが違うの」。あの日のミルシェの言葉が蘇った。

 その答えが、今、出た。



「……ねぇ、ユズリハちゃん」


「ん?」


「ないものは、ないんだよね?♡」



 ——ないものは、ない。

 単純な言葉だ。でも、この子が言うと重さが違った。



「……うん。ないよ。最初から」



 ミルシェが、目元を拭った。

 ゆっくりと、笑顔が戻ってくる。いつもの甘い調子じゃなくて、もっと……静かな笑顔。



「ありがとう。本当に」



 いつもの甘ったるい語尾がなかった。

 ミルシェが腕を伸ばし、軽く跳ねてみた。自分の体が信じられないという顔。

 ——そして、路地の壁にもたれて、空を見上げた。

 しばらく、何も言わなかった。

 殺意がない。家族にはあったものが、自分にはない。その事実を、この子は今一度、一人で飲み込もうとしている。

 ……何か言うべきなのか。喉が、動かなかった。

 体がずっしりと重い。アルミ玉はまだ温かい。五日間の蓄積と今日の三箇所で、配管が焼き切れかけている。

 でも、悪い気分じゃなかった。



 やがて、ミルシェが小さく息を吐いた。振り向いた顔は、もういつもの顔だった。



「ユズリハちゃん」


「ん?」


「今度、晩ご飯おごるね♡」


「いいよ別に」


「ダメ♡ 絶対おごる♡」



 ミルシェの笑顔が、いつもより眩しかった。

 ……まあ、おごられてやるか。体がまともに動くようになったら。



「……じゃあ、お言葉に甘えて」


「やった♡」



 ミルシェに腕を引っ張られて、路地裏を出た。

 夕日が通りを橙色に染めている。



 ……ふと、ソロンの顔が浮かんだ。

 ソロンが教えてくれた術式の読み方。五日間の訓練。その全てを使って、今日、私は魔族の体を直した。

 でも——あの人は、今の私がこの技術を、仲間の魔族を治すために使っているとは、想像もしていないだろう。

 胸の奥が、軋んだ。

 いつか、話さなくてはいけない。



「ユズリハちゃん、何食べたい?♡」



 ミルシェの声で、我に返った。



「……なんでもいい」


「えー、なんでもいいは一番困るやつ♡」


「じゃあ肉」


「了解♡」



 ミルシェの足取りが、心なしか軽かった。

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