術式と師匠
翌朝、私はソロンのもとを訪れた。
昨日見た、ミルシェの体に張り巡らされた光の線。あの空振りを繰り返すコード——殺意なのか、別の何かなのか。仮説のままじゃ動けない。
眠れない夜を過ごした割に、足取りは妙に軽い。答えが近い時の高揚感だ。絡まった糸の端が見えた時の、あの感覚。
「先生、確かめたいことがあるんです」
「朝っぱらから改まってどうしたんだ」
ソロンは、いつものように椅子に座って本を読んでいた。
分厚い革表紙の、いかにも魔法学の専門書という風格。こういうのを開いている時のソロンは機嫌がいい。趣味の時間だ。
私は向かいに座り、単刀直入に切り出した。
「アルミ玉を握ってる時、魔物の体の中に光の線が見えるんです」
「光の線?」
「文字みたいな、記号みたいな……光る線が、体中に張り巡らされてるのが」
ソロンの手が止まった。読んでいた本がぱたんと閉じられる。
ページに挟んでいた栞が、ぱらりと床に落ちた。ソロンはそれを拾わなかった。
「……もう一度言え」
「え、だから光の線が……」
「いつからだ」
「最初は角ウサギの時です。でもその時は一瞬で、気のせいかと……」
「今は?」
「はっきり見えます。魔物にも、擬態を解いた……ええと、魔族にも」
ソロンの目が細まった。
「アオイよ……生きた魔族に会ったのか」
「……ちょっと事情があって」
それ以上は聞かなかった。ただ、ソロンの膝の上の拳が一瞬だけ白くなったのを、私は見ていた。
ソロンが椅子から立ち上がった。
部屋の中を二、三歩、行ったり来たりする。右手で顎髭を撫でて、窓の外を見て、また部屋の中央に戻ってきて。
「お主、それを今まで黙っていたのか」
「いや、昨日はっきり確信したばかりで……」
ソロンは大きく息を吐いた。椅子に座り直すでもなく、本棚に背を預けて腕を組む。
一瞬だけ、目が遠くなった。何かを——誰かを、思い出しかけたような間。すぐに消えた。
「……それは術式だろう」
「術式?」
「魔の始祖が命に刻んだ印だ。生きた仕組みが、体の中に埋まっている」
魔の始祖……。
「術式は通常、見えるものではない。魔族本人にすら見えん」
「そうなんですか?」
「あぁ」
ソロンの目が、私の手元に落ちた。
「……アルミ玉を、見せてくれ」
「え……はい」
アルミ玉を渡すと、ソロンは指先で転がし、光に透かし、しばらく黙った。
「やはり……純粋だ。この世界の魔力に染まっていない。お主の手の中で触媒になって、術式を透かしているのだろう」
呟くようにそう言って、アルミ玉を返した。
その顔つきが、変わっていた。厳しい顔。でも、その奥に好奇心が光っている。学者が未知の標本を前にした時の、あの顔だ。怖さ半分、興奮半分。
「先生。……その術式って、もう少し詳しく教えてくれませんか?」
ソロンは少しだけ眉を寄せ、言葉を選ぶように言った。
「そうだな。……体に刻まれた、設計図のようなものだ。いや——設計図というよりは、命令に近い。魔の始祖が刻んだ命令。体がどう動くか、何を求めるか。全てが、そこに書かれている」
やはり……命令。刻まれた命令。
……書き込まれたものなら。
「……それ、書き換えたりできるんですか?」
ソロンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
しばらく、私の顔を見つめてから——静かに言った。
「……読めるなら、触れられる。触れられるなら、書き換えられる可能性はある」
——可能性。
私の脳内で、何かが繋がった。
「じゃあ——殺意にも干渉できるってことですよね? ……術式、書き換えられるか試してみます」
「待て」
ソロンの声が鋭くなった。
「術式は生命に直結している。下手に触れれば、弾かれる。最悪、お主が死ぬ」
その言葉が、ずしりと胸に残った。
……でも。昨日、ミルシェの術式に触れた時は弾かれなかった。普通に触れられたぞ。
「生きた体に刃を入れるのと同じだ。どこに何が通っているか知らずに切れば、止血すらできん。まず全体を把握しろ」
「……はい」
ソロンは指を立てて、続ける。
「死体ではダメだ。死ねば術式は消える。読むなら、生きている魔物だ」
「じゃあ、討伐依頼のついでに……」
「一人で戦いながら読もうとするな」
ソロンが遮った。
「お主の魔法は初見の相手に強い。だが術式を読むのに集中すれば、その強みが活きん。戦闘と観察を同時にやろうとして、両方疎かになる——最悪、死ぬ」
「……じゃあ、どうすれば」
「わたしが魔物を連れてくる」
「え」
「拘束して、必要なら弱らせる。お主は、読むことだけに集中しろ」
私は一瞬、言葉を失った。
ソロンが弟子の訓練にここまで踏み込む姿は、見たことがなかった。魔法開発の時だって、観察に来ても口を挟むのは最小限で、作るのも試すのも私に任せきりだった。
でも、今のソロンの顔は違う。さっきアルミ玉を光に透かしていた時と——同じ顔だった。
「分かりました……お願いします」
「うむ。くれぐれも慎重にな。焦るなよ」
「分かりました」
「本当に分かっておるか?」
「分かってます」
「もう一度言え」
「分かってますって」
ソロンはしばらく私の顔を見つめてから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……お主の『分かった』は、あてにならんからな」
呆れたように言いながら、口元はほんの少しだけ緩んでいた。
翌朝、ソロンに指定された森の空き地に向かった。
到着すると、地面に縄で縛られた角ウサギが三匹、転がっていた。まだ生きている。赤い目がこちらを不機嫌そうに睨んでいる。
「……どこで捕まえたんですか、これ」
「拾った」
「嘘でしょ」
「嘘だ」
悪びれもしない。
「始めろ。好きに読め。わたしは手出しせん」
「……はい」
念には念を。縛られた角ウサギの一匹に、氷蜂を撃ち込んだ。下半身を完全凍結。縄との二重拘束で、もう動けない。
念のため、蝉騒も重ねて発動した。
ジジジジジジジジ。角ウサギは一瞬だけ耳をひくつかせて、あとは平常運転だった。
ミスった。
隣でソロンが淡々と言った。
「角ウサギに詠唱妨害を使った冒険者は、お主が初めてだろうな」
「……記録に残さないでください」
咳払いで誤魔化して、アルミ玉を握り直した。
凍りついた角ウサギの体に、光の線がはっきりと浮かび上がっていた。文字のような、記号のような。脚を中心に、背骨に沿って、頭部へと枝分かれしている。
見える。落ち着いて、じっくり追える。
「……見えます。体中に線が張り巡らされてます。背骨に沿って太い一本。そこから各部位に分岐してる」
「主幹だろう。そこから分かれて、感覚と運動を制御している」
「細い線が脚の付け根から伸びて……あ、脚が動きそうになった時、その線が一瞬光りました」
「運動系だな。命令が走る瞬間を見ている」
私が見えるものを言葉にする。ソロンが知識で解釈する。その往復で、術式の輪郭が少しずつ形になっていく。
……これは、私一人では絶対にたどり着けなかった。
ふと、ソロンが手を差し出した。
「アルミ玉を貸せ」
渡すと、ソロンは握ったまま角ウサギを見下ろした。数秒。何も言わない。
それから、静かに返してきた。
「……やはり、わたしには見えん」
静かな声だった。
ずっと、この人は見えないまま戦ってきた。術式の形も、中身も知らないまま。
「……なんで、私だけ見えるんですか」
自然と口から出ていた。ソロンほどの魔法使いに見えないものが、私ごときに見える理由が分からなかった。
ソロンは少し間を置いた。
「……お主も、この金属も、この世界の外から来ている」
ゆっくりと、続けた。
「おそらく……この世界の魔力の中で生まれた者には、術式は見えんのだろう。水の中の魚に、水が見えないのと同じだ。だが、お主は水の外から来た。……だから、透ける」
……水の外。
——ああ、そういうことか。なんとなく理解はできる。これがいわゆる異世界ならではのチートということか。……地味だが。
ソロンは、もう何も言わなかった。ただ、夕方の光が落ちる方へ顔を向けて、長く息を吐いた。
「……明日から、本気で始めるぞ」
「はい」
翌朝から、空き地には毎日、新しい標本が転がっていた。
角ウサギ、森鼠、たまに毒蜥蜴。私は氷蜂で念入りに凍結させて、じっくり読んだ。
パーティの依頼がある日は通常どおり活動し、空き時間はソロンの元へ。ミルシェにもリコにもセリアにも、術式の話は伏せた。
私が見えるものを伝え、ソロンが知識で解釈する。そういう形が、自然にできあがっていた。
三日目の夕方には、アルミ玉を握る左手が、常に微かに痺れていた。魔力切れではない。アルミ玉が吸い続ける魔力が、ずっとこの体を通り抜けている——高圧電流を素手で握り続けているようなものだ。
でも、やめられなかった。見えるものが増えるたびに、もっと奥が見たくなる。ソロンも、同じだった。私より先に空き地に着いていて、私より遅くまで空き地に残っていた。
「横隔膜のあたりから、細かい信号が循環してます。ずっと止まらない」
「維持系だ。生きている限り止まらん」
「目と耳からも線が伸びてます。走る方向が違う」
「入力系だろう。外から入った情報を、主幹に集めている」
分岐の先を追う。もっと細かく、もっと奥まで。気づけばアルミ玉を握る手に力がこもっていた。術式の像がぶれる。線が二重に滲んで、輪郭が崩れていく。
「力を入れすぎだ」
その一言で、アルミ玉を握る力を抜いたら、視界が嘘みたいに安定した。やっぱり、師匠には敵わない。
少しずつ、見えるものが増えていった。呼吸を制御している部分。筋肉を動かしている部分。感覚を処理している部分。読める。ちゃんと読めてきている。
そして——中心に太く脈打つ線がある。他の線が「生きる」ために動いているのに対して、その線だけが違う。もっと暗くて、もっと鋭い。
どの魔物にも、同じ位置に、同じ線があった。
——ミルシェの空振り。あの子の手が伸びていた先。あれは、この位置じゃなかったか。
……もっと読もう。答え合わせは、その後だ。
「中心に、他と全然違う線があります。暗くて、太くて、鋭い」
「……それは核ではないか。魔の始祖の命令が刻まれた場所だ」
命令。刻まれた命令。
……仮説が正しければ、この線に「殺せ」が書いてあるはずだ。
「……読みます」
私はその線を正面から読もうとした。
——吐き気がした。文字じゃない。意味が、直接流れ込んでくる。
体が強張った。頭で理解したんじゃない。体が受け取った。
この線には感情がない。怒りも憎しみもない。ただ刻まれている。理由もなく、迷いもなく、最初からそう決まっているとでも言うように。
「……先生」
言葉を選ぶ余裕がなかった。
「……『殺せ』って、書いてあります」
ソロンが黙った。
長い間だった。風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
「……そうか」
たった二文字。でも、声が硬かった。
この人は何十年も魔族と戦ってきた。その手で何体もの魔物を倒してきた。妻を奪われ、弟子を奪われた。
その全ての元凶が——「殺せ」という、たった一言の命令だった。
ソロンは私に背を向けて、一歩だけ離れた。
それ以上、何も言わなかった。私も、何も言えなかった。
四日目の夕方。三日間で読んできた情報は、頭の中で少しずつ形になっている。
「……触れてみようと思います」
ソロンはしばらく黙ってから、低く言った。
「……末端から、慎重にな」
氷蜂で下半身を凍りつかせた森鼠。赤い目がぎょろりとこちらを睨んでいる。小さな体の割に、術式は複雑だった。
アルミ玉越しに、術式に手を伸ばした。慎重に……ゆっくり。
指先が光の線に近づいていく。温度でも重さでもない、もっと根源的な——「在る」という感覚。触れる直前、光の線がびくりと震えた。生きている。このコードは、生きている。
バチッ。
「っ!」
弾かれた。
右の掌から肘まで、電撃のような衝撃が駆け上がった。指先が痺れて、まだ震えが止まらない。
「力で触るな」
ソロンの声が、背後から飛んできた。
「……じゃあ、どうすれば」
ソロンは少しだけ間を置いた。
「術式はお主にしか見えん。わたしが教えられることではない。だが——生きた仕組みに触れたいなら、流れに逆らうな」
流れに逆らうな。
この人が何十年もかけて学んだ、魔法の本質。
さっき、私は力で術式に触れた。弾かれた。生きた仕組みは、押し込めば抵抗する。
……でも。ミルシェの時は弾かれなかった。同じように触れたのに、抵抗がなかった。
あの子の術式は——私を、拒んでいなかったからか。
直接いじるのは容易じゃない。でも、構造は見えた。どこが何と繋がっているか。どこを切れば他に影響するか。
読んだ情報が、頭の中で少しずつ地図になっていく。
次の森鼠は弱りすぎていて、凍結の必要もなかった。縛られたまま、ろくに動かない。
末端の線から、繰り返し試した。流れに逆らわず、呼吸を合わせれば弾かれない。
よし。メス!
脚の制御線を指先の力で一本外すと、森鼠の後脚がだらんと垂れた。他の脚は動いている。呼吸もしている。
——できた。
振り返ると、ソロンが何も言わずに、動かなくなったその一本を見ていた。
一度だけ、深く頷いた。それだけだった。
その夜。
宿の天井を見ていた。末端は外せた。だったら——次は、核しかない。
あの太い線。「殺せ」が刻まれた、命令そのもの。同じ手順で届くのか、それとも弾かれるのか。やってみなければ、分からない。
目を閉じても、眠気は来なかった。
五日目。
空き地に着くと、すでにソロンが待っていた。昨日より早い。足元には新しい森鼠。
「核、試します」
「……無理はするな」
声が硬い。でも、止めはしなかった。
次の森鼠を氷蜂で凍結させ、中心に手を伸ばした。あの太い線。「殺せ」が刻まれた、命令そのもの。
周辺とは桁違いの抵抗。押し返される。でも、弾かれはしない。
——昨日、末端の線は外せた。脚の制御を一本だけ切って、残りの線は動いていた。だったら、同じはずだ。核そのものに手を入れるんじゃなくて、核から体に向かって伸びている接続——命令の出口を、外す。刻まれた「殺せ」はそのまま残っても、流れ出る先がなくなれば、呼び出された瞬間に空を切る。
殺意と本体を、切り離す。仮説としては、それで足りるはずだ。流れに逆らわず、境界をなぞる。末端の何倍も重い。指先が痺れる。集中が削れていく。
それでも——最後の接合点を、外した。森鼠の赤い目から、光が薄れた。
凍結が解けた。身構える。
森鼠がびくりと震えた。赤い目が私を捉えて——一瞬、体が強張る。
そのまま踵を返して、茂みの中へ走り去った。……逃げた。さっきまで赤い目でこちらを睨みつけていた個体が、私を見て、逃げた。
走り去る背中に、術式がまだ見えた。核を失った分、残りの線が穏やかに脈打っている。さっきまで全体を揺らしていたノイズが消えて、他の線が安定して動いていた。
仮説通り。命令は残ったまま、出口だけが塞がれている。
——魔物から、殺意を消せた。
手が震えている。達成感のはずなのに、指先が冷たい。生き物の体の設計を、外から書き換えた。やっていることの重さが、じわじわと込み上げてくる。
五日間の蓄積が、体に来ていた。術式に触れていた右手は、痺れて感覚が遠い。
振り返ると、ソロンが黙って立っていた。何も言わない。ただ、森鼠が消えた茂みを見つめている。
長い、長い沈黙だった。「殺せ」を読んだあの時より、ずっと長い。
……この人にとって、あの森鼠はどう見えているんだろう。
「……魔の始祖が刻んだ命令を消した者は、おそらくお主が初めてだ」
低く、噛みしめるような声だった。
「わたしは、力でしか答えを出せなかった」
ソロンが、自分の拳を握った。それから、ゆっくりと開いた。握ったあとの掌を、数秒、じっと見下ろしていた。
風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
それから踵を返して、歩き出す。
「お主は——お主のやり方で答えを出せ」
……この人が五日間、ここに立ち続けた理由が——今なら分かる。
ソロンには術式が見えない。力では届かなかった場所に、私の指先だけが届いた。だからずっと——私の目を通して、見ていたのだ。
背中を向けたまま、一度だけ足を止めた。
「わたしの若い頃にお主がおれば——まあ、よい。年寄りの繰り言だ」
背中越しのその声は——ほんの少しだけ、震えていた。
……違う。繰り言なんかじゃない。
でも、何を返しても、ソロンの過去を軽くしてしまう気がした。
結局、私は何も言えなかった。
ソロンの背中が、木々の向こうに消えていく。
——この力は、私にしか使えない。ソロンほどの魔法使いが届かなかった場所に、今、私の指だけが届いている。
……私が強くなりたかったのは、帰るためだ。そのはずだった。
でも、手に入ったのは——それより、ずっと遠くに届く力だった。
どう使うか。何のために使うか。
……今は、分からない。
五日目の夜。
宿に戻ると、体がまともに動かなかった。靴を脱いだら靴下に穴が空いていた。術式は読めるようになったのに、靴下の寿命は読めなかった。
熱い風呂に入っても、腕の痺れは抜けきらない。
……でも、ペンは握れる。宿の机に向かって、術式の構造を書き出していた。
ペンが止まる。……ミルシェの空振り。あの夜の仮説が、頭の中で像を結んだ。
ミルシェの体が手を伸ばしていた先と、魔物の術式の核——同じ位置。
やはり、あれは殺意だ。
ミルシェの体は「殺せ」を呼び出そうとしている。でも、呼び出す先が存在しない。何度呼んでも、空を掴むだけ。null参照——生まれた時から、ずっと。
エンジニアとしての直感が、働いた。
——この空回りを止められれば、あの子の体は、楽になるのでは。
空回りに力を吸い取られて、全身を覆うだけの余裕が残らないのでは。
ミルシェの殺意の呼び出し口を止めたい。
ただし、魔族は魔物よりずっと複雑で、同じ手順で済む保証はない。
……ソロンに言えるだろうか。魔族の体を直すために、教わった全てを使うと。
答えは出ない。でも——直せるかもしれないものを、放っておく理由にはならない。
明日、ミルシェに話そう。




