8.気になる三毛猫
数日後。
「今日、また友達来るから」
朝。
娘は靴を履きながら、誰に言うでもなくそう言った。
招き猫は玄関の棚の上から、その言葉を聞いていた。
――この前の方でしょうか。
『さあな』
桐箪笥が答える。
『友達の一人や二人、他にもおるじゃろう』
『でも、ちょっと楽しみにしてるみたいね』
鏡台が言った。
『今朝、鏡の前でいつもより髪を気にしてたもの』
――そういうのも分かるんですね。
『長い付き合いだもの』
娘はいつものように招き猫の頭を撫でる。
「行ってきます」
――行ってらっしゃい。
玄関の扉が閉まった。
◇
夕方。
招き猫は、先輩三毛猫といつもの塀にいた。
「今日も待ってるの?」
――待っているわけではありません。
「毎回それ言うよね」
――ここにいるのが一番疲れないので。
「はいはい」
先輩猫は前脚を舐め始める。
その時。
二人分の足音が近づいてきた。
「あ」
娘の声。
その隣。
「いた!」
聞き覚えのある声だった。
先日、蜂に襲われかけた女友達。
招き猫は少し緊張した。
――あの方です。
「見れば分かる」
女友達は、娘より先に二匹の方へ歩いてくる。
手には、小さな袋を持っていた。
「この子だよね?」
「うん。たぶんこっち」
娘が招き猫を指す。
――たぶん。
「だって二匹とも三毛なんだもん」
先輩猫がちらりとこちらを見る。
「間違えられてるよ」
――助けたところは見られていたはずなんですが。
「人間からしたら似てるんじゃない?」
少し納得がいかなかった。
女友達は塀の前まで来ると、しゃがみ込んだ。
そして招き猫を見る。
「この前は、ありがとね」
真っ直ぐに言われた。
招き猫は思わず返事をしそうになる。
――どういたしまして。
いけない。
猫らしく。
すぐに反応しない。
招き猫は何もせず、少しだけ首を傾げた。
先輩猫が隣から小さく言う。
「いい感じ」
――ありがとうございます。
女友達はしばらく待った。
「……聞いてる?」
――聞いています。
「にゃあ」
結局、鳴いてしまった。
「あ、返事した」
娘が笑う。
女友達は笑わなかった。
少しだけ目を細めて、こちらを見る。
「やっぱり」
「なにが?」
「いや」
女友達は何でもないように立ち上がった。
「お礼持ってきたんだ」
手にしていた袋を開く。
中から出てきたのは、見覚えのある細長い袋だった。
――チュール。
「反応した」
女友達が言った。
招き猫は固まる。
「え?」
娘が尋ねる。
「今、この子。チュール出した瞬間、耳動いた」
「猫なんだから普通じゃない?」
「袋まだ見せてないよ」
招き猫は先輩猫を見る。
「私を見ない」
――どうすれば。
「普通にしてて」
普通が一番難しい。
「うちも猫飼ってるからさ」
女友達は袋から二本取り出した。
「こういうの出した時の反応、結構分かるんだよね」
「そういえば猫飼ってたね」
「もう七年くらい」
女友達は一本を開ける。
先輩三毛猫がすぐに塀から降りた。
「ほら。普通はこっち」
――どういう意味ですか。
「食べ物だって分かったら、ああなる」
先輩猫はすでに女友達の足元にいた。
「にゃあ」
「はいはい。あげるから」
女友達が笑う。
招き猫は塀の上に残った。
「で、この子は?」
娘が招き猫を見る。
「この前は食べたよ」
「へえ」
女友達がもう一本を差し出す。
「食べる?」
――いただきます。
招き猫は塀から降りた。
近づく。
匂いを嗅ぐ。
一応、警戒する。
先輩猫に教わった通りだ。
女友達がじっと見ている。
――見られています。
「気にしない」
先輩猫はチュールを舐めながら答えた。
招き猫も少し舐める。
――美味しい。
もう一度。
「食べるねえ」
娘が笑った。
「でもさ」
女友達が招き猫を見る。
「この子、やっぱ変じゃない?」
招き猫の舌が止まった。
「えー?」
娘は笑っている。
「どこが?」
「悪い意味じゃないよ」
女友達は少し考える。
「なんていうか……人のこと見すぎ」
招き猫は反射的に目を逸らした。
「ほら」
「今のは偶然でしょ」
「うちの猫も、人の言葉は結構分かってるよ」
女友達が言う。
「ご飯とか、おやつとか、病院とか。名前呼べば振り向くし」
招き猫は聞いていた。
「でも、この子はちょっと違うんだよね」
「どう違うの?」
「返事のタイミングが、人っぽい」
招き猫は固まった。
――人っぽい。
「言われたでしょ」
先輩猫が言う。
――気をつけていたつもりです。
「つもりね」
女友達は招き猫に向かって、試すように言った。
「この前、蜂から助けてくれてありがとう」
招き猫は反応しない。
「すごく助かった」
反応しない。
「お礼にチュール持ってきた」
耳が動いた。
「あ」
女友達が指差す。
――しまった。
娘が吹き出した。
「チュールに反応しただけじゃん」
「今のタイミング絶対分かってたって」
「猫飼ってると疑り深くなるの?」
「逆。猫飼ってるから分かるの」
女友達は楽しそうではある。
怖がっているわけではないらしい。
招き猫は少し安心した。
◇
二本のチュールがなくなったあと。
先輩三毛猫は満足そうに毛づくろいを始めた。
招き猫も隣で真似をする。
「上手くなったじゃん」
――練習しました。
「前よりはね」
女友達はそんな二匹を眺めていた。
「仲いいなあ」
「でしょ?」
娘が嬉しそうに言う。
「最近ずっと一緒にいるよ」
「この桜耳の子は前からいたんだよね」
「うん」
「こっちは最近?」
「そう。この子が連れてきたのかな」
先輩猫が招き猫を見る。
「私が?」
――娘からはそう見えているようです。
「まあいいけど」
女友達は少し離れた場所から招き猫を観察している。
招き猫には、その視線が落ち着かなかった。
――まだ見られています。
「気にしすぎ」
――あの方、鋭くないですか。
「人間にしてはね」
やがて女友達が言った。
「そういえば、この子って男の子?」
娘が首を傾げる。
「分かんない」
「さっき尻尾上げた時に見えた気がする」
招き猫は意味もなく尻尾を下げた。
「やっぱり?」
「何?」
「三毛のオスって、かなり珍しいはず」
「そうなの?」
「うん。うちの親が前に言ってた」
女友達はますます興味深そうに招き猫を見る。
「珍しい三毛で、人の言葉めちゃくちゃ分かってて」
「蜂も倒せる」
娘が笑いながら付け足す。
「あと空中で跳ぶ」
「それは見間違い」
「私はまだそう思ってない」
招き猫は先輩猫を見る。
――まだ覚えていました。
「そりゃ覚えてるでしょ」
「でも、本当に空中で跳べる猫だったらすごいよね」
娘は完全に冗談として受け取っている。
「テレビ出られるんじゃない?」
「そういう話じゃないんだって」
女友達は笑った。
それ以上追及することはなかった。
◇
しばらくして。
二人は家へ入ろうと立ち上がった。
「じゃあね」
娘が手を振る。
招き猫は一度だけ、
「にゃあ」
と鳴いた。
女友達が足を止めた。
「やっぱ返事するんだよなあ」
「懐いてるんだって」
娘が言う。
その言葉に。
女友達は少し黙った。
招き猫を見る。
次に、娘を見る。
「……懐いてる、か」
「なに?」
「いや」
女友達はもう一度、招き猫へ視線を戻した。
「なんかさ」
少しだけ考える。
「この子、あんたに懐いてるっていうより」
招き猫は、その言葉を聞いた。
「守ってるみたいじゃない?」
娘が笑った。
「なにそれ」
「だって、この前もそうだったじゃん」
「蜂のこと?」
「うん。それだけじゃなくて」
女友達はうまく言葉にできないようだった。
「ずっと、あんたのこと見てるし」
「猫に見守られてるの、私?」
「そう見えるってだけ」
「じゃあ守護猫だ」
娘が楽しそうに笑った。
女友達も、
「なにそれ」
と笑う。
そして二人は玄関へ向かった。
扉が閉まる。
塀の上に、二匹だけが残った。
招き猫は何も言わなかった。
「どうしたの?」
先輩猫が尋ねる。
――いえ。
「ばれたと思った?」
――少し。
「大丈夫でしょ。あの子、笑ってたし」
――はい。
招き猫は閉じた玄関を見る。
守っている。
そう見えるらしい。
自分では考えたこともなかった。
福を招きたい。
恩返しをしたい。
それだけだったはずなのに。
蜂の時。
身体は考えるより先に動いた。
それを、外から見ていた人間には。
守っているように見えた。
「まあ」
先輩猫が前脚を舐めながら言った。
「あながち間違ってないんじゃない?」
――そうでしょうか。
「知らない」
相変わらずだった。
◇
その夜。
娘は自分の部屋で、女友達に言われたことをふと思い出した。
『この子、あんたに懐いてるっていうより、守ってるみたいじゃない?』
「守ってる、ねえ」
一人で呟く。
蜂の時。
確かに、あの三毛猫は迷わず飛び込んできた。
最近は、帰ってくる頃になるとよく家の前にいる。
話しかければ、妙に返事がいい。
落ち込んで帰ってきた日にもいた。
偶然。
全部、偶然。
そう思えば、それまでのことだった。
「……まさかね」
娘は小さく笑った。
けれど。
その日から。
家の前にいる三毛猫を見つけた時。
娘はほんの少しだけ。
以前とは違う目で、その猫を見るようになった。




