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9.気のせいじゃない

 女友達に言われた言葉が、妙に残っていた。


『この子、あんたに懐いてるっていうより、守ってるみたいじゃない?』


 その時は笑った。


 守護猫だ、なんて冗談まで言った。


 けれど。


 それから何日か。


 家の前で三毛猫を見かけるたび、娘は少しだけ気にするようになった。


「……またいる」


 学校から帰ってくると、いつもの塀の上。


 桜耳の三毛猫と、その隣。


 最近現れた、もう一匹の三毛猫。


「にゃあ」


「ただいま」


 返事をすると、もう一度。


「にゃあ」


 娘は足を止めた。


「……ほんとに返事してない?」


 招き猫は固まった。


 隣の先輩猫が小さく言う。


「返事しすぎ」


 ――今回は普通だと思います。


「どこが」


 娘には、そんな会話は聞こえない。


 ただ。


 こちらを見ている三毛猫の顔を、じっと見返した。


「お腹すいた?」


 招き猫は反応しない。


「ちゅーる食べる?」


 耳が動く。


「あ」


 娘が笑った。


「そこは分かるんだ」


 ――しまった。


「全然直ってないじゃん」


 先輩猫が呆れる。


    ◇


 考えてみれば。


 妙なことは、前からあった。


 この三毛猫は、いつも自分が帰ってくる頃にいる。


 毎日ではない。


 でも。


 疲れた日。


 嫌なことがあった日。


 なんとなく誰かと話したい日。


 そんな日に限って、家の前にいる気がする。


 偶然と言えば、偶然。


 猫なんて気まぐれだ。


 そこにいる理由なんて、人間には分からない。


 それに。


 この前の蜂。


 自分たちが危ないと分かったみたいに飛び込んできた。


 友達は今でも言っている。


『絶対、空中でもう一回跳んだって』


「それはないでしょ」


 娘は一人で呟いた。


 あの時は自分も蜂に気を取られていた。


 ちゃんとは見ていない。


 だから、何とも言えない。


 けれど。


 少し前。


 ちゅーるをあげた日のことも思い出した。


「……そういえば」


 あの日。


 三毛猫は夢中でちゅーるを食べた。


 食べ終わったあとも、顔の周りに少し匂いが残っていた。


 毛づくろいをしていたけれど。


 何となく下手だった。


「猫なのに」


 思い出すと、少し笑える。


 そして。


 その日の夜。


 玄関を通った時。


 いつもの招き猫の頭を撫でた。


『おやすみ』


 その時。


 ほんの少しだけ。


 魚っぽい匂いがした気がする。


「……いやいや」


 娘は首を振った。


 玄関だ。


 家族の誰かが何か食べたのかもしれない。


 買い物袋が置かれていたのかもしれない。


 そもそも陶器の招き猫から、ちゅーるの匂いがするわけがない。


「考えすぎだって」


 自分で自分に言い聞かせる。


 友達が変なことを言うからだ。


 人の言葉が分かるように見える。


 空中を跳んだように見える。


 自分を守っているように見える。


 全部。


 そう見えるだけ。


 猫は猫だ。


 玄関の招き猫は、招き猫だ。


 それだけ。


    ◇


 その日の帰り道。


 娘はスマートフォンを鞄にしまいながら、住宅街を歩いていた。


 いつも通る道。


 見慣れた家。


 見慣れた塀。


 もう少し歩けば、自宅だった。


 その少し手前。


 細い道が交わる場所がある。


 片方には高い塀。


 もう片方には植え込み。


 車からも。


 歩行者からも。


 少し見通しが悪い。


 娘はいつものように歩いていた。


 そして。


 その少し先。


 塀の上から。


 招き猫は娘を見つけた。


 ――帰ってきました。


「ほんとによく見てるね」


 隣にいた先輩猫が言う。


 ――たまたまです。


「はいはい」


 娘がこちらへ向かってくる。


 招き猫はいつものように、塀の上で待っていた。


 その時だった。


 音がした。


 低い。


 近づいてくる音。


 車。


 招き猫が振り向く。


 細い脇道から、一台の車が来ている。


 速度はそれほど出ていない。


 けれど。


 娘からは見えていない。


 車からも。


 塀の陰にいる娘は、まだ見えていない。


 ――危ない。


 娘が道路へ一歩出る。


「ちょっと!」


 先輩猫の声。


 招き猫はもう動いていた。


 塀を蹴る。


 地面へ。


 走る。


 娘が顔を上げた。


「え?」


 車が交差点へ入る。


 運転手も気づいた。


 ブレーキ。


 タイヤの音。


 娘が固まる。


 間に合わない。


 招き猫は跳んだ。


 前脚を伸ばす。


 届かない。


 ほんの少し。


 ――もう一歩。


 空中。


 何もないところを。


 蹴った。


 身体が前へ出る。


「三毛ちゃん?」


 娘の身体にぶつかった。


「きゃっ!」


 娘が道路の外へ倒れ込む。


 その横。


 車が通る。


 鈍い衝撃。


 招き猫の身体が弾かれた。


    ◇


 痛い。


 最初に思ったのは、それだった。


 ――痛い。


 地面に転がる。


 右の前脚。


 脇腹。


 熱い。


 動かそうとすると、鋭い痛みが走った。


「三毛ちゃん!」


 娘の声。


 招き猫は顔を上げた。


 娘は無事だった。


 尻もちをついている。


 手のひらを少し擦ったくらい。


 それだけ。


 ――よかった。


「大丈夫!?」


 車も止まっていた。


 運転手が降りてくる。


「ごめん! 大丈夫!?」


「私は……大丈夫です」


 娘はすぐに招き猫を見る。


「でも、この子が」


 近づいてくる。


 招き猫は立とうとした。


 右前脚に力が入らない。


 ――まずい。


 実体を保つ力も、急速に減っている。


 このまま。


 ここで消えるわけにはいかない。


「待って!」


 娘が手を伸ばす。


 招き猫は脚を引きずりながら走った。


「三毛ちゃん!」


 痛い。


 けれど。


 止まれない。


 家の方へ。


 人目のないところへ。


 曲がり角。


 物陰。


 そこまで来たところで。


 身体が、もう保たなかった。


 視界が揺れる。


 足元が消える。


 最後に。


 娘の声が遠くで聞こえた。


「待ってってば!」


 そして。


 意識は、玄関へ戻った。


    ◇


『おい』


 桐箪笥の声が聞こえる。


『おい、大丈夫か』


 返事をしようとした。


 けれど。


 うまく声が出ない。


『どうしたの!?』


 鏡台の声もする。


 ――娘は。


『何じゃ』


 ――娘は、無事ですか。


『そんなことより、お前さん――』


 そこで。


 招き猫は気づいた。


 本体。


 陶器の身体に。


 痛みはない。


 けれど。


 何かが違う。


『……ひび』


 鏡台の声が震えた。


 招き猫には見えない。


 ただ。


 桐箪笥が、珍しくすぐに言葉を返さなかった。


『右の前脚から、腹の方まで』


 鏡台が言う。


『細く、ひびが入ってる』


 招き猫は黙った。


 実体の右前脚。


 車にぶつかった場所。


 同じところ。


『やっぱり』


 桐箪笥が低い声で言った。


『仮の身体でも、あれだけ傷つけば本体まで無事とはいかんか』


 ――すみません。


『謝るな』


 いつもなら怒鳴るところだった。


 けれど。


 その声は静かだった。


『……無事なら、それでいい』


 誰が。


 とは言わなかった。


    ◇


 少し遅れて。


 玄関の扉が開いた。


「ただいま」


 娘の声。


 いつもより小さい。


 招き猫は動けない。


 動けないのは、いつものことなのに。


 今は、それがひどくもどかしかった。


 娘は靴を脱ぐ。


 そして。


 いつものように。


 玄関の棚を見る。


 招き猫を見る。


 足が止まった。


「……あれ?」


 娘が近づいてくる。


 顔を寄せる。


 招き猫の右前脚。


 そこから脇腹へ。


 細いひび。


「こんなの……あったっけ」


 指を伸ばす。


 触れる寸前で止めた。


 娘の顔から、少しずつ表情が消えていく。


 右前脚。


 脇腹。


 今日。


 自分を庇った三毛猫。


 ぶつかった場所。


 同じ。


 その時。


 女友達の言葉が蘇った。


『この子、あんたに懐いてるっていうより、守ってるみたいじゃない?』


 そして。


 ちゅーるを食べた日のこと。


 魚っぽい匂い。


 人の言葉に返事をする猫。


 空中でもう一度跳んだという話。


 いつも。


 自分が帰ってくる頃にいた三毛猫。


「……うそ」


 娘は。


 玄関の招き猫を見つめたまま。


 しばらく動かなかった。


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