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10.守られる猫

 次の日。


 招き猫は、いつものように猫になろうとした。


 意識を集中する。


 玄関の外。


 いつもの塀。


 そこに四本の脚で立つ自分を思い浮かべる。


 けれど。


 何も起きなかった。


 ――……あれ。


『やめんか』


 桐箪笥の声が飛んできた。


 ――もう一度だけ。


『やめろと言っとる』


 招き猫は、もう一度意識を外へ伸ばそうとした。


 途端に。


 右前脚から脇腹。


 ひびの入った場所に、妙な感覚が走る。


 痛いわけではない。


 けれど。


 そこから何かが抜けていくような。


 身体がうまく繋がらないような。


 そんな感覚。


 実体は現れなかった。


『ほら見なさい』


 鏡台が言う。


『まだ無理よ』


 ――でも。


『でも、じゃない』


 珍しく強い声だった。


『あなたの本体は今、ひびが入ってるのよ』


 ――猫の身体なら。


『その猫の身体で怪我した結果が、今のお前さんじゃろうが』


 桐箪笥に言われて。


 招き猫は何も返せなくなった。


 右前脚。


 そこから脇腹まで。


 陶器の表面には、昨日までなかった細いひびが走っている。


 自然に塞がる様子など、もちろんない。


 ――治らないんですね。


『陶器じゃからな』


 桐箪笥が答える。


 当たり前のことだった。


 人間なら傷は塞がる。


 猫だって、怪我をすれば少しずつ治る。


 けれど。


 自分は招き猫だった。


 焼かれた土でできている。


『九十九年も生きといて、今さら気づいたの?』


 鏡台が少しだけ笑う。


 ――壊れたことがなかったので。


『それは大事にされてきたからよ』


 その言葉に。


 招き猫は黙った。


 九十九年間。


 落とされることも。


 捨てられることもなく。


 ずっと、この家にいた。


 誰かが埃を払ってくれた。


 誰かが場所を整えてくれた。


 誰かが次の世代へ残してくれた。


 壊れなかったのではない。


 壊さないように、守られてきたのだ。


    ◇


 夕方。


 いつもの時間になった。


 玄関の外から。


「にゃあ」


 聞き慣れた声がした。


 ――先輩。


 招き猫は外へ意識を向ける。


 近くだから、声は届く。


「今日も出てこないの?」


 ――出られません。


「そう」


 先輩猫は、それ以上聞かなかった。


 少しして。


 娘の足音が近づいてきた。


「あ」


 声がする。


「今日も一匹なんだ」


 先輩猫が、


「にゃあ」


 と鳴く。


「相方、どうしたの?」


 招き猫は玄関の中で、その声を聞いていた。


 ――ここにいます。


 届かない。


「最近見ないね」


 娘の声が少し沈む。


 先輩猫は塀の上から玄関を見る。


 人間には分からない。


 でも。


 招き猫には分かった。


 ――大丈夫です。


「聞こえてる」


 小さな声が返ってきた。


 ――すみません。


「私に謝ってどうすんの」


 相変わらずだった。


 けれど。


 しばらくすると。


 先輩猫がぽつりと言った。


「早く戻ってきなよ」


 ――はい。


    ◇


「ただいま」


 玄関が開く。


 娘が入ってくる。


 靴を脱いで。


 そのまま招き猫の前に立った。


 昨日と同じだった。


 右前脚から脇腹まで。


 細いひび。


 娘はしばらくそれを見ていた。


「……やっぱり、ある」


 当然だった。


 一晩で消えるものではない。


 けれど。


 娘は、どこか消えていてほしかったようだった。


 指を伸ばす。


 ひびの少し手前で止まる。


「触ったら、割れたりしないよね」


 ――大丈夫だと思います。


 聞こえない返事をする。


 娘は恐る恐る。


 ひびのない頭の部分を撫でた。


「昨日までなかったのに」


 ――はい。


「昨日、あの子が怪我して」


 招き猫は黙る。


「それから見なくなって」


 娘の指が止まった。


「こっちには、同じところにひびが入って」


 静かな玄関。


 桐箪笥も。


 鏡台も。


 何も言わなかった。


 娘は小さく息を吐く。


「……そんなわけないよね」


 招き猫は答えない。


「猫が招き猫になるなんて」


 逆なのだが。


 そう思ったものの。


 今は言うところではなかった。


「というか、招き猫が猫になるのか」


 ――そちらです。


 娘は少し笑った。


 けれど。


 その笑いは、すぐに消えた。


 もう一度。


 ひびを見る。


「……痛かった?」


 招き猫は。


 その言葉に、少し驚いた。


 痛かった。


 猫の身体で車にぶつかった時は。


 確かに。


 とても痛かった。


 今はもう痛みはない。


 けれど。


 あの時の感覚は覚えている。


 ――少し。


 娘には聞こえない。


 それでも。


「ごめんね」


 そう言った。


 招き猫は驚いた。


 ――なぜ謝るんですか。


「私のせい、だったりして」


 ――違います。


「……考えすぎかな」


 ――違います。


 その二つは。


 どちらも届かなかった。


    ◇


 その日の夜。


 娘は食卓で、スマートフォンを見ていた。


「ねえ」


 家族へ声をかける。


「玄関の招き猫、ひび入ってるの知ってた?」


「え?」


 母親が顔を上げる。


 招き猫は玄関から耳を澄ませた。


「どこ?」


「右の足から、お腹のところ」


 少しして。


 足音。


 母親も玄関へやってくる。


「あら、本当だ」


「前から?」


「いや……なかったと思うけど」


「だよね」


 娘の声が少しだけ強くなる。


「私も絶対なかったと思う」


 母親は招き猫を手に取らず、顔を近づけてひびを見る。


「いつ入ったんだろ」


「分かんない」


 娘は答えた。


 少しだけ間があって。


「これ、直せるかな」


「直す?」


「うん」


「かなり古いしねえ」


 招き猫は身構えた。


 かなり古い。


 その言葉のあとに。


 もし。


 新しいものに買い替えよう。


 そう続いたら。


『馬鹿』


 桐箪笥の声がした。


 ――まだ何も。


『あの子を見とれ』


 招き猫は娘を見る。


 娘はスマートフォンを操作している。


「陶器の修理……」


 画面を眺める。


「あ」


「何かあった?」


「金継ぎ」


 母親も画面を覗き込む。


「ああ。割れたところを金色にするやつ?」


「うん」


 娘は写真をいくつか見ていた。


 割れた器。


 欠けた器。


 そこを金色の線が繋いでいる。


「きれいだね」


「うん」


 娘が小さく頷く。


「これがいい」


「普通に直してもらうんじゃなくて?」


「うん」


 即答だった。


「なんで?」


 娘は少し考えた。


 それから。


 招き猫を見る。


「だって」


 右前脚から脇腹。


 そこにあるひび。


「せっかくなら、なかったことにしない方がいいかなって」


 招き猫は、その言葉を聞いた。


 なかったことにしない。


 壊れたことを。


 傷ついたことを。


 残したまま。


 直す。


『いいじゃない』


 鏡台が言った。


『金色だって』


 ――目立ちませんか。


『目立つでしょうね』


 ――……。


『でも、きっと似合うわよ』


    ◇


 それから数日。


 娘は、ずいぶん熱心に修理先を探していた。


 料金。


 修理期間。


 陶器でも大丈夫か。


 古いものでも扱ってもらえるか。


 家族にも相談して。


 ようやく一つに決めたらしい。


「これくらいなら出せる」


 娘が自分の財布を確認している。


「家にずっとあるものなんだから、家のお金でいいでしょ」


 母親が言った。


「でも」


「こういうの、家の物なんだし」


「私も出したい」


 娘は譲らなかった。


「なんでそこまで?」


「……なんとなく」


 少し困ったように笑う。


「私が直してあげたいから」


 招き猫は。


 何も言えなかった。


 九十九年前。


 この家へ来た。


 大切にされた。


 守られた。


 そして。


 目覚めた時。


 今度は自分が。


 この子に福を招こうと思った。


 守りたかった。


 恩を返したかった。


 そのはずだった。


 なのに。


 また。


 自分は守られている。


『そういうものよ』


 鏡台が言った。


 ――何がですか。


『恩返しって、一方通行じゃないの』


 招き猫は黙っていた。


『大切にしたら、大切にされることもあるのよ』


 ――私は、まだ何も返せていません。


『馬鹿者』


 桐箪笥が言う。


『何も返せておらん猫のために、あの子が自分の金を出すか』


 招き猫は。


 返事ができなかった。


    ◇


 修理へ出す日。


 招き猫は、柔らかな布に包まれた。


 九十九年間。


 ほとんど動くことのなかった玄関から。


 本体ごと離れる。


 娘が慎重に箱へ入れる。


 ――……少し怖いです。


『情けないのう』


 桐箪笥が言う。


 ――皆さんの声が、聞こえなくなります。


『しばらくの辛抱じゃ』


『ちゃんと帰ってらっしゃい』


 鏡台の声。


 箱の蓋が閉じられる前。


 娘の顔が見えた。


 少し心配そうに。


 でも。


 どこか決めたような顔。


「ちゃんと直してもらおうね」


 ――はい。


 娘は招き猫の頭を、最後に一度だけ撫でた。


「ちゃんと帰ってきてね」


 九十九年間。


 自分はずっと。


 この家族を見送る側だった。


「行ってきます」


 と言われ。


 帰ってくるのを待っていた。


 初めてだった。


 自分が。


 帰りを待ってもらうのは。


 箱の蓋が、ゆっくり閉じる。


 暗くなる直前。


 招き猫は。


 聞こえない声で答えた。


 ――はい。


 ――必ず、帰ってきます。


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