11.おかえり
帰ってきたのは、それからしばらく経った日のことだった。
「届いた!」
玄関の向こうから、娘の声がする。聞き慣れた声。ずっと待っていた声。
箱の中、柔らかな布に包まれたまま、招き猫はその声を聞いた。
――帰ってきました。
誰に言うでもなく、そう呟いた。
◇
箱が開き、光が入る。最初に見えたのは娘の顔だった。
「わあ……」
そっと布が外される。娘は目を丸くした。
「すごい」
右前脚から脇腹へ。以前ひびが走っていた場所には、今、細い金色の線が走っていた。
傷は消えていない。むしろ以前より、はっきり見える。けれど、ひび割れていた時とは違う。壊れた跡ではなく、ひとつの模様のように招き猫の身体を繋いでいた。
「きれい」
娘が笑う。
――目立ちますね。
『言ったでしょう? 似合ってるじゃない』
久しぶりに聞こえた鏡台の声だった。
――ただいま戻りました。
『おかえり』
『随分と派手になったのう』
桐箪笥の声もする。
――仕方ないじゃないですか。
『前より福を招きそうじゃ』
――そうでしょうか。
『金色じゃぞ』
――そういう問題ですか。
『知らん』
いつものやり取り。それが、やけに嬉しかった。
娘は招き猫を元の場所へ置いた。九十九年間、ずっといた玄関の棚の上。そこへ、また戻ってきた。
少し向きを調整してから一歩下がり、満足そうに頷く。
「うん。いい感じ」
それから、いつものように招き猫の頭を撫でた。
「おかえり」
招き猫は少しだけ言葉に詰まった。聞こえないことは分かっている。それでも、
――ただいま。
そう返した。
◇
その日の夜。家の中が静かになるのを待って、招き猫は意識を集中した。
右前脚から脇腹へ。金色に繋がれた場所。以前はそこから何かが抜けるようで、猫の身体を作ることができなかった。
今は違う。
――やってみます。
『無理はするなよ』
桐箪笥が言う。
――分かっています。
『本当に?』
鏡台の問いに、
――……たぶん。
と答えると、すかさず桐箪笥が返した。
『そこは「はい」じゃろうが』
招き猫は意識を外へ伸ばした。玄関、そのすぐ向こう。いつもの場所へ。
四本の脚。耳。尻尾。柔らかな毛。三毛模様の身体。
次の瞬間、足の裏に冷たい地面の感触があった。
恐る恐る前脚を見る。ある。右前脚も動く。一歩。もう一歩。
痛くない。
――よかった。
そう思った時、
『ちょっと待って』
鏡台が言った。
――なんですか。
『あなた、その脚……金色になってるわよ』
招き猫は自分の右前脚を見る。
白。黒。茶。
そこに、以前はなかった色があった。金継ぎされた場所と同じように、右前脚から脇腹へ、細い金色の毛が一本の筋になって走っている。
――……猫に金色の毛なんてありますか。
『お前さんは普通の猫じゃなかろう』
――そうですが。
『いいじゃない。本体とお揃いね』
鏡台は楽しそうだった。
招き猫は少し複雑な気持ちになったが、脚を動かしてみる。痛くない。ちゃんと歩ける。それなら金色くらい、大した問題ではない。
思わず走り出す。
『こら!』
――大丈夫です!
『そういう奴が一番危ないんじゃ!』
玄関の周りを小さく一周する。前よりも少しだけ慎重に。でも確かに走れる。跳べる。
また猫になれた。
「遅かったじゃない」
塀の上から声がした。
見上げると、桜耳の三毛猫がいた。
――先輩。
「その呼び方、まだ続けるの?」
――駄目ですか。
「好きにすれば」
招き猫は塀へ跳び乗る。
先輩猫は右前脚を見た。そして、少し固まった。
「……何それ」
――金継ぎの色が出たようです。
「猫なのに?」
――猫なのに。
先輩猫が鼻先を寄せ、右前脚から脇腹まで匂いを嗅ぐ。
「ほんとに毛だ」
――はい。
「変な猫」
――今さらですか。
「今までで一番変」
招き猫は少し落ち込んだ。
先輩猫はもう一度金色の筋を見てから、
「でも、悪くないんじゃない?」
と言った。
――そうですか。
「大事にされた跡なんでしょ」
招き猫は何も言えなかった。
先輩猫はもうこちらを見ず、前脚を舐め始める。
「で。戻ってきたんだから」
ちらり、とだけこちらを見る。
「明日から、またパートナーってことにしてあげる」
招き猫は笑った。
――ありがとうございます。
「調子乗らないでよ」
◇
翌日。
招き猫は、いつもの塀の上にいた。隣には桜耳の三毛猫。
久しぶりだった。ただ並んで座っているだけ。それだけなのに、不思議なくらい嬉しかった。
「落ち着きない」
先輩猫が言う。
――久しぶりなので。
「座ってるだけでしょ」
――だからです。
しばらくして、足音がした。
「来たよ」
招き猫の耳が動く。
――はい。
角を曲がって娘が現れた。いつもの鞄。いつもの歩き方。そして、いつものように家の前を見る。
足が止まった。
「……いた」
その一言だけで、招き猫の胸が少し熱くなる。
娘はこちらへ歩いてきた。最初は普通に。途中から少し早足で。
「三毛ちゃん」
招き猫は逃げなかった。
娘が塀の前でしゃがむ。
「久しぶり」
――お久しぶりです。
「にゃあ」
今度は、あえて返事をした。
娘が笑う。
「やっぱり返事する」
手が伸び、頭を撫でる。耳の後ろ、首。
そして、止まった。
「……え?」
娘の視線が右前脚へ落ちる。
招き猫も娘を見る。
事故の時、ここを傷つけた。血がつき、脚を引きずった。そして玄関の招き猫には、同じ場所にひびが入った。
娘が直した。
金色に。
今、目の前にいる猫にも、まったく同じ場所へ金色の毛が走っている。
娘の指が、そっとその筋へ触れた。
「……金色」
右前脚から脇腹へ、指がゆっくり動く。
招き猫は動かなかった。
娘はしばらく黙っていた。
もう、ごまかせない。
そう思った。
やがて娘は小さく息を吐いた。
「三毛ちゃんだったのに」
招き猫は黙る。
娘の口元が、ふっと緩んだ。
「四毛猫になっちゃったね」
招き猫は固まった。
隣の先輩猫も一瞬黙る。
「四毛猫」
小さく繰り返した。
――笑わないでください。
「笑ってない」
明らかに笑っていた。
娘は金色の毛を優しく撫でた。
「でも、よく似合ってる」
――ありがとうございます。
「にゃあ」
「また返事した」
娘がまた笑う。
その顔を見て、招き猫は思った。
きっと、気づいている。
少なくとも、何かがあるとは。
けれど娘は聞かなかった。
どうして同じ場所なのか。どうしていなくなったのか。どうして金色になったのか。
何も。
ただ、もう一度招き猫の頭を撫でた。
「……いつもありがとう」
招き猫は動けなかった。
娘は笑っている。いつもの顔。何も知らないような、それでいて全部知っているような顔だった。
招き猫は、ようやく、
「にゃあ」
と鳴いた。
ありがとう。
こちらこそ。
そんな意味で。
娘に届いたかは、分からない。
◇
その夜。
娘は玄関で足を止めた。
金継ぎされた招き猫。右前脚から脇腹へ走る金色の線。そこへ、そっと指を添える。
「今日ね。あの三毛ちゃん、戻ってきたよ」
――知っています。
「怪我も治ってた」
――はい。
「金色の毛、生えてた」
――……はい。
娘は少し笑う。
「四毛猫」
――それ、気に入ったんですか。
もちろん聞こえない。
娘の指が金色の線をなぞる。
「ここ。同じところだった」
招き猫は何も言わなかった。
娘もしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑う。
「……偶然だよね」
答えはない。
「うん」
自分で頷く。
「偶然ってことにしとく」
招き猫は驚いた。
娘はそれ以上、何も追及しなかった。
頭を撫でる。
「だって、その方がいい気がするから」
それから、いつものように、
「おやすみ」
と言った。
――おやすみなさい。
娘が二階へ上がり、玄関が静かになる。
『気づかれたな』
桐箪笥が言った。
――……はい。
『あの子、賢いもの』
鏡台も楽しそうだ。
――どうしましょう。
『どうもせんでいいじゃろ』
――でも。
『あの子が知らんふりをしてくれとるんじゃ。なら、お前さんも猫らしく知らんふりをしとけ』
――猫らしく。
『得意じゃろ?』
返事をしすぎる。人を見すぎる。毛づくろいが下手。猫なのに猫らしくない。
散々言われてきた。
そして今は、三毛猫なのに金色まで混じっている。
招き猫は少しだけ笑った。
――まだ、練習中です。
◇
翌朝。
「行ってきます」
娘が靴を履き、玄関の招き猫を撫でる。
いつもの朝。
何も変わらない。
けれど、以前とは少しだけ違う。
「今日もよろしくね」
その言葉に、遠い記憶が重なった。
九十九年前。この家へ来たばかりの頃。まだ何も知らなかった頃。
一人の女性が、同じように頭を撫でてくれた。
『これからよろしくね』
あの時は、その意味など分からなかった。
今なら分かる。
ずっと自分は、福を招いていたのかもしれない。
大きな奇跡ではない。
誰かの忘れ物を見つけたり、少しだけ自信を持たせたり、家の前で待っていたり、美味しいものを一緒に食べたり。
危ない時には、ほんの少し手を貸す。
守ることもある。
守られることもある。
それでいいのだと思う。
「じゃあね、四毛ちゃん」
娘がいたずらっぽく笑った。
招き猫は思わず返事をしそうになる。
――その名前は……。
けれど娘はもう玄関を開けていた。
朝の光が差し込む。
招き猫は、聞こえない声で答える。
――行ってらっしゃい。
扉が閉まった。
◇
しばらくして。
玄関の外、いつもの塀の上に二匹の猫が並んでいた。
「今日も待つの?」
先輩猫が聞く。
招き猫は、娘が歩いていった方を見る。
――待つんじゃありません。
「じゃあ何」
少しだけ考えてから、答えた。
――ここにいたいんです。
「ふーん」
先輩猫はそれ以上何も言わなかった。
少しして、
「ところで」
――はい。
「四毛ちゃん」
――やめてください。
先輩猫が笑った。
風が吹き、二匹の毛を揺らす。
白。黒。茶。
そして、ほんの少しの金色。
玄関の中には、金色の傷を持つ招き猫。
外には、その家を見守る少し変わった四毛猫。
九十九年前、誰かに託された願いから始まったものは、いつの間にか自分自身の願いになっていた。
福を招かなければならないからではない。
約束を守らなければならないからでもない。
ただ、この家族が。
この子が。
笑っていてくれたらいい。
だから、これからもこの子のそばにいよう。
できることは、きっとほんの少しだけ。
それでも。
その小さな幸せを、今日も、明日も。
招いていこう。




