エピローグ.幸福を招く猫
金色の毛が生えてから、招き猫には新しい呼び名ができた。
「四毛ちゃん」
もちろん、名付けたのは娘だった。
本人としてはあまり気に入っていない。
――私は招き猫なんですが。
「人間から見れば猫でしょ」
いつもの塀の上で、先輩三毛猫が言う。
――せめて三毛猫で。
「もう三毛じゃないじゃん」
右前脚から脇腹へ走る金色の筋を見る。
――……。
「諦めな」
それ以来、娘は家の前で見かけるたびに、
「ただいま、四毛ちゃん」
と声をかけるようになった。
招き猫も、
「にゃあ」
と返す。
もう、返事をしすぎだと怒られても構わない気がしていた。
◇
ある日の放課後。
「やっぱり増えてるよね」
娘の隣で、女友達が言った。
「何が?」
「色」
塀の上にいる招き猫を指差す。
「前、三毛だったよね?」
「うん」
「金色なんかなかったよね?」
「うん」
「じゃあ何で増えてんの?」
娘は少し考えてから、
「四毛猫だから」
と答えた。
「いや、そういう問題じゃない」
女友達は塀へ近づいた。
猫を飼っているだけあって、無理に触ろうとはしない。少し離れたところでしゃがみ、招き猫の右前脚を見る。
「ここ、この前怪我したところだよね」
「そうだね」
「で、しばらくいなくなって」
「うん」
「戻ってきたら金色になってる」
「そうだね」
「……なんでそんな冷静なの?」
娘は笑った。
「かわいいじゃん」
「そこじゃない!」
女友達は招き猫を見る。
「ねえ」
――はい。
「絶対、私の言ってること分かってるでしょ」
招き猫は動かなかった。
以前なら反応していたかもしれない。
だが、今は少しだけ猫らしくなった。
「……ほら、急に知らん顔した」
――危なかった。
先輩猫が隣で笑う。
「成長したじゃん」
女友達は娘を見る。
「この前のさ」
「うん?」
「空中で跳んだのも、やっぱり見間違いじゃなかったんじゃない?」
娘は何も答えなかった。
「蜂の時もそうだし、事故の時もあんた助けたんでしょ?」
「うん」
「それで同じところ怪我して、いなくなって、戻ってきたら金色」
「うん」
「……何か知ってる?」
娘は塀の上の招き猫を見る。
目が合う。
ほんの少しだけ笑って、
「前に言ってたじゃん」
「何を?」
「この子、私に懐いてるっていうより、守ってるみたいって」
「ああ」
「当たってたのかもね」
「……は?」
女友達の目が大きくなる。
「ちょっと待って。それどういう――」
「内緒」
「ずる!」
「私も全部分かってるわけじゃないし」
それは本当だった。
招き猫が何なのか。
いつからここにいるのか。
どうして猫になれるのか。
娘は何も知らない。
ただ。
玄関の招き猫と、家の前の四毛猫が同じ存在なのだろう。
それだけは、もう分かっていた。
「じゃあ空中で跳んだのも?」
女友達が食い下がる。
娘は少しだけ考える。
「偶然ってことにしとくの」
「何その便利な言葉」
「便利だよ」
女友達は納得していない顔だった。
それでも、招き猫の秘密を無理に暴こうとはしなかった。
「……まあいいけど」
そして塀の上を見る。
「ありがとね、四毛ちゃん」
招き猫は少し迷ってから、
「にゃあ」
と鳴いた。
「ほら! 今絶対返事した!」
「猫だからじゃない?」
「絶対違う!」
娘が笑う。
招き猫も、少しだけ目を細めた。
◇
さらにしばらく経った日のこと。
娘が、見慣れない男の子と一緒に帰ってきた。
制服は同じ。
年も同じくらい。
娘はいつもより少し楽しそうだった。
「じゃあ、また明日ね」
「おう」
家の前で二人が立ち止まる。
招き猫は塀の上から眺めていた。
隣には、先輩三毛猫。
――あの方は?
「知らない」
娘は少し照れたように笑っている。
男の子も楽しそうに何か話している。
招き猫は、何となく気になった。
理由は分からない。
ただ。
男の子が笑っているのに、その声と顔が少し合っていないような。
そんな気がした。
先輩猫の耳が伏せられる。
「……あいつ嫌い」
――え?
「なんか嫌」
男の子が二匹に気づいた。
「猫いるじゃん」
「うん。よく家の前にいるの」
娘が嬉しそうに言う。
「この子たち、かわいいよ」
「へえ」
男の子が塀へ近づいてくる。
そして。
「フシャーッ!」
先輩猫が牙を見せた。
娘が驚く。
「えっ?」
招き猫も。
なぜか。
身体が勝手に動いた。
「フシャーッ!」
二匹同時だった。
「ちょ、どうしたの!?」
娘が慌てる。
男の子は顔をしかめた。
「何こいつら」
そして、足を軽く振って追い払うような仕草をした。
「しっしっ」
招き猫の毛が逆立つ。
「フシャーッ!」
「ちょっと!」
娘の声が変わった。
「蹴らないでよ」
「蹴ってないって。猫嫌いなんだよ、俺」
「だからって足出さなくてもいいじゃん」
「別に当ててないし」
さっきまで楽しそうだった娘の顔から、少しだけ笑みが消えた。
男の子は気づいていない。
「じゃあ、また明日」
「……うん」
男の子が去っていく。
二匹はその背中を見送った。
「やっぱり嫌い」
先輩猫が言う。
――私もです。
「何が嫌だった?」
――分かりません。
「私も」
二匹で顔を見合わせる。
娘が塀の前へ来た。
「珍しいね。二匹とも」
先輩猫は知らん顔。
招き猫も真似して毛づくろいを始める。
「……あんたたち」
娘がじっと見る。
「何か分かった?」
――はい。
返事はしない。
「まあ、いいけど」
娘は小さく笑った。
その日は、それで終わった。
◇
数日後。
「やめといて正解だったわ」
女友達が言った。
二人は家の前で話していた。
「別のクラスの子にも同じようなこと言ってたらしいよ」
「聞いた」
「しかも店員さんにめっちゃ態度悪いんでしょ?」
「それも聞いた」
娘は苦笑した。
どうやら、少し気になっていた相手だったらしい。
付き合ってはいなかった。
ただ。
もし、もう少し仲良くなっていたら。
そう考えると。
「……見る目なかったかも」
「いや、最初じゃ分かんないって」
女友達が慰める。
そして。
塀の上の二匹を見る。
「でもさ」
「なに?」
「あの二匹、最初からめちゃくちゃ嫌ってたよね」
娘も見る。
桜耳の三毛猫。
その隣の、金色が混じった四毛猫。
二匹とも、知らん顔で毛づくろいをしている。
「……そうだね」
「やっぱ何か分かってるんじゃない?」
娘は少し考えた。
「さあね」
「絶対分かってるって」
「偶然じゃない?」
「またそれ!」
娘が笑う。
女友達も笑った。
塀の上。
先輩猫が小さく言う。
「福を招くってさ」
――はい。
「いいもの持ってくるだけじゃないんじゃない?」
招き猫は毛づくろいを止める。
――どういうことですか。
「変なのを近づけないのも、似たようなもんでしょ」
――なるほど。
「まあ、今回は私たちが嫌いだっただけだけど」
――そうですね。
「結果良かったなら、それでいいじゃん」
招き猫は娘を見る。
笑っている。
それなら。
確かに。
それでいいのだろう。
◇
それからも。
この家には、大きな奇跡なんて起きなかった。
桐箪笥の中で、忘れていたものが少し見つかりやすくなる。
鏡台の前では、落ち込んだ朝でもほんの少しだけ自分を好きになれる。
雨が降りそうな日に、なぜか傘を手に取る。
帰りが遅くなった日には、家の前の塀に二匹の猫がいる。
嫌なことがあった日は。
「ただいま」
と声をかければ、
「にゃあ」
と返ってくる。
娘は笑う。
それだけ。
誰かの人生を大きく変えるような力などない。
望んだものを何でも与えられるわけでもない。
招き猫にできるのは。
ほんの少し。
背中を押したり。
危ないものから遠ざけたり。
そばにいたり。
帰りを待ったり。
それくらいだった。
けれど。
ある朝。
「行ってきます」
娘が玄関の招き猫の頭を撫でる。
「今日もよろしくね」
――はい。
扉が閉まる。
しばらくして。
外の塀の上に、二匹の猫が並ぶ。
「今日もここにいるの?」
先輩猫が聞く。
――はい。
「暇だね」
――そうでしょうか。
「暇でしょ」
招き猫は、娘が歩いていった道を見る。
遠くなっていく後ろ姿。
その先に何があるのか。
招き猫には分からない。
嬉しいことも。
悲しいことも。
きっとある。
全部を防ぐことなどできない。
全部を幸せにすることもできない。
それでも。
ほんの少しだけ。
笑える日を増やすことなら、できるかもしれない。
白。
黒。
茶。
そして、金色。
少し変わった四毛猫は、今日も家の前に座っている。
九十九年前。
一人の男から託された願いを胸に。
九十九年間。
家族から受け取ったものを胸に。
そして今は。
自分自身の願いとして。
この家族が。
この子が。
今日も笑って帰ってこられるように。
ほんの少しだけ、福を招く。
これは。
そんな――
**幸福を招く猫の物語。**




