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7.猫のひとっ飛び

 その日。


 娘は、珍しく友達を連れて帰ってきた。


「ただいまー」


「お邪魔します」


 二人分の声が玄関に響く。


 招き猫は、いつもの塀の上からそれを見ていた。


 隣には、先輩三毛猫。


 娘は二匹を見つけると、


「あ、今日もいる」


 と笑った。


 隣にいた女友達も、こちらを見る。


「この子たち?」


「そうそう。最近いつも二匹でいるの」


「かわいい」


 女友達が少し近づいてくる。


 招き猫は身構えた。


「緊張しない」


 先輩猫が小さく言う。


 ――知らない人なので。


「向こうからしたら、あんたも知らない猫でしょ」


 その通りだった。


 女友達は二匹の前まで来たが、無理に触ろうとはしなかった。


「三毛が二匹って珍しいね」


「でしょ?」


「こっちは耳切れてる」


「地域猫なんだと思う」


「へえ」


 娘は先輩猫を指したあと、招き猫を見る。


「こっちは最近来るようになった子」


 招き猫は少しだけ胸を張るような気持ちになった。


 最近来るようになった子。


 自分も、娘の中でちゃんと認識されている。


「こっちも地域猫?」


「分かんない。でも、この子と仲良いみたい」


「カップル?」


「かも」


 招き猫は先輩猫を見た。


「何」


 ――カップルだと思われています。


「人間にはそう見えるんでしょ」


 ――いいんですか。


「パートナーってことにしてあげるって言ったじゃん」


 先輩猫は気にしていない。


 娘たちはそんな二匹のやり取りなど知らず、家へ入ろうとした。


 その時だった。


「あ、待って」


 女友達が家の脇を見る。


「こっちから庭行ける?」


「え?」


「さっき外から見たら、裏に花咲いてたじゃん」


「ああ。行けるけど」


 娘は少し考えた。


「そっちは普段あんまり通らないかな」


「じゃあ見ていい?」


「いいよ」


 二人は玄関へ入らず、そのまま家の脇へ回っていった。


 招き猫は首を傾げた。


 ――あそこ、普段使わないんですか。


「そうみたいね」


 先輩猫が答える。


 確かに。


 九十九年間玄関にいた招き猫にも、家族があちらを通る姿はほとんど記憶になかった。


 細い通路の向こうには、庭がある。


 物置。


 植え込み。


 古い木。


 家族がわざわざ通らないだけで、危険な場所だと思ったことはない。


 二人の声が遠ざかる。


「こっち?」


「そうそう。そこ曲がって――」


 その瞬間。


 招き猫の耳が動いた。


 ――何か。


「どうしたの?」


 先輩猫がこちらを見る。


 音。


 小さな。


 けれど、いくつも重なる羽音。


 招き猫は立ち上がった。


 鼻にも、今まで気にしたことのない匂いが届く。


「……あ」


 先輩猫も気づいたらしい。


「まずいかも」


 ――何がですか。


「蜂」


    ◇


「うわっ!」


 女友達の声がした。


「どうしたの?」


「なんか飛んできた!」


 家の脇。


 植え込みの奥。


 人の目につきにくい場所に、小さな巣があった。


 家族が普段通らないせいで、誰も気づいていなかった。


 そこへ女友達が近づいた。


 枝に触れた。


 巣が揺れた。


 蜂たちにとっては、それだけで十分だった。


「蜂!?」


「待って、動かない方が――」


 娘の声。


 招き猫は塀の上から身を乗り出した。


 見える。


 数匹。


 そのうち一匹が、女友達の顔の周りを飛んでいる。


 さらに後ろから。


 もう一匹。


 娘の方へ。


 ――危ない。


 そう思った。


 いや。


 思った時には、もう身体が動いていた。


「ちょっと!」


 先輩猫の声が背中から飛んでくる。


 招き猫は塀を蹴った。


 一気に地面へ。


 そのまま家の脇へ走る。


 猫の身体になってから、何度も走る練習はした。


 けれど。


 こんなに速く走ったことはない。


 四本の脚が勝手に前へ出る。


 考える暇などなかった。


「きゃっ!」


 女友達が頭を抱えた。


 蜂が近づく。


 招き猫は跳んだ。


 前脚を振る。


 ぱしっ。


 一匹。


 蜂が横へ弾かれる。


「え?」


 女友達の声。


 着地。


 次。


 娘の肩の近く。


 別の蜂。


 招き猫はもう一度跳ぶ。


 届く。


 そう思った。


 けれど。


 ほんの少し。


 足りない。


 ――届かない。


 娘の顔のすぐ近く。


 蜂がいる。


 その瞬間。


 九十九年前の声が蘇った。


『……家族を頼んだぞ』


 招き猫は、空中で脚を踏み込んだ。


 足場などない。


 それでも。


 確かに何かを蹴った。


 とん。


 身体が、もう一度だけ前へ出る。


 前脚が届いた。


 ぱしっ。


 蜂が横へ弾き飛ばされる。


 そのまま招き猫は地面へ落ちた。


 四本の脚で、なんとか着地する。


 ――今の。


 自分でも何をしたのか分からない。


 だが。


 考えている暇はなかった。


「走って!」


 先輩猫の声。


 ――え。


「巣から離れさせて!」


 招き猫は理解した。


 蜂はこちらを警戒している。


 なら。


 自分が目立てばいい。


 招き猫は二人の前を横切った。


「にゃあ!」


 今度は意識して大きく鳴く。


 蜂がこちらへ向く。


 ――こっちです。


 猫に通じるわけではない。


 蜂に通じるわけでもない。


 それでも。


 招き猫は走った。


 娘たちとは反対方向へ。


「猫ちゃん!」


 娘の声がする。


 振り返らない。


 今、返事をしている場合ではない。


 植え込みから離れる。


 家の脇を抜ける。


 蜂の羽音が少しずつ遠ざかる。


 さらに走る。


 しばらくして。


 音が消えた。


 招き猫は足を止めた。


 身体が重い。


 突然走り。


 跳び。


 実体をいつも以上に強く保った。


 疲れが一気に押し寄せてくる。


「こっち!」


 先輩猫が塀の陰から呼ぶ。


 招き猫は何とかそちらへ向かった。


「何してんのよ!」


 ――助けようと。


「見れば分かる!」


 先輩猫は怒っている。


 招き猫は一瞬、桐箪笥を思い出した。


 怒っているように見えて。


 たぶん。


 心配している。


「消える前に戻りな」


 ――まだ。


「この前のこと忘れた?」


 招き猫は黙った。


 忘れてはいない。


 二日間。


 何も分からなくなった。


 桐箪笥と鏡台を心配させた。


 ――戻ります。


「そうして」


 招き猫は家の方を見る。


 娘と友達は、もう蜂の巣から離れていた。


 二人とも無事らしい。


 それを確認して。


 招き猫は少しだけ安心した。


    ◇


「今の猫……」


 女友達は、まだ家の脇を見ていた。


「すごかったね」


 娘も驚いている。


「蜂、追い払ってくれたよね?」


「たぶん」


「猫ってあんなことする?」


「するんじゃない?」


 娘はあまり深く考えていないようだった。


 蜂の方に気を取られていたのだろう。


 けれど。


 女友達は違った。


「ねえ」


「なに?」


「今さ」


 少し迷う。


「あの猫、空中でもう一回跳ばなかった?」


 娘が首を傾げた。


「空中で?」


「うん」


「どうやって?」


「だから、それが分かんないんだけど」


 二人で少し黙る。


 女友達自身も、自分が何を言っているのか分からなくなってきた。


「……見間違いかな」


「蜂にびっくりしたんじゃない?」


「かも」


 娘はそれ以上気にしなかった。


 ただ。


 女友達は、招き猫が走っていった方向をもう一度だけ見た。


    ◇


 夜。


 招き猫は玄関の棚の上で、昼間のことを思い返していた。


『馬鹿者』


 桐箪笥の第一声だった。


 ――すみません。


『今度は何をやったんじゃ』


 ――蜂が。


『蜂と喧嘩したの?』


 鏡台が驚く。


 ――喧嘩ではありません。


『似たようなもんじゃろ』


 ――娘と、その友達が襲われそうだったので。


 二体が静かになる。


 招き猫は続けた。


 ――気づいたら、身体が動いていました。


『ほう』


 桐箪笥の声が少し変わった。


 ――福を招こう、とか。


 何をすればいい、とか。


 そういうことは、何も考えませんでした。


『それで?』


 ――ただ、危ないと思って。


 娘を。


 守らないと。


 それだけだった。


 少しの沈黙。


『それでいいんじゃない?』


 鏡台が言った。


 ――いいんですか。


『あなた、ずっと考えすぎなのよ』


 優しい声だった。


『福を招くって何だろう。何をしてあげればいいんだろうって』


 招き猫は黙って聞く。


『でも今日は、そんなこと考えなくても動けたんでしょう?』


 ――はい。


『なら、それが今のあなたなんじゃない?』


 招き猫は考えた。


 付喪神として目覚めた日。


 自分は決めた。


 この子に福を招こう。


 そのために猫になった。


 先輩に教わった。


 娘の近くへ行けるようになった。


 けれど。


 今日、蜂を見た瞬間。


 そんなことは一つも考えなかった。


 ただ。


 娘が傷つくのが嫌だった。


『あの男との約束じゃな』


 桐箪笥がぽつりと言った。


 ――分かりません。


『分からん?』


 ――はい。


 招き猫は正直に答えた。


 あの男に家族を頼まれたからなのか。


 九十九年間、この家で過ごしてきたからなのか。


 娘に毎日頭を撫でられてきたからなのか。


 チュールをもらったからなのか。


 分からない。


 ただ。


 ――無事で、よかったです。


 それだけは分かった。


『なら十分じゃ』


 桐箪笥が言った。


    ◇


 しばらくして。


 娘が二階へ上がる前に玄関へやってきた。


 招き猫の前で足を止める。


「今日ね」


 いつものように。


 誰に聞かせるでもなく話し始めた。


「三毛ちゃんに助けてもらったんだよ」


 ――知っています。


「蜂が飛んできてさ」


 娘は少し笑った。


「すごかったんだよ。ばーって走ってきて」


 身振りまでつけている。


「蜂、追い払ってくれたの」


 招き猫は黙って聞いた。


「猫って、あんなことするんだね」


 ――たぶん、あまりしないと思います。


「友達なんか、『空飛んだ』とか言ってたし」


 招き猫は固まった。


 ――見られていた。


 娘は笑う。


「さすがに見間違いだと思うけど」


 招き猫は少し安心した。


 そして。


 娘の指が、いつものように頭へ触れる。


「今度会ったら、お礼しないとな」


 温かい。


 九十九年前。


 初めてこの家へ来た日にも。


 こんなふうに頭を撫でられた。


 招き猫は、その指の感触を静かに受け止めた。


 ――お礼なら。


 もう、たくさんもらっています。


 娘には聞こえない。


「おやすみ」


 ――おやすみなさい。


 娘は二階へ上がっていった。


『で』


 静かになった玄関に、桐箪笥の声が届く。


『お前さん、空を飛んだのか』


 ――飛んでません。


『あの子の友達は、そう言っとったぞ』


 ――一歩だけです。


『空中で?』


 ――はい。


 少し間があった。


『それを飛んだと言うんじゃないかしら』


 鏡台が笑った。


 招き猫は答えなかった。


 自分でも、あれが何だったのか。


 まだ、よく分かっていなかった。


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